第39話
服装のことを褒めてきた時点で、いつもの彼とは少し違うと思っていた。
それを言ったら私もそうなのかもしれない。この浮き足立った感触と彼の引力に逆らえない感覚。そして――自分自身の殻が破れてしまいそうな。
今日、大きな一歩を踏み出したのは事実。夏菜子さんの事務所所属タレントとして、明日から本格的に動き始める。
これまでの私は、無職と言っても過言ではない。彼の会社にポスター起用されたのが唯一と言っていい仕事。それ以外の収入は無かったのだから、とりあえずはこのタイミングがギリギリのラインだっただろう。
まずは鈍った体を起こすためにレッスンから。彼女の知り合いに良いトレーナーが居るらしいから、その人にお世話になるつもり。だから彼の言う通り、物理的に考えて会える機会は減る。
だから否定するつもりなんて無かった。彼と同じで、それは仕方がないことだと頭では理解できていたから。
――けれど。私の心はそれを許そうとしなかった。
「もう会わないなんて――言わないで」
本心であることに変わりはない。でも、いまここでそれを告げてしまったら、きっと彼はまた頭を捻って考えてくれる。
それを知っているから、ひどく申し訳ない気持ちになった。同時に、溢れた言葉への後悔は私の胸の中を荒らしていく。
苦しい。けれどそれは、きっと彼も同じなはず。そうであって欲しいと願うのは、私のワガママでしかない。
「言えないよ。そんなこと」
本当に?――たったそれだけの言葉なのに、問いかけるのに怖気付いた。芸能界に戻る決意をしたのに、また私の心を置き去りにする。個人的な問題であるのは分かるけど、つくづく彼の感情や存在に振り回されていると感じる。
「――なんちゃってっ」
彼の横顔を見ると、すごく胸が熱くなった。私の言葉を真に受けて、とても真剣な表情をしている。必死に照れ隠しをしているそんな彼が、ちょっと可愛くて。つい揶揄いたくなった。
「嘘なの?」
でも――彼はそんな私のことを揶揄ってきた。ムッとした表情を見せようと思ったのに、瞳がぶつかり合ってそんな余裕は消え失せた。
「……う、嘘じゃないケド」
「大人を揶揄っちゃいけないよ」
私だって大人なのに。でも彼は、誇らしげにそう言う。私の5つ上だからと言って。あなたも子どもっぽいところがあるよ、とは言わなかった。イタチごっこをする気にはなれなかったから。
店内に染み付いたタバコの匂い。そういえば、前に夏菜子さんから言われたっけ。染みつくから、匂いうつりしてもいい服で行きなさいって。
そんな言葉、今の今まで頭から抜け落ちていた。とびきりのお洒落をして、彼の前にやってきてしまった。別に別れ話をするわけでもないのに、こんなとびきりのお洒落を。
それを彼は褒めてくれた。たった一言だけだったけど、それが私の胸の中に堂々と居座っている。
「でもまぁ、うん」
独り言。私に聞こえている時点で、それは違うのに。彼はそれを分かっていない。勝手に納得されても、私はきっと納得しない。だからあなたは、そうやって一人で先を行く。
「どうしたの?」
追撃があると思っていなかったのか、彼は狼狽えた。目に見えて分かりやすく。
「別になんでもないよ」
「嘘つき」
心のどこかで、そう言われると思っていたから食い気味に返事をした。すると彼は、少しムッとして私の目を見る。そうしたいのはこちらの方なのに。
「なんで決めつけるのさ」
「違うの?」
「あぁもちろん」
「ふーん……」
シラを切る彼にムカついたから、交換条件を突きつけてみることにした。あえて視線を外して。彼の胸の内を覗かないように。
「私と居る間、タバコ吸っちゃダメだから」
「……な、なぜ」
「今の言葉が嘘だと認めるなら、吸ってもいいよ」
「えぇ……」
そのリアクションは最早嘘だと認めたも同然だ。この人に限った話じゃないかもしれないけど「タバコを吸うな」と言われたらきっと吸いたくなる。
「そもそも、なるべく君の前では吸わないようにしてたんだけど」
