第40話


 彼女と話してから一週間が経った。

 相変わらず寒い日が続くが、これまでの日常が戻ってきたような感じがして、どこか懐かしくもあり、虚しくもある。


 結論から言って、これで良かったんだ。

 あの子には夢を叶えてもらいたい。俺としても、もう一度光り輝くを見ていたいから。だから、あの日。俺は自分の心を強く突き放した。もう俺にそんな顔を見せるなと言わんばかりの顔をして。


「…………暇だ」


 ちょうど一週間だから、今日は日曜日。休日出勤もなく、ただ家で動く気の無い体を寝かしているだけの男。今は仕事をしている方が気が楽だ。だからこの一週間、平日が一瞬で終わった感覚である。


 朝の9時過ぎ。ベッドに籠るのは嫌だったから、着替えてソファに横になっている。やってることは変わらないが、気持ちの問題。こっちの方がまだ、動く気力を保てるから。


 彼女はコートも着ないで、飛び出していった。追いかけようと思ったけど、そんな自分を押し殺してしまった。あの場面でそうすると、もう彼女のことを離したくなくなる。本能がそう言った。

 マスターに彼女の分のカレーを食べさせたのも悪かった。胃もたれするとボヤいていたが、残さず食べてくれたのは自身が作ったモノだからだろう。


 山元さんの忘れ物は、俺の手元にあった。マスターに保管しておいてもらいたかったが、彼は俺の提案を否定した。お前が責任を持って持って帰れと。何も言えなくて、素直に従った。


 俺の衣服しかないクローゼットに詰め込むのは気が引けて、寝室に置きっぱなしにしている。シワになると申し訳ないから、紙袋に入れることもしない。タバコの匂いがついていないか不安になるけれど、この家にある時点で避けられない気もする。


 そもそも、彼女の私物が自分のテリトリーにある時点で可笑しな話なのである。

 さすがにこのままにしておくわけにもいかない。早いところ返さないと、あのコートに顔をうずめるという変態的な未来しか見えない。


(でもなぁ……)


 とにかく、会いづらい。ソレに尽きた。

 この間は「会わない方がいい」なんて言って突き放したのに、こんな簡単に連絡をしていいものか。

 いいや、流石にきついな。ダサいというか、単純にどんな顔をして会えばいいか分からない。二、三日に一回ぐらいメッセージのやりとりもしていたが、この一週間はソレもない。完全に俺たちの関係が変わろうとしていた。


 それに、あのマスター。完全に俺のことを揶揄ってる。忘れ物は店に置いておくのがセオリーだろう。彼女が取りに来るかもしれないし。

 ただ、今週ほぼ毎日通ったが、彼から山元さんの話を聞かなかった。多分というか、ほぼ確実に来ていないのだろう。そりゃそうだよな。俺が居るかもしれないのに。


「あ……宮さんなら」


 彼女の自宅に置かせてもらうことは出来ないだろうか。事務所でもあるから、山元さんだって足を運ぶはず。それなら、持って帰ってもらうこともできるだろう。誰が持ってきたかまでは、宮さんも言わないだろうし。


