第36話


 髪を乾かすのにも時間がかかる。だから本当は切りたいんだけど、ここまで伸ばしたから何か勿体ない気もする。ここしばらくずっとそんなんだから、胸の下あたりまでスラリと伸びてしまった。

 直毛に間違われるけど、実は毛先に癖がある。いつもアイロンで誤魔化してるけど、お風呂上がりはクルリとパーマみたいになる。これはこれで可愛いから気にはしてない。

 洗濯機は止まっていて、蓋を開けると家とは違う洗剤の匂いが鼻を抜けた。30分以上浸かっていたらしい。

 下着を付けないこと自体には慣れてるけど、人の家でソレをするのは抵抗がある。夏菜子さんの部屋着を借りるわけだし。


 だからせめて、下だけでも穿いておきたい。ソレを引っ張り出して、ドライヤーで乾かすことにした。布きれ一枚ぐらいならすぐに乾くはずだ。

 全裸でパンツを乾かす元アイドル。こんな姿、誰にも見られるわけにはいかない。苦笑いしてしまうぐらいに情けないというか。


「冷た」


 一通り乾いただろうと思って、穿いてみたけどそんなことなかった。まあいいや。このまま過ごしてたらそのうち乾くはず。

 どうせなら上も乾かしちゃお。ドライヤーから出る熱気が手に触れるたびに、心が震える気がした。パンツよりも早めに乾き切ったソレを胸にはめる。うん。落ち着くな。


「お風呂ありがとうございました」

「いいえ。さっぱりした?」

「はい。すごく。洗濯した服を乾かしたいんですけど」


 そう言うと、夏菜子さんは窓の外を見て提案する。


「ベランダ使っていいわよ。今日は快晴だし。ここ日あたり良いから、すぐ乾くはず」

「ありがとうございます」


 気がつかなかったけど、リビングには良い匂いが充満していた。それはまるで、実家の朝を思わせる香り。味噌と白米の芳醇な香りだ。

 夏菜子さんの部屋着は、驚くほどにサイズがぴったりだった。トレーナーとジャージのズボン。自分の服かと勘違いしてしまうぐらいに。思えば、彼女もすごくスラッとしていて、私とスタイルが似ている。きっと昔はすごくモテたんだろうな。


 ベランダに出ると、冬の空気が体にまとわりついた。けれど、夏のような胸苦しさはない。カラッとしていて、朝日が私の心を暖めてくれるみたい。

 かと言って、長居してると湯冷めしてしまう。チャチャっと干してしまって、そのまま部屋に戻った。


「お疲れ様。ご飯食べましょ」

「え、いいんですか?」

「そのために作ったんだから」


 テーブルには美味しそうな味噌汁と白ごはん。そしてシャケの切り身という日本の朝食が並んでいた。

 私がお風呂に浸かっている間に用意してくれてたみたい。何かここまでもてなしてもらって申し訳ないな。でもご飯を見ていると、お腹が鳴るのがよく分かる。引き寄せられるように椅子に腰を落とした。


「さ、食べましょ」

「い、いただきます」


 向かい合うように座って、二人で両手を合わせる。誰かの家でこうやって朝ごはんを食べるなんていつぶりだろうか。


 味噌汁は赤だしだった。白味噌よりも味が濃くて、舌の上に広がる苦味のような濃厚さ。これがすごくクセになる。小さく切られた豆腐に触れると、それがまた良いアクセントになるのだ。

 お酒を飲んだ次の日の味噌汁というのは、どうしてこんなにも気持ちが良いのだろう。体の中に残っているアルコールを溶かしてくれる、そんな気がしてつい息が漏れた。


 焼かれたシャケの切り身も、口の中でホロホロと消えていく。その後味を残したまま、白ごはんを口の中に運ぶ。混ざり合う互いの風味。ほんのりと効いたシャケの塩味が食欲をそそるのだ。もう一口、白ごはんを追加する。


「ふふっ」


 夏菜子さんの笑い声で、ふと我に返った。

 目が合って、慌てて咀嚼していたご飯を飲み込んだ。


「あ、お、お腹空いてて……」

「いいのいいの。食べてくれて嬉しいだけだから」


 確かに作った側とすれば、会話もそこそこにもぐもぐ食べてくれた方が嬉しい。ソレがその人の本心であるのは見て明らかだから。嘘っぱちの「美味しい」を言われるよりも、よっぽど嬉しい。

