第33話


 悪酔いしているわけではなく、ただ瞼を開けるのがしんどいらしい。とにかく眠いとのこと。寝ぼけながら本人がそう言っているのだから、多分本当なのだろう。多分ね。

 結局、会計は俺持ちになった。別にどうってことはないが、何で宮さんの分まで俺が出さなきゃなんないんだよ。


 ……まぁ、ヘルプに来てくれたから文句を言えた口ではない。

 店を出て冷気に当たると、酔いがいい具合に醒めていく感覚がした。コートを着ていても、体の芯まで冬の風が染み渡っていく。それがとても心地よかった。


「そういえば新木君、今日も仕事だったの?」

「えぇまあ。休日出勤ですよ」


 私服だけど仕事用のカバンを持っていたから、宮さんは疑問に思ったのだろう。

 そんな彼女の右腕にしっかりと絡みつく山元さん。横に倒したらそのまま眠ってしまうほどの酔いっぷりだ。

 まだまだ終電まで余裕がある。このまま駅に連れて行くことも考えたが、電車で帰らせると余裕で寝過ごすだろう。


「私が連れて帰るから」

「彼女の家知ってるんですか?」

「いいえ。仕方ないからウチに」


 宮さんの自宅なら安心だけど、何か申し訳ないな。俺が飲ませなければこんなことにならなかったのに。いや彼女が勝手に飲み始めたんだけどさ。


「タクシー拾いますよ」

「あなたはどうするの?」

「帰りますよ。生憎、一人で飲み歩くのは趣味じゃなくて」


 駅も近いから、タクシー拾うのには好都合。乗り場まで歩くのも面倒だったから、店の前で道路に寄って「空車」を待つ。

 あぁタバコ吸いてぇ。早く二人を見送って、駅の喫煙所に駆け込みたい。そんな時に限って、タクシーが来る気配が無い。駅まで歩けってことか。


「それなら、ウチに来ない?」

「え、宮さんのですか」

「そ。ウチって言っても、事務所兼自宅なんだけど」


 突然の誘いに、思わず視線を道路から宮さんに移した。山元さんの気の抜けた顔がすぐ側にあって、少しおかしい。


「この子を寝かせるついでに、晩酌付き合ってよ。どうせ飲み足りないでしょ」


 飲み足りないと言えばそうだが、別に彼女の事務所じゃなくてもいい。それこそ、酒買って家で飲めばいい話である。

 だが、宮さんのことを色々と知ることが出来るチャンスでもあった。女性の家であるが、自分でも驚くほどドキドキしない。彼女をそういう目で見ていないからだろうな。


「失礼なこと考えてるね」

「そ、そんな滅相もありませんよ」

は分かりやすいの」


 山元さんと一緒にされると、何か彼女にも悪い。顔に出やすいと自負しているわけではないが、確かに少し失礼すぎたな、うん。


「でも良いんですか。俺なんかがお邪魔しても」

「言ったでしょ。別に嫌ってるわけじゃないって」

「それはそうですけど」


 俺としては受け入れる理由もないが、断る理由もない。山元さんがベッドで眠っている姿を見ることが出来るかもしれないわけだ。

 ゴクリと喉仏が動いてしまった。別に何をするわけでもない。彼女の監視がある限り何も出来ない。

 あーいやいや。そもそも何もしない。うん、俺はさっきも耐えることが出来たんだ。大丈夫。大丈夫。


「……タクシー捕まえたけど?」

「うぇっ!?」


 俺が一人で考えている間に、宮さんは絡みつく彼女と一緒にドアが開くのを間近で見つめていた。


「どうするの? 来るなら早く」

「わ、分かりましたよ。行きますから」

「はいはい。ほら、ミーナちゃんおいで」


 まぁ、大人をのって中々に疲れる。宮さん一人に任せるわけにもいかないか。何かあった時は男手も必要になるかもしれないし。何もないのが一番なんだけども。


 宮さんは優しく彼女を振り解いて、先に乗り込んだ。車内から山元さんに乗るよう促している。その姿はまるで、子どもを見守る母親である。


「んー……」


 けれど、動かず。

