5th

第37話


 よく晴れた一日だ。差し込む日差しが暖かくて、この冬を溶かしてくれそうだ。そんな青空を眺めながら、ベランダでタバコをふかす。

 雲がちぎれちぎれに浮かんでいて、冬の乾いた空気のおかげで綺麗にソレが見える。煙で目隠ししているみたいで、なんとなく気が引けた。


 宮さんの家でワインを飲んだせいで、眠りが浅くなった。朝の7時前に目が覚めてしまった。それからシャワーを浴びて、ずっとスマートフォンをいじっていたら10時を過ぎている。時間を無駄にした感覚がすごい。


「あー……勿体ないことした」


 そう呟いてしまうぐらいに、昨日の俺は聖人だったであろう。何事もなく宮さんの家に連れて行って、彼女の寝顔も何も見ずにタクシーで帰ってくるなんて。勿体ない以外に何もない。

 冷静に考えて、女の子とあんな場面を迎えたのはいつぶりだろうか。鈍っていたと言えばそれまでだが、あと少し若かったら手を出していた気がしてならない。


 口の中に居座る煙を吐き出して、頭の中に居る山元美依奈の顔をまじまじと見る。とろんとした瞳が妖艶で、あんな顔で誘われたら一撃で死ぬ自信がある。

 いや、昨日の俺の判断は正しかったはずだ。下手に手を出して宮さんや彼女本人から罵倒されるより全然良い。うん、良かったんだ。


 携帯用灰皿にタバコを押しつけて、部屋に戻る。晴れているとはいえ、長居すると流石に体が冷える。その分、部屋中に広がっている暖房の温さが体に染み込んでいった。


「腹減った……」


 思えば、起きてから何も食べていない。かと言って頻繁に自炊するわけでもないから、冷蔵庫にあるのはアルコールと水分だけ。

 考えるだけ無駄だから、財布を持ってそのまま買い出しに行くことにした。そんな俺の行動を邪魔するように、スマートフォンが鳴る。電話である。


 コートまで着たのに。仕方がない。ポケットに仕舞ったソレを取り出すと、画面には山元さんの名前が浮かび上がっていた。

 ドキッとした。別にやましいことをしたわけじゃないが、何を言われるのか分からない恐怖がある。何となく嫌味を言われる気もしたけど、ここで無視するのは少しおかしな話。大人しく出ることにした。


「もしもし」


 同時にソファへ腰掛けたせいで、皮が擦れる音がよく響いた。おかげで彼女の声がそれにかき消されたような気がする。数秒待っても反応がないから、問いかけてみることにした。


「山元さん?」

「あ、えっと、き、聞こえてるよ」


 もしかして本当に何か言っていたのだろうか。でも開口一番に変なことを言うわけもないし、多分普通に「もしもし」だろうな。とりあえず、ソレを差し引いても気まずそうにしているのはよく分かる。


「頭とか痛くない? 大丈夫?」

「うん。平気。ちょっと疲れてるケド」

「すごい酔ってたからね」


 とは言え、二日酔いを回避出来たのは大きい。そうなった場合、少なくとも午前中は潰れるから。それで1日無駄にすることだって珍しくない。そういや、宮さんが薬飲ませたって言ってたっけ。


「まだ宮さんの家?」

「うん。洋服乾くまで待たせてもらってるんだ」

「へぇ。意外と優しいんだな。あの人」


 彼女は「朝ごはんも作ってくれたんだよ」と嬉しそうに話してくれる。宮さんの優しさが胸に沁みたらしい。介抱してくれただけじゃなく、至れり尽くせりじゃないか。

 とても俺に嫌味を言ってくる人とは思えないな。別人じゃないのかと突っ込みたくなるぐらい。けれど、それだけ山元さんのことを大切にしてくれていると思うと、少し嬉しい。


「……あ、あの」

「ん?」

「昨日は……ご迷惑をおかけしました」


 そうやって改まられると、こっちとしても身構えてしまう。別に大したことはしていないし、やましいこともしていない。いや、出来なかったと言うべきか。別にどっちでもいい。これを彼女に言えば絶対幻滅される。