 注がれた緑茶も、この食事にはピッタリだ。とにかく落ち着く。昨日潰れたとは思えないぐらいには、心の中の時間はゆっくりと進んでいる。


「……あ、あの」


 味噌汁を飲み干して、夏菜子さんに声を掛けた。すると彼女は、空になったお椀に視線を落とす。


「味噌汁のおかわり?」

「ち、違いますっ! もうっ」

「あはは。冗談。どうしたの?」


 まだ飲みたいのは確かだけど、これ以上甘えるわけにはいかない。別に遠慮じゃなくて、自分へのいましめか何か。自分でもよく分かっていない。


「昨日のこと……全然覚えてなくて」


 箸を置いて問いかけた。食事の手を止めるのは少し申し訳なかったけど、今からする話は単純に気になる。食事よりも。だから「ながら」で話を聞くのは気が引けた。


「どうして私の家に居るのかも分かってないよね」

「……恥ずかしながら」


 夏菜子さんは呆れたように笑った。いや、笑うしかないと言うべきかな。いずれにしても、あまり良くは思っていないみたいだ。


「ダメよ。ミーナちゃん。お酒強くないんだから」

「……ごめんなさい」

「彼じゃなかったら、手出しされててもおかしくなかったんだから」


 お説教を受けても仕方がないと思う。けれど、夏菜子さんの声はすごく優しくて、子どもの頃に母親から諭された気分を思い出した。

 彼女の言う通りだ。昨日、一緒に飲んだのが彼じゃなかったら、私は今ごろ何処かのホテルで眠っていた可能性だってある。


 けれど、私は彼の前だからお酒を飲んだ。頭の中がパンクしそうになって、その勢いのままに彼に声を掛けた。

 結果がこれだ。パンクどころか、ホイールごと粉々に砕けてしまった。笑いたくても笑えない。結局、結論を導き出せないままに終わってしまったのだから。とにかく、彼には悪いことをしたと思う。謝らないとなぁ。


「悩んでると思ったから、あなたに電話したの。そしたら彼が出て」

「そ、そうだったんだ……」

「ほら、自宅の場所も分からないし。だから連れ帰ってきたってわけ」


 なるほど。となれば、夏菜子さんは夏菜子さんなりに心配してくれていたみたい。こんな形で迷惑をかけてしまったことがすごく申し訳ない。苦笑いして誤魔化すのすら違う気がして、ただ頭を下げるしか出来なかった。

 夏菜子さんは、そんな私に「気にしないで」と言ってくれる。その一言で心がすごく軽くなる。たったそれだけなのに。


「ミーナちゃんも、彼の前だからそうなったのよね」

「っ、そ、そんなんじゃありませんから」

「そう? ま、どっちでもいいけどね」


 とにかく、昨日の流れは分かった。とりあえず、ご飯を食べ終わったら部屋の掃除でも手伝おう。それぐらいはやらないと気が済まないから。

 半分まで減った白ごはんと、シャケの切り身。それをかき込むように、でも品が良く丁寧に口の中に運んでいく。さっきよりも冷たくなっていて、少し寂しい。


「それで、結論は出たかしら」


 箸を進めている時に、彼女は問いかけてきた。食べ終わってから言おうと思っていただけに、少し虚を突かれた気分。咀嚼し終わって、再び夏菜子さんと目を合わせた。


「……えっと、あの」

「よく思い出してみて。彼に何を言われたのか。酔っ払う前のことを」


 彼女はまるで、彼が私に何を言ったのか知っているように見えた。

 でもそうか。昨日一緒に居たのだから、直接聞いていたとしても不思議じゃない。夏菜子さんのことだ。きっと根掘り葉掘り彼を問い詰めたのだろう。


 酔っ払う前。店に入って、すぐビールを飲んで、しばらくしてからの記憶は無い。その前。確か――。また怖気付いたと素直に告白したあの時。


 そうだ。あの時。怖気付いたと言って、彼はそれを否定することなく、むしろ受け入れてくれた。

 あぁそうだ。私はその優しさに溺れそうになっていて、それからアルコールの匂いに包まれてしまった。だから聞いているつもりでも、頭の片隅にあったソレはすっかり跡形もなく消えていて。


 けれど――彼の言葉は私の胸の中にいる。大切に、胸の奥の奥、その扉の中に大切に眠っている。


 ――マイペースに。たとえ止まったとしても。

 ――辛くなったら逃げても良い。


 揺れる。胸が、思考が。

 ゆらり揺られて、私の中に眠っていた本心を引っ張り出そうと躍起になっている。


 ――偶然が積み重なることを、人は運命と呼ぶんだよ


 なら、私とあなたが出会ったことも運命なのかな。あなたじゃなかったら、またあの舞台に立とうとも思わなかっただろうから。

 だから、これは運命なんだよね。私があなたに出会ってアイドルを辞めて、あなたに出会ってアイドルに復帰しようとすることも。


 全部、なんだよね。


「なーによ。ニヤニヤして。良いことでも思い出した?」

「ふふっ。はい。すごく」

「……そう。よかった」


 そんなことを言ったら、彼はきっと怒るだろうな。とても優しく、でも、私の心に染み込んでくるあの声で。

 あなたに背中を押してもらいたい、そう思った私の感情は間違ってなかった。ゆっくりでも良い。マイペースで良い。逃げても良い。今もこうして、私は独りじゃないのだから。


 それもこれも。全部――。


 「あなたのおかげ」だとは、恥ずかしくて言えないや。




 

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