第32話
宮さんとの電話を終えて10分が経った。山元さんは相変わらず眠ったままだ。
ただ、時折顔を横に向けたりして綺麗な寝顔を俺にまざまざと見せつけてくる。お酒を飲んで酔い潰れたとは思えないほどに、綺麗な横顔である。
このまま頬にキッスぐらいしても、多分彼女は起きないだろう。根拠のない自信ではあったが、どくんと血液が沸騰するような感覚に襲われる。
(ホント、綺麗な人だ)
彼女に何の思い入れもなければ、己の性欲に身を任せていた可能性はある。だけど、そんなことをして山元美依奈との関係を崩すぐらいなら、我慢するに決まっている。
一時の快感に溺れるよりも、彼女の行く末を誰よりも近くで見守っていたい。そんなのを彼女は「わがまま」だと笑うだろうか。少なくとも、宮さんはそう言うはずだ。でも、心のどこかでは笑ってくれていて。
宮夏菜子というのは、誰よりも山元さんのことを買っている。じゃなきゃ、ここまで彼女に執着しないだろう。
アイドルを目指している女の子なんて、全国に五万と居るわけだから。別に山元さんにこだわる理由なんて、芸能事務所を運営する上で必要ないモノなのだ。
「山元さん。もうすぐ宮さんが来るよ」
それでも起きない。周りの喧騒は中々のモノなのに、すっかり夢の中に溺れている。深くもないソレは、目覚めた時に不快感だけを残すのに。
電話をしてから15分が経とうとしていた時、個室の扉が2回叩かれた。すぐに顔を見せたのはさっきの女性店員と彼女であった。
「本当に眠ってるのね」
「なんかすみません……。わざわざ」
「いいのよ」と少し呆れた様子の宮さんは、彼女の隣に腰を落とした。このまますぐ帰るだろうと思っていただけに、思わず彼女の顔を見つめることになる。
「私もビールいただこうかしら」
「えっ!? もう解散じゃないんですか?」
「何? せっかく迎えに来てあげたの。一杯ぐらいいいでしょう」
確かに、山元さんは相変わらず眠ったまま。しばらく起きそうもない。無理矢理起こして帰すよりは、少し待った方がいい気もする。
どのみち、眠りは浅いのだ。あと30分もすれば起きるだろう。グッタリとなるのは可哀想だけども。
彼女の視線が痛かったから、タブレットでビールを注文しようとすると、何故か店員が二杯それを持ってきた。宮さんはニヤついている。
なるほど。さっき店に来たタイミングで注文しやがったな。全く。彼女のことが心配じゃなかったのかよ。
「何よその顔。あなたの分も頼んであげたのに」
「誰もお願いしてませんから……」
「あ、そう。なら私がいただいてもいいのね」
この店は、どんなに忙しくても凍ったジョッキにビールを注いでくれるらしい。
半透明の奥にある黄金色は、その輝きを隠しきれていない。すでに二杯飲んでいる俺にとって、それはまさに喉から手が出るほどの輝き。普段の飲み会なら、エンジンが掛かってきたタイミングなのだ。
「……飲んであげてもいいですけど」
「素直じゃないわね」
それに今は、彼女に頭が上がらない状況である。純粋に、俺一人じゃどうにも出来ない場面を助けに来てくれたわけで。無論、俺のためじゃなく、山元さんのためなんだけれど。
宮さんとやる気のない乾杯をして、黄金色を喉に流し込む。体に染み渡っていくアルコール。ビールは味わうモノじゃないと教わったが、この歳になってそれも違う気がしてきた。
「あの子の前でもタバコ吸うのね」
灰皿に眠っていた2本に視線を落としながら、宮さんは言う。声色は決して怒っているわけではなく、ただ自分の中にある疑問を解決するためだけのモノにしか聞こえない。
「まぁ……。寝ちゃった後ですけど」
「そう」
彼女の飲みっぷりは中々のモノだった。話の続きを生み出すわけでもなく、男勝りの勢いでビールを体に染み込ませている。
「――怒らないんですか」
俺の問いかけの意味を、彼女はすぐに理解した。それは決して、タバコの件じゃない。
「どうして怒る必要があるの?」
そのきっかけを生んだのは、紛れもなく宮夏菜子なのだ。あの日、この人に言われた言葉はいつまでも俺の心の中に居座っている。
ただ、彼女はとぼけて言っているわけでもないらしい。その証拠に、俺の瞳をジッと見つめている。山元さんを見た後だと、失礼だが見劣りする。
「会うな、と言う言葉に反しているので」
「そうね。でも、あなたの口からは何も聞いていないけど」
そう言われて思い返す。
確かに、俺は彼女の言葉を飲み込みはしたが、面と向かって了承したわけでもない。