「いいよいいよ。相当ストレス溜まってたみたいだし。ああいう日があってもいいと思うよ」

「そ、そうかな」

「でも人は選ばないと。見知らぬ男の前であんなになったら絶対ダメだよ」

「……夏菜子さんにも同じことを言われました」


 そりゃそうだ。昨日も宮さんと話したが、その件については俺と彼女の意見が一致した。

 今のうちに釘を刺しておかないと、これから芸能界に戻るのだ。クズみたいな奴が居ても何ら不思議じゃない。


「新木さんだったら……大丈夫かなって」

「お、おう……」


 褒めているつもりなのだろうが、すごく複雑である。それに、そのにはどんな意味が込められているのだろうか。

 どうせ何もしてこないだろう、ということか。それとも――襲われても平気だよ、ということか。


 あぁ、頭をよぎる昨日のこと。酔っ払った彼女が言い出した。思い出してしまうだけで鼓動が早くなってしまう。間違いなく、彼女はそのコトを覚えていないだろうに。

 なんかそれは寂しいなぁ。一人だけドキドキしてて、当の本人は知らないなんて。俺が平静を装っている今この瞬間も、違う意味でドキドキしているんだろうな。


「と、とにかく! 昨日のお詫びをしたいのっ」

「お詫び?」


 酔い潰れた人を介抱するのには慣れている。それに、俺はただ宮さんの家に連れて行っただけで何もしていない。

 そのことを伝えようとも思ったが、先に口を開いたのは彼女の方だった。


「色々とご迷惑をかけたから。だからご飯をご馳走させて欲しいの」

「そんないいのに。宮さんほど何もしてないしさ」


 そう言うと、彼女は少し黙り込んでしまった。何か言って欲しいとも思ったが、もしかしてこの状況。自身の発言が無神経だったと気づいた時にはもう遅かった。


「……ばか」

「あ、いやその……ジョークだよジョーク」

「ばーかばーか。もういいもん」


 これってもしかして、デートのお誘いだったりするのかな。……いやそれは考え過ぎか。アイドルに復帰するであろう彼女がそんな軽率な行動を取るわけがない。

 ……まぁ週刊誌に嘘を吹き込んだ張本人なんだけど。今後はそんなことをしないと信じてる。


 でも俺は、よく分かっていた。自分自身がそう思い込むことで、彼女との関係に一線を引いていることを。だからこの誘いを受け入れるのは――間違っている。


「悪かったって……。お受けしますから」

「……もういいもん」

「山元さんとご飯に行きたいなぁ」

「後出しジャンケンはずるい」

「なら行かない?」

「………いく」

「ん。俺も色々話聞きたいし」


 27歳の女性とはいえ、まだまだ子どもっぽい一面もある。酒を飲むとそれが顕著になるが、拗ねるところを見ると根の部分がそうなのかもしれないな。


 ほら、酔うと人間の本性が出るって言うし。


「今日の夜でもいい?」

「うん。そのつもりだった」

「そか。場所は……トリマル?」


 ただ揶揄からかいたかっただけなのだ。あんなになったのに、またお酒を飲むのかと茶化したいだけでそう言った。ただそれだけなのに。


「ばか! もう知らないっ!」

「あはは。冗談だって――って山元さんっ!?」


 耳元から流れるのは、電話を切られた時に流れる機械音。「ツーツー」と規則正しい音がただただ。

 うん。切られたらしい。小学生でも分かる。まだ固定電話を使ってた時代。あの友達の家に連絡する緊張感をふと思い出した。何で今になってそんなことを。


「やっちゃったなぁ……」


 とりあえず謝るか。度が過ぎたらしい。別に怒らせるつもりじゃなかったから、ここは素直にそうした方がいい。

 引きどころを間違えると、イジリがイジメに変わる。最近のニュースを見ているとそれがよく分かる。悪いと思ったらすぐに謝る。


 うん。とりあえず掛け直そう。が出てくれるといいけど。

 あぁ、ドキドキするなぁ。まるで友達の家に電話するみたいな緊張感が胸を覆った。


 出てきた彼女は、ぶっきらぼうな態度であった。そんなに怒らないでよとゆっくりなだめよう。だってそうしたら、君とたくさん話せるから。


 気付くと、空腹感は無くなっていた。



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