第38話
晩ご飯にはちょっと早い時間である。もう少ししたら太陽が沈んで空は闇に包まれる。
そんな都会の人混みを抜けて、俺はいつもの喫茶店に足を運んでいた。理由は一つ。山元さんと話すためである。
店に入った瞬間、タバコの匂いが鼻を抜ける。換気、消臭はしっかりしているみたいだが、やはりタバコの匂いはしつこい。壁や天井にこびりついている。俺以外に客が居ないのにそこまで感じるのだ。この店の年季というか、歴史を感じるな。
マスターは俺の顔を見るなり、分かりやすくニヤついた。
「よお。恋人はまだ来てないよ」
「そんなんじゃないって……」
茶化しやがって。俺としても返答に困る。
不機嫌そうな顔を取り繕って、カウンターに腰掛ける。「テーブルじゃなくていいの?」とマスターが聞いてきたが、何も考えてなかったとは言えなかった。
完全にいつもの癖だ。何も考えず、とりあえず座ってからすぐタバコを吸おうとばかり考えているせいで。
けれど、いま彼女と向かい合うのは少し気が引ける。理由はすごく単純で、まともに顔を合わせると上手く話せないから。きっと。だからカウンターでいいんだ。タバコに火を付けて、全身に細かくなった煙が行き渡る。
「相変わらず寂れてるなぁ」
「うるせ。そっちの方が都合良いだろう?」
「……んまぁ」
マスターがそう言ってくるのには、俺の行動にある。山元さんとの電話を終えた後、俺はこの店に連絡した。そもそも不定休で行って休みだったとなるのが嫌だったから。
でも、俺がそんなことをしたのは今回が初めて。第一、ここの固定電話に掛けようと思ったことすらない。そりゃあ、マスターは勘繰るに決まっている。
俺としては、そう思われても仕方がないと割り切っただけだ。あくまでも、彼女がお詫びをしたいという大義名分がある。お互いが知ってる店の方が落ち着いて話せるはずだ。
……それなのに何で俺が電話したんだろうな。何も考えていなかったけど、よくよく考えたら可笑しな話だ。別にいいけども。
ベルが鳴る。カランと響いて夕焼けの終わり。タバコを片手に横目で入口を見た。
ふわりと舞うグレーのロングスカート。緑色のアウターの下は白のニットセーター。いずれも無地のシンプルなコーディネートだけど、それを綺麗に着こなしていた。
タバコの匂いが染み込んだこの空間に、彼女はあの日のように、桃色の香りを連れてきた。どんな匂いにも負けないぐらいに甘くて、胸が高鳴る想いを連れて。
「こんにちは。マスター」
「いらっしゃい」
なんだよ。心の中で絶賛したのにさ。
俺じゃなくて、先にこの人に挨拶するなんて。切ないな。悔しいからタバコを思い切り吸って、思い切り煙を吐いた。彼女の方に行かないように顔を逸らして。
「あれ、拗ねてるの?」
それなのに、君は随分と余裕ぶっている。ムカつく。俺の隣にやって来て、顔を覗き込もうとしてきたから、咄嗟にタバコの火を消した。
「煙吐いてただけだよ。君に気を遣ってね」
「へぇ」
心の中を見透かしているような視線。尖っているわけではなくて、丸っこくて優しい目線だ。ジッと見られても、ソレを受け入れてしまうぐらいの揺らぎはある。
一つ席を飛ばして座った彼女は、暖房が効いているからアウターを脱いで隣の席に丁寧に置いている。白のニットセーターにグレーのロングスカート。
少し地味な印象だが、足元に視線を落とすと桃色のスニーカーを履いている。なんというか、色の使い方が物凄く上手な子だな。
「ど、どうしたの?」
「いや、お洒落だなって」
そんな俺はファッションに疎い。とんでもなく。安くて長持ちするのが理想だが、生憎それを両立するのは現実的じゃないと分かっている。だから俺は安さを取るわけだ。
今日だって、コートの下は適当にパーカーとジーンズを組み合わせた大学生スタイル。下はずっとこれを履いているし、上だけ変えれば何とかなる。というより、誰もそんなことを気にしていないだろう。
「あ、ありがと……」
そんなに照れることでもないだろう、と言えばきっとまた怒る。流石にデリカシーが無いと悟ったから、言葉を飲み込んでマスターと目を合わせた。
