第42話


 歌も踊りも、体があの頃の感覚を取り戻そうと躍起になっている。まるで、乾き切った心を誤魔化すように。

 ここに戻ってくるのにも慣れた。夏菜子さんは「もう一つの家だと思って」なんて言ってくれている。そういうわけにはいかないけど、今の私にはそれがすごく嬉しかった。


 エレベーターを降りると、地上にはない澄んだ空気。ううん。そう感じるだけで、全然綺麗なんかじゃない。でも、少し違う味。

 部屋の前に立って二度目のインターホンを押す。合鍵を渡されたけど、流石にそれはと言って断った。ビッグになったら受け取りますと告げたら、夏菜子さんは嬉しそうに笑ってくれた。


「おかえりなさい」

「はい。お疲れ様です」


 出迎えてくれた彼女は、いつもより機嫌が良さそうだ。ここ数日は色々な人とやり取りする機会が多かったせいか、ピリついていたけど落ち着いたみたいで安心。

 しゃがむこともせず、前を見たまま足で靴を脱ぐ。そもそも、レッスンの日はそんなお洒落な格好をしない。化粧だってしていないし。


 そもそも、今日は長居するつもりもなかった。ここに来たのだって、簡単な報告と今後の予定を聞きたいから。メッセージでも良いと思ったけど、誰かと話したい感情を誤魔化しきれなかった。

 リビングに入ると、見慣れた光景。別に何も驚くことはないけど、一つだけ違和感があった。


「誰か来てたんですか?」

「えぇ。ちょっとね」


 テーブルの上には、グラスが二つ置かれていた。一つは半分まで減っていて、もう一つは全く手を付けていない。

 この光景、なんとなく懐かしいな。小学生の頃、先生が家にやってきた家庭訪問。母親がコーヒーとお菓子を差し出しても、全く手をつけず帰っていく彼らを不思議に思っていた。


「……私もお茶もらっていいですか?」

「もちろん」


 事務所に居る時間も増えたから、家から自分用のグラスを持ってきている。桃色の可愛いコップ。家では滅多に使ってなかったから、ちょうど良かった。

 キッチンに入って、冷蔵庫の前に立つ。背中には換気扇があって、コンロがある。宮さんはいつもここで電子タバコを吸っている。


 けど今日は――鼻を抜けていく微かな香り。体を駆け巡って駆け巡って、呼び起こさせる記憶。追憶。疼く胸。

 冷蔵庫を開けて、冷気を体に浴びる。感情を冷ますように満遍なく受け止める。麦茶が入ったケースを手に持って取り出す。


 クシャン、と独特な音を立てて冷蔵庫の扉は閉まる。振り返って、換気扇を見る。何もない。視線を落とす。灰皿には電子タバコの残骸だけ。いつもと変わらない。何ら変わらない。

 麦茶をグラスに注いで、再び冷蔵庫に戻す。キッチンを出ると、夏菜子さんは私に背を向けて座っていた。反対側には一杯になった紅茶。なるほど。そこにお客さんが座っていたらしい。


「片付けましょうか?」

「いや、いいわ。どうせ飲むから」

「そう、ですか」


 捨てるのも勿体ないし。私でもそうしたかもしれない。ただその席に座るのは気が引けたから、夏菜子さんと斜めに向かい合うように腰を落とした。

 頬杖を突いて紅茶を啜っている。この人は、いま何を考えているのだろう。聞いたところで、適当に誤魔化されるのは目に見えている。私も注いだ麦茶を口に含む。寒いとはいえ、動いた後は喉が渇く。


「レッスンは順調みたいね」

「はい。おかげさまで」


 実際、夏菜子さんが紹介してくれたトレーナーのレッスンはサクラロマンス時代の人よりも波長が合う。クオリティも高いし、自身のスキルが高まっていくのがよく分かる。


「そろそろ本格的に仕事を入れられそうね。と言っても、しばらくは撮影がメインになるけど」


 仕事というと、それこそ色々だ。これまでのキャリアはあるけど、私は駆け出しと同じ。まさに二人三脚で頑張るつもりだ。

 曲をリリースするにも、いかんせんお金が必要。いきなり売り出してヒットするかは分からないし、まずは知名度を上げなきゃいけない。無難に活動していては、多分追いつかないし。

