第34話
そこは事務所というより、どこにでもあるマンションの一室だった。宮さんが普段生活している家と言われた方がしっくりくる。
多分、山元さんも同じことを思ったはずだ。誰が見ても事務所には見えない。
「ミーナちゃん、はいお水。飲んで」
タクシーでの眠りのせいで、山元さんの足取りは重そうだ。無事部屋まで運べて良かったと思うぐらいには、ふらふらである。
やっぱり、彼女は酒を飲んではいけない。特に男の前では。今のこの子は、大学のクソサークルの飲み会後に持ち帰られる女の子みたいである。
酒を飲むと、異常なまでに喉が渇く。共通するのは液体というだけで、コレは決して人の体を作っているものではない。寝る前に水分補給をしておくだけで、少しは変わる……はずだ。二日酔いの辛さはよく分かるから、何か申し訳ないな。
今にも落ちていきそうな彼女だったが、ごくごくと喉を鳴らしてそれを飲み干した。やはり喉はカラカラだったようだ。
「お化粧落とさないとね。出来る?」
「眠い……」
「全く。おいで」
あぁそうか。女性はメイク落としも必要なんだな。俺だったら、すぐベッドに横になっていたな。風呂にも入らず。その行為は結局、翌日まで酔いと疲労を残すことになるのだけど。
「な、なんすか」
廊下に消えていこうとしていたのに、くるりと振り返って俺の目を見つめる。
「アイドルのすっぴんを覗く気?」
彼女の背中をさすりながら、おそらく寝室に連れて行こうとしていた宮さん。彼女がそんなことを言ってきたから、思わず苦笑いしてしまう。言いがかりも良いところだ。
「何もしてないでしょう……」
「余計な杭は打っておく主義だから」
それはこれまでの行動を見ているとよく分かる。だから否定するつもりになれなかった。かと言って同意する気も無い。そうすると、何を言われるか分からないから。
そのまま寝室に消えていく二人の背中。ずっと立っているのもダルいし、テーブルの側にある椅子に座らせてもらった。
改めて部屋を見渡してみると、一人暮らしにしては少し広い。もしかして既婚者だろうか。それとも、バツ付きの人? 探れば色々出てくるだろうが、そこまでデリカシーの無い人間にはなりたくない。黙ってスマートフォンに視線を落とした。
「おまたせ。二日酔いにならなきゃいいけど」
「すみませんなんか。面倒見てもらって」
「いいの。一応、市販の二日酔い防止薬飲ませたから」
彼女は少し疲れた顔をしている。だが俺を帰そうとしないあたり、やはり飲み直すつもりなのだろう。
キッチンからワイングラスと赤ワインを持ってきた彼女は、ニヤリと笑う。
「ワイン、飲める口? 安物だけど」
「ええ。注ぎますよ」
「悪いわね」
すると宮さんは、またキッチンに消えていく。冷蔵庫を開ける音が聞こえたから、何かツマミでもあるのだろうか。ワインならチーズが食べたい。よく合うからね。
「市販のチーズしかないけど良い?」
「もちろん。ありがとうございます」
おー考えることは一緒だったようだ。
使うかどうかも分からない爪楊枝をケースごと持ってくるあたり、なかなかの面倒くさがり屋なのかもしれない。それぐらい雑にしてくれた方が、俺としても気が楽だ。
喧騒の中とは違い、乾杯にも品が出た気がする。ビールじゃなくてワインだからかもしれない。安物と言われたが、中々に美味しい。本当に安いのだろうか。謙遜しているだけなのかも。別に飲めればどうでもいいけれど。
「随分と仲が良いようで」
「揶揄わないでくださいよ。別にそんなんじゃないですから」
そんな恋焦がれた顔をしていただろうか。ただ大人なブドウの味を噛み締めていただけなのに。あ、そのせいだったりして。
店を出たのが夜の9時前だったから、終電には余裕がある。もう少し酔っ払って帰りたい気分である。
「……あの子、あんなんじゃ飲み会には連れて行けないわね」
「それは同意です」
宮さんに限ってそんなことを許すとは思ってなかったが、案の定で安心した。山元さんのためにも、目の前の彼女のためにもその判断は正しい。
世の中、綺麗事だけじゃない。酔わせてから乱暴するクズみたいな男だって居るんだ。そういうゴミが彼女に手を出してきたらなんて、想像するだけで許せない。
