第43話
咄嗟の行為だったとは言え、あまり得策ではなかったと思う。渋る宮さんを押し切って、靴を片手に玄関すぐ近くにある部屋に逃げ込んだ。いま部屋を飛び出しても、彼女と遭遇するのは避けられないと判断したからだ。
ドアを閉めて息を殺していると、彼女が家に入ってくる声が聞こえた。気配を消して、通り過ぎるのを待つ。廊下を抜けていく音とともに、俺にも少し余裕が生まれた。
人の家の部屋を勝手に開けたりするのは、本当に申し訳ないと思う。彼女が帰ったら、宮さんにはいくらでも頭を下げるつもりだ。
そうしてでも、俺はいま彼女に会うわけにはいかない。会ってしまったら、絶対に。感情のままに。
(………仕事部屋か?)
寝室だったら流石に気まずいが、ここは俗に言う書斎と呼ばれる雰囲気に近い。電気を付けていないから、昼間と言えど暗い部屋。それだけ日差しが入ってこない場所であった。
机の色も分からない。その上には白色のノートパソコンが置かれているようだ。その周りは、沢山の本が棚に詰め込まれていて荘厳さすら感じる。
加えて、傍らには電子キーボードもある。多趣味なんだな。あの人って。
とにかく、あまりまじまじ見るのはやめよう。あとは山元さんが帰るのをここでジッと待つだけだ。なるべく早く帰ってくれると嬉しいんだけど。
そんなことを考えていると、また廊下に足音が響く。よく響くから、一層のこと息を殺した。靴を履いている。
よし、上手く誤魔化せた――と思ったが、そんな彼女を宮さんが呼び止めた。
「これ、あなたに」
ドキッとした。その言い草、きっとコートだ。あの紙袋を今ここで差し出したに違いない。にしても、玄関が近いとこうも会話が聞こえるのか。
……聞いちゃいけないような気がしたけど、二人の会話から耳を離せなかった。
「ど、どうして……」
ドア越しに聞いた声。すごく久しぶりに聞いたあの子の声。綺麗で、可愛くて、俺の心を優しくくすぐってくれる。
でも、俺が知っている時よりも震えていて、少しだけ寂しい。無論、俺に責任があることぐらいは、なんとなく分かる。
「新木さん……」
胸を掴まれた感覚がしたけど、それはほんの一瞬。俺に気付いたわけではなくて、俺が持ってきたことに気が付いたらしい。
あぁ、痛い。胸だけじゃなくて、全身が痺れている。掴まれた感覚は一瞬なんかじゃなくて、多分出会った時からずっとそうなのだ。
ひっく、ひっく、と彼女の肩が揺れている。視覚的に見たわけじゃない。聞こえる声からそう推察するしかなかった。
とにかく、全身に力を入れて堪えるしかないのだ。今の俺には。ここで飛び出して、彼女を包み込むことが出来たならどれだけ楽だろう。だけど俺はライトノベル主人公のような勇気は無い。
(……………あぁ)
ただ耐える。耐える。堪える。
ほんの数十秒だったけれど、その間何度も俺は迫り来る感情の風を受けた。一歩でも動いてしまったら崩れると思った。だから、あぐらを組んで両膝を地面に張り付けるように両手で押さえた。
そうでもしないと、本気で体が動きそうだった。自分の意志に反して、彼女を守りたいという本能が。
理性は必死に俺を諭す。もう一度、表舞台に立ったあの子を見たいと。そうだ。それがあるから俺は、彼女との関係に一線を引いてきたんだ。
いいや、本当は。友達になったあの時から、いつかこうなるんじゃないかって思ってた。その時は深く考えなかった。俺が身を引けば済むと思っていたから。でも――そんな単純な話ではないのだ。
だから早く、早く、この場所から出て行ってくれ――。
「……………意気地なしっ」
そうだ。俺は意気地なしだ。もっと貶してくれれば、この感情を切り離せるのに、彼女はそれ以上何も言わなくなった。代わりに溢れ出る感情を誤魔化すつもりも無くなったらしい。
今にも頭が狂ってしまいそうだ。自分を押し殺してまで、このまま彼女を行かせていいのだろうか。ここで呼び止めないと、一生後悔するのではないか。
いいや。
