第35話
夢か。そうだよね。
あんなキラキラして、楽しいものではなかった。舞台の上は常に孤独で、常に彼女たちへの意識を保たなきゃいけなかった場所。それなのに、私はそこに戻ろうとしている。
何で今日に限ってあんな夢を見てしまったのだろう。決して予知夢なんかじゃない。もしそうだったら、どれだけ幸せだろうか。
覚醒していく意識とともに、重く閉じられた瞼をゆっくりと開く。その先には見覚えのない天井が広がっていた。
「あ、あれ………」
ここはどこだろう。私の家ではない。見慣れない毛布にベッド。
――同時に背中から冷や汗が出る。昨日の夜。記憶があまりにも
咄嗟に毛布を捲りあげ、自身が服を着ているか確認する。
「し、してない……? 大丈夫だよ……ね?」
疑問形になったけど、私自身誰に聞いているのか分からない。ただ少しでも気持ちを落ち着けたくてそうしただけ。
考えられる可能性はただ一つ。ここは彼の家で、私は俗に言う「お持ち帰り」をされたということ。そして私は今の今まで呑気に眠っていたということだ。お酒に溺れて。
こんなになったのは超が付くほど久しぶりだ。まして、人に見られたことは初めて。今の私の中にある感情は、紛れもなくド直球の後悔だけであった。
(さ、さ、最悪……)
自身の体を隠すように、両手をクロスさせて両肩に置く。顔を触っても、メイクが落としてある。全然記憶が無い。でも髪や体はベタついているし、お風呂には入っていないみたい。
この状態で彼と……? やばい、酔っていたから何一つ思い出せない。相談に乗ってもらっていた序盤でソレは途絶えてる。
でもよく話にある下半身の特有の痺れがあるわけじゃない。本当のところどうなのだろう。多分彼はここに居るはずだから、意を決して聞かないと。
すると、閉められた扉を優しく叩く音がした。心の準備が出来ていないのに、あまりにも急すぎる。
返事を躊躇っていると、ゆっくりとドアノブが下がっていく。あぁ、踏み込まれる。そう思った私と目が合ったのは、想像もしていなかった人だった。
「あら、起きてたの」
宮夏菜子。え、ちょっと待って。だとしたらここは事務所? そもそもどうして彼女が顔を出してくるのかすら理解出来ない。
「あ、新木さんは……」
「開口一番にソレ?」
無意識に漏れた言葉だった。確かにこの状況で彼の名前を言う方が不自然でもある。ただ昨日は彼と飲んでいたのだ。その当人が居なくてどうして彼女が居る。思考の
「あ、い、いやそんなつもりは」
「その様子だと全く覚えてないみたいね」
「うぅ……」
嘘ついて否定しようとも考えた。けれど何となく墓穴を掘ることになりそうだったから踏みとどまる。ここは素直になることが大切。
ただ面と向かって言われるとすごく恥ずかしい。多分いまの私はゆでだこみたいに真っ赤になっている。彼と二人で居たはずが夏菜子さんの家で眠っていたなんて、どうなったらそうなるんだろう。
「とりあえずお風呂入る? さっき溜まったところ」
「で、でも替えの下着も無いですし」
「洗濯機使っていいよ。どうせなら今着てる服も洗っちゃいな。乾くまで部屋着貸すから」
その提案はありがたいけれど、とりあえず聞きたいことが多すぎる。それに、下着まで借りるのは気が引けたから、乾くまで付けずに待つ必要がある。
「大丈夫よ。彼は昨日のうちに帰ったから」
「そ、そうなんだ……」
この人はエスパーか。それか私の顔に出ていたかのどっちか。多分後者だけど。
となれば、断る理由もない。彼の前でノーパンノーブラの姿になるのは流石に恥ずかしい。いや、夏菜子さんの前でも十分そうだけど。
ベッドから降りて立ち上がると、少し頭が痛んだ。二日酔いほどの気持ち悪さは無い。あれだけ潰れたのに不思議。
「いま何時ですか?」
「朝の7時すぎ。もう少し寝てて良かったのに」
「い、いえそれは申し訳ないですし……」