 体を起こして、寝室のクローゼットへ向かう。スーツの内ポケットから名刺入れを取り出して、彼女のソレを探す。最近は社外の人と会うことも減ったから、すぐに見つかった。


「……やっぱ携帯だよな」


 事務所の固定電話もあったが、万が一ということもある。スマートフォンに電話した方が確実だ。別に嫌味を言われてもいい。このままの状況が嫌なのだ。

 さっきまで居たベッドに座って、番号を打ち込む。呼び出し音はやけに長い気がしたけれど、それもやがて不機嫌そうな声に変わった。


「はい、宮ですが」

「あ、新木です。すみませんいきなり」


 周りの音は聞こえない。割と静かな空間に居るみたいだ。けれど忙しそうな雰囲気はある。芸能の仕事に土日もクソもないか。申し訳ないことをした。

 でも俺と分かった瞬間、分かりやすくため息を吐く。一歩間違えればパワハラだよそれ。だけど慣れてる自分が居て、いよいよ危ないと思う。


「なーによ。嫌な予感しかしないわね」

「酷い言い草ですね。そんな大したことじゃないんですけど」

「ほんとかしら?」

「えぇ、ほんとですよ」


 全く信じていないな。まぁいい。俺としてはとにかく届けてしまえばそれで良い。


「実は届け物を預かってて」

「届け物? 私に?」

「宮さんにというか、山元さんに」


 ソレを聞いた彼女は懐疑的なリアクションをしたが、反論を許す前にこっちから仕掛けた。


「ほら、これからは気軽に会うわけにもいかないし。だから事務所に届けようと思って」

「……そもそもなんなの? 届け物って言うけど」


 うん、彼女の私物だとは言えない。


「まぁ、なんでもいいじゃないですか」

「……怪しい。すっごく」

「と、とにかく、宮さんの言いつけを守るつもりで電話したんですが」


 自分でも「何をいまさら」と思う。だがその言葉に偽りはないと信じている。だからスラスラと言葉が出てきてしまったわけで。


 そんな俺と同じで、電話越しでも分かるぐらいに、宮さんは呆れていた。


「まぁなんでもいいや。分かった。今日来る?」

「そうしようかと。都合悪い時間ありますか?」

「今日は大丈夫。銀行窓口も休みだし、ずっと居るつもり」


 となれば、俺の都合に合わせても問題なさそうだ。あまり遅くなるのも悪いから、無難に昼の2時ぐらいがちょうどいいか。

 あ、いや――ひとつ聞くのを忘れていたことがある。それ次第で決めれば良い。


「そういえば、今日山元さんは?」

「レッスンに通わせてる。今日も夕方までみっちりよ」

「そうですか」


 となれば、昼の2時ぐらいで問題ないな。俺としては、いざ行ってみてバッティングするのだけは避けたい。夕方までレッスンなら、仮にその後事務所に来たとしても俺は居ない。うん、そうしよう。


「なに? 随分と嬉しそうね」

「そ、そんなことないですって」

「……そ。で、何時ぐらいに来るの?」

「昼の2時ぐらいにお邪魔しますので」


 一瞬ドキッとしたが、何とか誤魔化し切れたようだ。そのまま電話を終えて、空気が抜けた浮き輪のようにパタリとベッドに倒れた。


 とにかく疲れた。宮さん、悪い人じゃないんだけど疲れるんだよな。相手の心の中を読み取っている声、視線。話していてめちゃくちゃ神経を使う。

 あ、でも二人で晩酌した時は楽しかったな。アルコールが入っていたから、彼女独特の嫌らしさを感じなかった。その記憶があるから、彼女が持つを中和しているみたいだ。


 それにしても、レッスンかぁ。

 山元美依奈は、本格的にあの舞台に戻ろうと動き始めた。彼女のことだ。きっと僅かなブランクなんてすぐに振り払ってしまう。そして世間に見せつけるのだ。自身の才能と輝きを。


 アイドルと呼ぶには年齢的にツラいかもしれない。けれど、キラキラしていれば年齢なんて関係ない。歌手にしても、何にしても。俺はただ、山元美依奈という可能性に期待せざるを得ないのだ。


 カーテンを開けていたから、寝室にも暖かい日差しが差し込む。眩しすぎず、暗すぎず。このまま瞼を閉じてしまえば、昼過ぎまで眠れる自信がある。


 彼女を傷つけた俺に、ファンを名乗る資格はあるのだろうか。あんなに突き放しておいて、俺はそう思い込んでも良いのだろうか。その答えは、きっと彼女だけにしか分からない。


 なら、もう知る由はないな。悲しいけれど。


 瞼が結ばれて、意識が落ちていく。虚ろになっていく思考。その中で、微かに残ったのは心の中に閉じ込めたはずの感情であった。


 あぁ、君に――。


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