 そういう意味では、ポスター起用は正解だったと言える。揺れる。感情の波が一段と大きくなっては、また私の心を弄ってくる。まるで、閉じ込めてしまった想いを揺り起こすように。


「あの、タバコ、変えました?」


 夏菜子さんは、グラスに手を掛けたのをやめた。そう問いかけたから。ここでようやく、私たちの目が合った。


「どうして?」

「あ……いえ……」


 いつもと匂いが違った、と言えば済む話。でもその証拠になるのは何一つない。吸い殻もいつも通りだし、私の思い違いなだけかもしれない。

 それに踏み込まれるのが嫌だったから、何も言わなかった。言えなかった。自身の心を守るための防衛本能のように、分かりやすく視線を伏せて。


「なーに? 気になることでもあるの?」

「……べ、別に。勘違いですっ」

「ふーん」


 こういう時の夏菜子さんは、いつも深く踏み込んでこなかった。私に気を遣っているのかは分からないけれど、ありがたいのは確かだった。

 麦茶を一気に飲み干して、席を立つ。グラスをキッチンに持って行って、そのまま水の流れに身を任せる。よく冷える。それは指先。


(…………ばか)


 泡立つ洗剤でグラスを磨く。痒いところにも手が届く。自分の心にも届いたらいいのに、なんて考えるのはおかしな話だ。

 水で流して、さっきよりも綺麗になったグラスを乾拭きする。奪われていく水分。カラカラに乾き切った桃色のソレを、ただジッと見つめるだけ。

 彼から貰ったわけではない。何かゆかりがあるわけでもない。けれど、コレを見ていると少し悲しくなった。


 あぁ、そう。ただ自分の感情が映し出されているだけなんだと気づいて、そのまま棚に戻した。


「今日は帰りますね」

「そう。お疲れ様」


 リビングを出て、玄関までの廊下を歩く。ほんの数メートルだけの短い直線。レッドカーペットのように光り輝いているわけでもない。

 空想。私の未来はどんな風になっているのだろう。大舞台で活躍できているだろうか。そうなっているといいな、なんて思いながら少し汚れていたスニーカーを履いた。


「ミーナちゃん」


 夏菜子さんに呼び止められた。見送りに来たのだろうかと思い、振り返る。彼女の手には紙袋があった。


「あ………」

「これ、あなたに」


 追憶。雪が降る。あの街中で、震えながら、かすみながら、ただただ虚しい感情のままに人波を泳いだあの日。

 私が喫茶・スウィートを飛び出したから、あの店に放置されていたコート。それが丁寧に詰められていて、一気に蘇る感情。そして――彼の表情。


「ど、どうして……」

「どうしてだと思う?」


 その言い方は――最早肯定以外の何でもない。やはり、あの匂いは彼のモノ。私が好きな、彼が吸うタバコの匂い。鼻を抜けて痺れていく感覚は、他のタバコじゃ感じない。

 だから私の直感は正しかった。でも、欲しいのはこの紙袋でもなんでもなくて――ただ彼に会いたい。それだけの想い。


「新木さん……」


 本当に彼が届けてくれたどうかなんて分からない。でも、あの香りがした時点で私が信じるには十分すぎる証拠。

 あぁ、胸が痛い。痛いのに、優しくて。何故だか、すごく胸が暖かくなる。ふわふわと体が浮いてしまいそうなほどに。こぼれ落ちる涙も、決して悲しみではない。


 ただ、彼が側に居る気がしただけ。


「……………意気地なしっ」


 直接渡せば良いのに。どうしてこんな回りくどいことをするのだろう。無論、私のことを思ってのこと。知ってる。彼は誰よりも私のファンで、私のことを考えてくれてる人だから。


 だからなおさら、嫌味の一つぐらい言いたくなる。


「ミーナちゃん」


 夏菜子さんに色々と疑われても仕方がない。この一週間、自分を騙し騙しやってきたけれど、そのツケが今になってやってきた。

 感情に嘘をつけない。誤魔化せない。震える体を必死に止めようとするけれど、それも出来ない。いずれにしても、このままここに居たら、彼の方にも迷惑がかかる。


「……大丈夫ですっ。それじゃ」


 ぐしゃぐしゃになった顔で、目一杯強がった。誤魔化しきれてなかったけど、夏菜子さんは追ってこなかった。


 あぁ、タバコの匂いが恋しい。

 ねぇ、あなたはどう思うの?


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