偶然目が覚めただけで、ソレが無かったら昼まで眠っていた気がする。自分をこれ以上蔑みたくなかったから、何も言わなかった。恥ずかしがって目を逸らした私を見て、夏菜子さんは呆れたように笑った。
案内してもらった脱衣所はとても清潔感があった。浴室のすぐ側にある洗濯機は自宅のモノと似ていた。だから操作は問題ない。洗剤の場所を教えてもらって、彼女が持ってきてくれた部屋着とバスタオルを近くのカゴに置く。その様子を見た夏菜子さんは、そのままリビングへと消えていった。
扉を閉めて、試しに浴室の扉を開けてみる。綺麗に掃除されていて印象がすごく良い。バスタブの蓋を開けると温かな熱気が顔にしみる。思わずホッと息が溢れた。
脱衣所に戻って服を脱ぐ。時折、鏡に映る自分と目が合う。お酒を飲んだ次の日というのは、随分とひどい顔をしている。今日も例に漏れず。
下着まで脱いで、全て洗濯機に投入する。全裸で操作する様子は中々に可笑しいけど、今の私にそれを笑う余裕は無かった。
服と下着だけ。今日たまたま履いていたジーンズはそのままでいい。だから水量を最小にして、そのままスタートボタンを押した。極力水道代を使わせたくないという気遣いと言うほどでもない気遣いであった。
バスタブの蓋を開けておいたから浴室はよく温まっていた。シャワーを浴びるためにもう一度蓋を閉じて、お湯を頭から被る。一日入らなかった後のベタつきが落ちていく感覚。あまり良いモノではないけれど、クセになる何かがある。
髪と体を一通り洗うと、
「ふー……」
体の芯まで染み渡る。入浴剤も何も入れていないただのお湯なのに、どうしてこんなにも心地が良いのだろう。
昨夜の疲れが溶けていく。肩まで浸かってもお湯が溢れない。人の家でそれは勿体ないから気を遣っていたけれど、少し安心した。
長風呂をするタイプではない。でも、今日は少し長めに浸かっていたい気分だ。どうしてか。それはすごく単純で、夏菜子さんと顔を合わせたくないからだ。
お湯を浴びて頭がどんどんクリアになっていった。そのせいで、なおさら昨日のことを思い出してしまう。忘れてしまいたい内容でもあるのに、私の頭の中にはいつまで経っても彼が居座っている。
「……もうっ」
飲みたいと誘ったのは確かに私だ。
でもあんなになるまで飲むつもりは無かったし、彼だって止めてくれれば良かったのに。
……って言ったら、笑ってくれるかな。許してくれると嬉しいのに。それなのに、すごく胸が苦しい。熱い。
私が入ってかさましされたお湯。もっと深く沈みたくなったから、口まで溺れてみせる。
アニメのキャラクターみたいにブクブクしてみたり。あんなに可愛くは無いけれど、そうしたくなる。
天井を見上げれば、湯気がぶつかって、やがて水滴となって私の元に降りかかってくる。気にも留めてなかったことだけど、今は不思議と意識がそこにいく。変なアンテナが張ってあるみたいだ。
「……ばか」
自分自身への叱咤のつもりだった。けれど心の奥にある本音は、私の感情を真っ向から否定した。
彼への言いがかりだと理解してからは、なんかすごく申し訳なくて。何も考えないように目を閉じるけど、そういう時に限って思考は巡り巡って私の胸を突いてくる。
彼と夏菜子さんは何らかの知り合いなのだろう。二人とも知ったような口を利いていたから、それはなんとなく察しがつく。
酔った私を見て、彼は彼女を頼ったのかもしれない。自分が家に連れ帰るよりは、いくらかマシであろうと。
それが彼らしくもあった。でも。
「意気地なし」
それこそ本当の言いがかりだ。
彼は何も悪くない。むしろ私のことを考えてくれていたからこその行動だ。
つぶやいた言の葉は、湯船に溺れていく。そのまま沈んでいく様子を、私は自身の心と重ね合わせた。
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