さっきの店でも同じことを考えていたな。そういえば。彼女の傷つくところを見たくないのは、何よりのファン心理なのかもしれない。
タクシーの中で少し眠ったせいか、頭が冴えている。酔いが覚めた感覚はないが。
テーブルの上はワインボトルとグラス、そして彼女が冷蔵庫から取り出した市販のチーズしか置いていない質素な飲み会である。それにチーズは個包装になっていて、完全に爪楊枝は不要だった。
それに気づいたのか、宮さんは「ウインナーでも焼こうか」と聞いてきた。
確かにテーブル上が映えるありがたい提案であったが、そこまでしてもらう義理もない。やんわりと断った。
「あの子のことだから、きっとあなたに会うと思ってた」
ワイングラスを指に挟んで、テーブルの上を滑らせながら彼女が言った。揺れる濃紫色が、部屋を包み込む白い灯りによく反射する。言葉の意味が分からないフリをして、聞き返した。
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だけど?」
質問に疑問で返されると、話が一向に進まない。彼女の表情からは余裕しか感じられない。そもそも俺は、ここで腹の探り合いをするつもりはないのだ。面倒。それなら腹を割って話した方が色々と楽である。
「ただ俺は……相談を受けただけです」
「へぇ」
「何ですかその顔は」
「別に? 女の子が男に相談することぐらい良くあることよ」
……そうかもしれないな。別に言われなくても分かっている。自分が気付かなかっただけで、心の中にはダンスミュージックが大音量で流れていたようだ。
普段そんなのは聴かないのにね。人は浮き足立ってしまうと柄にもないことをしてしまう。特に、自身にとって特別な彼女の弱さを知っているから。
「……分かりやすい」
呆れているような、揶揄われているような。変な感覚がしたから、グラスに入っていたワインを一気に飲み干した。アルコールが頭を直撃する。
「でもあの子にとって、あなたは重要なのかもしれないわね」
「きゅ、急になんすか」
「だってそうでしょ?」
否定したり肯定したり忙しい人だ。手酌でワインを注ごうとすると、宮さんがそれを制止した。彼女がお酌してくれるらしい。
「あんな姿を見られても平気な人となれば、限られるから」
「俺に気があるとでも?」
「そこまでは言ってないわよ。願望かしら」
「ち、違いますよ」
一言多いんだよな本当に。
願望だなんて言われたら、俺じゃなくても狼狽えるに決まっている。だから俺は悪くない。ただその感情が生まれるということは、つまりそういうことである。分かっている。
「打ち上げの時は飲んでなかったのにね」
「あの、揶揄ってますよね。さっきからずっと」
「だってあなた、面白いんだもの」
注ぎ終わったワインが揺れている。まるで俺の心の中のようだ。ここまで綺麗な色をしていないが。
「不思議な縁ね」
「……まぁ」
「私とあなた。それと、あなたとあの子」
「……」
「新木君を中心に運命が回ってるみたい」
そんな大層なことではないだろう。第一俺は巻き込まれた側の人間であり、中心なのは今酔い潰れている彼女である。
あぁそういえば、タバコ吸ってなかったなぁ。換気扇の下かベランダだったら吸わせてくれるかな。
「その運命はどうなりますか」
トイレを借りたくて、立ち上がったまま問いかけた。すると彼女は少し考えて、微笑んで。
「ミーナちゃんが天下取る」
「なら寝顔の一つぐらい見ても?」
「ふふっ。おバカね」
なんだよ。運命の中心だと言ったくせに。
にしても、どうやら少し酔いが回ってきたらしい。
あぁ、フワフワする。タクシーで一眠りしちゃったのが不味かったかなぁ。出来ることなら、このままあの子の隣で眠りたい。
なんちゃって。
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【おわび】
一昨日更新分(第33話)に書き込んでいただいたコメントを、誤って削除してしまいました。本当に申し訳ございませんでした。この場を借りておわびします。
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