「ご注文は?」
わざわざため息を吐きながら問いかけてきた。呆れているらしい。なら客の会話を聞くなっての。
「えっと……何にする?」
「何でもいいの?」
「うん。遠慮だけはしないでね。お詫びだから」
彼女の言葉を聞く限りでは、電話でのお怒りは収まったらしい。とりあえずは良かった。遠慮はするなと言われるが、こういう時も気を遣ってしまうのが人間である。
けれど、自分が彼女の立場だったら同じことを言っていたに違いない。下手に遠慮されるとお詫びにならないから、と色々難癖をつける姿すら簡単に想像できた。
「やっぱカレーとコーヒーかな……」
かなり久々にメニューを開いて眺めてみるが、自然とそんな言葉が漏れた。サンドウィッチとか食べることもあるけど、その腹ではない。ご飯系で言うとカレーしかない。
「いつものヤツじゃん」
「うーん。でもこれが一番食べたいんだよな」
「……そうなの?」
「それに、一番美味しいし」
値段的に一番高いわけじゃない。多分だけど、彼女はそこを気にしているのだろう。人間、遠慮するなと言われてまず選ぶのが「値段の高いもの」である。彼女が疑問に思うのも仕方がない。
「なら私もそれにしようかな。お願いしますマスター」
「はいよ。コーヒーは食後で?」
「それで」
マスターが厨房の方に消えていく。これで完全に二人きりになったわけだが、あらかじめコーヒーを頼んでいたわけではない。すごい手の置き場に困る。手持ち無沙汰感というべきか。
「……あのね」
「うん」
お冷を一口飲んだ俺に、彼女は優しい声を掛けてきた。電話でお詫びは聞いたから、もう謝らないでいいよと言いそうになるぐらいに。
けれど、俺が思っていた以上に山元さんは――吹っ切れた表情をしていた。
「契約してきた。夏菜子さんの事務所と」
店内に流れていたジャズがその瞬間だけ、止まったような感覚がした。ほんの一瞬。気のせいだろうと思うには、少し気持ちが悪いぐらい。
「第一歩じゃん。おめでとう」
チクリと胸が痛む。全身に広がる前に咳払いをして体を誤魔化した。お祝いの言葉を投げかけているのに、どうして自分がこんなにパッとしないのか。よく分からない。
例えるならそう、霧の中で彼女に叫んでいるような、そんな先の見えない暗闇の中で。
「うん。ありがとう」
ふわつく。こっちからの言葉は届いていない気分なのに、彼女からの声はよく響く。それがこの子の本心かどうかは分からないけれど、確かに山元美依奈の心は俺の隣にある。
でもそれは、俺が想像していたモノよりもどこか苦しくて、寂し気で。どうして泣きそうなの? なんて問いかけてしまいそうな色をしていた。
「ならこうやって会う機会も減るんだな」
「……」
「寂しいけど……仕方がない」
スキャンダル未遂の彼女が芸能界に復帰したとなれば、きっと標的になる。それに、ネットの声は俺たちが思っている以上に刃を突きつけてくるかもしれない。
宮夏菜子の言う通り、俺が彼女に会っていればあらぬ噂を立てられる可能性も高い。
火のない所に煙は立たない。それが今の芸能界。一度出回った噂という火種は、いつか世間を燃え上がらせる。
今日が最後になることだってあり得る。もしかしたら、そのことを告げるために「お詫びしたい」なんて誘ったのかもしれないし。
胸が痛もうが、締め付けられるように苦しくなろうが、関係なかった。関係ないと思い込むようにしていた。そうしないと、いま彼女の手を握って引き止めてしまいそうになるから。
そんなのは、違うよな。彼女がやりたいことを邪魔するのは違う。だから――。
「もう会わないなんて――言わないで」
あぁ。どうしてそんなことを言うの?
聞き返したかったのに、喉が閉まり切って声が出なかった。いや、何も言っていないのにそんなことを言うなんて。やっぱり心を読まれていたみたい。
「言えないよ。そんなこと」
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