いやそれはそうかもしれないが、俺が気を遣ってきたことを知らないわけがないだろう。全く、本当に勝手な人だ。僅かに生まれたイラつきを鎮めるように、ビールを思い切り流し込んだ。
「別に私は、あなたのことが嫌いとかじゃないの」
「そうですかね。えらく嫌われてると思ってましたよ」
多分、その言葉に嘘は無い。もし本当に嫌っているのなら、俺が未だに彼女と会っているのを決して許しはしない。
ならどうして、宮さんは俺のことを見逃してくれるのか。その答えは、割と単純な気がした。
「――俺が彼女に手を出さないからですか」
少し目を見開いて、それは微笑みに変わった。
「それもあるわね」
「それも?」
それだけじゃないのか? なら、ほかに何の理由がある。俺が彼女と接することで事故が起きる可能性はゼロではない。現に今さっきだって、俺は自分の中の理性が揺れる音を聞いたのだ。
だとしたらこの先、何が起こっても不思議ではないというのに――。彼女のことを思うのなら、宮さんの言う通り会わない方が互いのために違いない。
「今のこの子を見てどう思う?」
「え?」
視線を眠っている山元さんに落としながら、宮さんは俺にそんなことを聞いてきた。意味が分からず言葉を探していると、彼女は付け加えるように口を開いた。
「目の前でこんな穏やかに眠っている彼女を見て――なんとも思わない?」
「それは……そういう意味ですか」
宮さんは小さく頷いた。要は、俺の良識とやらを知りたいらしい。
ここで変に嘘をつくのは得策じゃない気がする。認めるところは認めて、違うところはハッキリと否定する。その会話術がこの人には合っているはずだ。俺の営業マン経験から見るとだけども。
「正直、やばいです。下半身がちぎれるかと思いました」
ただ面と向かって言うと、めちゃくちゃ恥ずかしい。彼女から視線を逸らすと、少しの沈黙があって、それで――。
「あはははっ!」
豪快に笑われた。
俺の判断は正しかったと、今は思いたい。だから、笑われたのは恥ずかしくて悔しいのに、不思議とそれ以上嫌な気分にはならなかった。
「笑わないでくださいよ。俺だってその……マジで耐えたんですから」
「ごめんごめん。随分と正直だったから」
「嘘言われるよりマシでしょう」
「それはもちろん」
面と向かって接していれば、性格の大枠は大体分かる。山元さんにしても、宮さんにしてもそうだ。社会に生きていて、それなりの経験をすれば何となくの予想はつく。
ライトノベルの主人公みたく、インキャでも引きこもりでもない人生を送ってきた。かと言って、特段面白みのある個性があるわけでもない。
そんな自分を、初めて良かったと思えた。
人並みに恋愛もして、仕事もして、社会を知ったことが、生きる上で何よりも大切なことなのかもしれないと。なんとなく実感することが出来た。
「――この子を見つけたのが、あなたで良かったかもしれないわね」
褒められているのか。よく分からないけど、ここで頭ごなしに否定するのは何か嫌だ。悪い気はしないし。
「桃ちゃんはずっと活動してたじゃないですか」
「でも、あの頃より今の方が可愛い」
チラリと山元さんを見る。
一定のリズムで呼吸する彼女の横顔。美しくて、そのまま瞳を奪われる。
「そうですね」
心からの同意だ。そもそも否定するつもりも無かったけど、声に出して頷くつもりも無かった。けれど、山元美依奈を見ていると心の奥深くに眠っていた感情が疼きだす。
「この子がこうなるのは、どうしてか分かる?」
誰にでも酔い潰れたい日はある。何なら、宮さんはその理由を作った張本人だ。
でも、彼女を責めるのは違う。あれはあくまでも、山元さん自身の問題。怖気付いたから、俺に意見を求めた。ただそれだけの話。
――というのは、あくまでも表向きの感情である。
「分かっているんでしょ?」
それを認めてしまったら、宮さんは何と言うのだろうか。今度こそ「もう会うな」と力強く言ってくるのだろう。それは嫌だから、最後の最後で俺は嘘をつく。
「さあ。そろそろ帰りましょう。彼女も起きそうですし」
俺の感情が伝わったのか、山元さんは「うーん」と唸りながら体を起こす。見るからにダルそうで、俺たちがゆっくり話す時間も終わったようだ。
「――それとも、まだ酔いが足りないのかしら」
足りないさ。これぐらいじゃ。
俺は彼女よりも、酒は強いから。
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