そんなのは、俺のエゴにすぎない。
分かっている。分かっているからこそ、ぐしゃぐしゃになった顔を隠すつもりもなかった。
彼女にも負けないぐらいに、嗚咽に近い涙をこれでもかと吐き出す。すぐそこにあの子が居るのに。バレるかもしれないのに、溢れ出る本心を騙すことが出来なくなっていた。
突然、ドアが開いた。勢いよく。この部屋に差し込む明かりが眩しくて、つい顔を背けてしまう。
「――追いかけないの?」
宮さんだった。「えっ」と漏れた言葉とともに玄関に視線をやる。そこには誰も居なくて、彼女が出て行ったあとだった。
ぐしゃぐしゃになった俺の顔を見ても、宮さんは笑わない。それどころか、少し憐れんだ目で見ている気もする。それに、その言葉。これまでの彼女の発言を真っ向から否定するモノだ。
「………追いついたらきっと」
「なに?」
「抱きしめてしまう」
「そう」
そんな本音にも、怒らない。嫌味の一つぐらい覚悟して言ったのに、全然そんなことなくて。今は罵倒してくれた方が気が楽なのに。どうしてそんな時に限って、そんな真剣な顔をして俺のことを見つめるのだろう。
「これ。あの子、結局受け取り忘れたのよ」
「……」
「どうする?」
俺の前に紙袋を置く。合わせて、彼女も俺と同じように床に座り込んだ。目線の高さが合うことで、少しだけ圧迫感が無くなった。
話を戻すと結局、山元さんはソレを受け取らずに出て行ってしまったらしい。結論から言うと、俺が目論んだ計画は失敗。また振り出しに戻ったわけだ。
いや、今なら確かに。宮さんの言う通り、追いかければ間に合わないこともないだろう。
「聞いたでしょ。あの子の声」
聞いたさ。
「もう、私には何も出来ない」
どうして、なんて聞くのは野暮か。
「もう、あなたしかいないの」
言い過ぎだ、なんて言える資格はなかった。
宮さんの表情は、俺が出会った中で一番弱々しかった。多分だけど、彼女もまた山元美依奈のことを心配していたからこそ、今のこの状況に頭を抱えていたのだろう。
そして、それがあからさまになった。新木吾朗という存在が全ての元凶であると明らかになった。
俺に責任を取れ、と言っているわけではない。ただこの状況を打破してみろと言われている気がした。巻き込まれた側だったけれど、彼女と接する内に、いつしか俺が感情に巻き込む側になっていたわけだ。
「………届けます」
一通り泣いたことで、吹っ切れてしまった。あんな彼女をもう二度と見たくないから、そうなるぐらいなら、少しぐらいのリスクは背負う。宮夏菜子という存在がソレを邪魔していたけれど、今は黙認してくれるはず。
「……ありがとう」
「いえ。その……」
「ん?」
「ご迷惑をおかけしました」
立ち上がって、彼女に頭を下げた。元々、勝手に部屋へ入ったことで謝るつもりだった。でもこの謝罪は、もっと前から。色々なことに対する謝罪である。
「ふふっ。全くね」
その意味が伝わったかのような。微笑みを聞いたから、少しだけ安堵した。そのまま靴と紙袋を持って玄関へ。そこには微かに、彼女の匂いが残っていた。
靴を履いて、息を整える。まだそこまで遠くに行ってないはず。合流出来なかったとしても、電話でも何でもして彼女に会う。
理性が抗ってるわけでもない。今でも少し、やめた方がいいと思ってる自分がいるのも確かだ。だけどそうしないのは――もう本心に心が呑まれてしまったから。
いや、単純に後悔する。ここを逃せば、もう彼女に連絡することは無くなる予感しかしなかったから。
「新木君」
「はい」
「心を抱きしめるのは、良いよ」
それが出来たら、今ここに居ない。そう言うと、宮さんは笑った。出会った中で、一番の笑顔で。
冬の空。ポツポツとある雲が俺を見ている。やがて夕焼けに染まる青空は、彼女が今どこにいるのかも知っているのだろう。
今から、君に会いに行く。
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