 ただそこに立ち尽くすだけで、起きているのか寝ているのか分からない。先に彼女を押し込むべきだったと悔やむ宮さんの声が聞こえた。


「ほら山元さん。帰るよ」

「えへへ……」

「……人の顔見て笑わないの」


 俺が声をかけると、半身振り返ってただ笑われた。こういう時、大抵本人も何がおかしいのか分かっていない。

 ただそこに居る物体が自身のツボを刺激したのだろう。顔を見られて笑われたから、きっと彼女の本能がそうさせたのだろう。

 何だろう。深く考えたら悲しくなってきた。やめよう。誰も得しないから。


「せ、背中触るよ? 押し込むからね?」


 咄嗟に出たセリフだったが、クソほど気持ち悪いな。俺こんなに女慣れしてなかったっけな……。

 でもよくよく考えたら、山元さんとは握手したことがある程度で、それ以上のことは何もない。だから憧れの子の体を触る行為は、俺にとってとんでもなく崇高なモノなのである。

 優しく背中を押して、何とかタクシーに乗車させることができた。ほっと一息ついて、そのまま俺も後部座席に座った。自動ドアが閉まるのを確認して、また一息。暖房が効いていて心地良い。


「さっきのあなた、気持ち悪すぎよ」


 分かっている。頼むから何も言うな。


「ドルオタなんてそんなもんですよ」

「世の中のドルオタに謝りなさい」


 宮さんと俺とで山元さんを挟む形になった。つまりは、いま俺の隣に桃花愛未が座っている。うとうとと首が揺れている。また喉仏が動いたけれど、暗闇だから宮さんには見えていない。


 ……これって冷静にヤバい状況なのでは?

 だってあれだ。俺がいま彼女に何かしても多分本人は気づかないし、咎める人も居ない。

 高鳴る心臓。そして訴えてくる本能。必死に堰き止める理性は、崩壊寸前。


 手ぐらいなら触っても良いんじゃないかな。さっきあんだけ耐えたのだから、少しぐらいご褒美があってもいい。だってほら、握手会に参加したこともあるし。手を触る行為そのものは彼女と何度もしたことがあるわけで。


 ――って最高に気持ち悪いな。

 心の中に押し込んでいた性欲が顔を出してきた。イマドキ珍しいハンドルを回して、窓を少しだけ開ける。寒いと言われるようが、冷気に当たって頭を冷やしたい。


 チラリと右側を見る。暗くてハッキリとは分からないが、瞼を閉じて眠っている。ただその奥に居る監視官と――視線が合った。


「ひっ……!」

「どうして驚いているの?」

「い、いやなんでも……あはは……」


 あれは間違いなく獲物を狩る目をしていた。俺が山元さんの体を弄ろうものなら、多分このタクシーから突き落とされていた。別の意味で心臓が鳴る。

 それはそうと、山元さんからは良い匂いがする。シャンプーの香りだろうか。ひどく落ち着くし、眠気を誘う。


 コツンと肩に当たる彼女の頭。すぐそこにある山元美依奈という女性。高鳴る。全身を巡っている血液が熱くなっているのが分かる。

 けれど――すごく心地が良い。彼女のことを感じることができて、ふわふわと綿菓子に包まれているよう。一定のリズムを刻む彼女の寝息が、俺の中に微かに存在した眠気を呼び起こしていく。


「はぁ……全く」


 事務所までは、あとどれくらいだろうか。

 願うことなら、ずっとこの時間が続けば良いのに。そうしたら、もう彼女から離れなくて良いのにさ。


「ちょっと新木君。寒いんだけど」


 言われちゃった。仕方がないから、ハンドルを逆方向に回してしっかりと窓を閉める。途端に暖房の風が車内に充満したようだった。

 まぁ、山元さんが風邪を引いちゃうからね。宮さんには悪いけれど、頭の中は彼女のことで一杯であった。

 そうやって俺は、同じように浅い眠りに落ちてしまった。良い夢を見る保証なんてどこにもない。けれど、どんな高級ベッドで眠るよりも、質が高い睡眠であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る