「けど?」
「なんだろうな。この気持ち」
うーん。モヤモヤが残る言い回し。
それにあの日、遠慮しないでと伝えたのに。世間の女性に比べて、タバコの匂いに嫌悪感を感じていないから、そんなの要らぬ優しさであるのに。
「――しばらくは会わない方が良い」
その声は直接私の心に刺さった。
ちょうど、BGMが切り替わるタイミングだったから、静寂を切り裂くには、十分過ぎるほどの声で。
私が「嘘つき」とか言ったから、彼はきっと。一言多い自分が、こんなにもムカついたのはいつぶりだろう。
「傷ついている君を見たくない。完全に俺のワガママだよ」
「……へ、へぇ。そっか」
彼のソレは多分、というか絶対に優しさだ。私が活動していく中で、自身の存在が
けれど――ソレを優しさだと感じられない自分が居た。
本音かどうかも分からない。ただのその場しのぎじゃないのか。だとしたら、どうして自分の気持ちを言ってくれないのか。
それもこれも、私が芸能界に戻るから。
根本にソレがあるから、彼はいつも一歩、二歩引いて私のことを見てくれていた。そこに、私は純粋な寂しさを覚えていたのかもしれない。自分でもよく分からない、どこを見て叫べば良いかも分からない、そんな寂しさ。
「ねぇ」
今の私は、どんな顔をしているのかな。すごく、すごく心が震えていて、それが声にまで波及しているのは分かる。
彼の前で泣きたくなかったから、必死に歯を食いしばって。ちょっとしたことで、すぐに崩壊してしまうであろう涙のダムを、全力で
「芸能界に戻らなかったら、会ってた?」
こんなことになるのなら、未練なんて残してくるべきじゃなかった。嫌気が差し切るまで、サクラロマンスを走り切るべきだった。
そうすれば、彼にも会わずに済んだのに。こんなに苦しい思いをしなくて済んだのに。
「――会わなかったよ」
崩れていく。心が。感情が。何もかもが。
痛くて、もう何も考えられない。ただ、今の私にできることはたった一つだけで。
「……………ばかっ」
震える声でそう言った。でも、彼は何も言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。だって、新木さんの気持ちもよく分かるから。だから――この場に居るのが苦しくなった。
「ご、ごめん。急用、思い出しちゃった……」
「や、山元さん!」
彼にこんな顔を見られたくなかった。だから、体にかけた鞄ごと飛び出した。寒空の下へ。この体を投げ打つように。
タバコの匂いが体に纏わりつく。乾燥した空気がソレを助長している。店を飛び出した瞬間、彼の声が聞こえた気がしたけれど、足は止まろうとしなかった。
少し冷静になったのは、喫茶店からある程度離れたところまで来てから。人波を掻き分けて、何も考えずにやって来た場所。
呼び止めるぐらいなら、追いかけて来て欲しい。そんな嫌な考え方しか出来ない自分が嫌い。
あんな風に店を飛び出したこと自体、生まれて初めてだ。よくドラマや小説でそんな場面を見ることもある。けど、深く考えたこともなかった。でも人間、本当に逃げ出すこともあるんだと考えて、思考は冬空の中に消えていく。
(…………あ、コート……)
どうりで寒いと思った。ニットセーターだけだと、どうしても凍えてしまう。周りの目が気になるわけじゃないけど、俯瞰して見ればきっと、この喧騒の中で浮いている。
取りにはもう、戻れない。カレーも食べる前に逃げてしまったから。あのお店、お気に入りだったのに。もう行けない。
「………雪」
消えていく。何もかも。
彼のことを仕方のない犠牲だと、理解しようとする自分が嫌で嫌で、嫌で。
必死にソレを否定したいけど、どうにもならないほどに欲が出てくる。あのステージで光り輝きたいという私の欲が。天秤にかけたくないのに、どうしても。
これが恋だと気付いた時には、もう、何も。
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