第31話


 彼女からの呼び出しを受けた時は驚いたけれど、断る気にはなれなかった。喫茶店のあの出来事のことを聞こうとも思ったが、悩んでいる山元さんを見たらすっかり頭から抜け落ちていた。


 夜は長いのだから、聞くタイミングはいくらでもあるはずだと思っていた俺が甘かった。というのも――。


「えへへ。新木さんのえっち」

「なんでだよ……」


 店に入って1時間ちょっと。彼女はすっかり出来上がってしまった。酒弱いくせに、ビールを二杯も飲むからそうなる。俺が止めるべきだったのだろうが、そもそも飲めとそそのかしてきたのは彼女の方だ。


「んー。お腹すいたー」

「サラダと唐揚げお皿に置いてるよ」

「食べさせてぇ」

「えぇ……」


 電話越しに酔っている彼女をはあるが、目の前で見せられると破壊力が違いすぎる。

 結論から言えば、めちゃくちゃ可愛い。世界が滅ぶんじゃないかってぐらいに、世の男を虜にしてしまうだけの魅力がこの空間に溢れているではないか。

 食べさせて、と言われてドキッとしたが、今の彼女にあのことを聞いてもどうせマトモな答えは返ってこない。

 ただ空きっ腹に酒を飲ませるわけにもいかないから、しょうがなく彼女の箸を持って唐揚げを掴んだ。


「ほら、口開けて」

「あーん」


 カップルかよと心の中でツッコんだ。個室じゃなかったら絶対にしてなかった。あの様子だったら、多分大衆居酒屋とかでも普通に飲んでたはず。そうなった時、こんな姿を見せられたら他の男どもの視線が集中する。

 酒が入ると気が大きくなるから、俺がトイレに立とうものなら、すぐナンパされるだろうな。可愛いのに、こんなに弱々しくなってる彼女は、恰好の的。想像するだけで、声を掛けてくる男を殴りたくなる。


「えへへ。美味しい」

「良かったな」


 いい笑顔だな。酒のせいで顔は真っ赤だけど、二杯目のビールはまだ半分近く残っている。これ以上飲ませると潰れるだろうから、注意して見ておかないと。余裕で電車もあるが、帰りはタクシーを使わせた方が安心だ。


「男の前でそんな姿見せちゃダメだぞ」

「どうしてぇ?」

「どうしてってそりゃ……」


 言葉を選ぼうと思ったが、酔っている彼女にそれは要らぬ遠慮だろう。


「すぐ襲われるぞ。無防備な君は、男の目には毒だ」

「んー毒?」

「そう。猛毒だよ」


 正直、今の山元さんに「ホテル行こう」と言えばひょいっと付いてきそうな気がする。それぐらい、誰にでも雰囲気を醸し出しているのだ。

 俺だって、この状況は中々堪える。見ず知らずのナンパした女の子がこんなんだったら、切り上げてホテルに直行したいぐらいだ。


「――よ」

「え?」


 店内のBGMと喧騒のせいで、肝心なところが聞こえなかった。頬杖をついている彼女は、普段感じさせない色気を振りまいている。

 聞き返すことにすら、少し勇気を必要とするぐらい、とっくに俺は彼女の雰囲気に飲み込まれていた。


「あなただったら、いいよ」


 猛毒が全身に掛かって、俺の理性を溶かそうと躍起になっている。これまでの比じゃなく、この歳になっても下半身がうずくのは気のせいだと思いたい。


 冬だから露出が少ないとはいえ、山元美依奈の体が目の前にある。その形、匂い、その全てが鼻を抜けて本能に訴えかける。今すぐにでも襲えと言われている気がしたから、仕方なくタバコに逃げることにした。


「お、大人を揶揄うなよ」


 タバコの煙を吸うと、少しだけ鼓動が落ち着いた。鼻の下が伸びていないことを確認して、チラリと彼女の顔を見る。視線が合った。


 山元さんは、笑っていた。ジョークだと頭では理解していたけど、それでも俺は男である。鼻の下ぐらい伸ばしてもいいだろう。


「新木さんのえっち」

「……面目ない」


 何も言い返せなかった。恥ずかしながら。

 だって、ここで声を大にして否定するのは違うし、かと言って「じゃあホテルへ」なんて言うのも違う。

 そもそも、今の彼女は酔っているからそう言うだけで、明日になれば全て忘れてしまっている。山元さんはそういう酔い方をする。

 一時の勢いに身を任せ、彼女を抱いても、きっと残るのは虚しさだけ。そんな君を抱きたくなんてない。抱くのならもっと――キラキラとした君が良い、なんてね。


「んー……えっち」


 何度も言わないで欲しいが、うつ伏せになる彼女を見るとそうも言っていられない。慌ててタバコの火を消して、彼女に向き合う。今寝てしまうと、悪酔いして明日に響きかねない。


「ちょ、寝ちゃダメだよ。水飲んで、もう帰ろう」

「やだ」


 今度は、まるで駄々をこねる子どもだ。さっきまで色気を振りまいていた彼女ではない。うつ伏せになりながらも、俺の言葉にはしっかりと答えてくれる。変な感じだ。


「ん………」

「山元さん! ……参ったな」


 俺の願いも虚しく、彼女は浅い眠りに落ちてしまった。これは本格的に困る。彼女の家まで送ることも考えたが、いかんせん家の場所を知らない。それ以前に、この店から出るにも起こさなきゃ始まらないし。


 仕方がない。30分ぐらい様子見て、もう一度起こすしかないか。

 俺のビールはからになっていた。正直めちゃくちゃ飲み足りないが、ここで一人飲むのは何か違う。諦めて、消化不良に終わったタバコに手を伸ばす。彼女の方に向けなければ良いだろうと割り切って。


 目の前で眠っている彼女は、これから世間を席巻するアイドルになるかもしれない。

 今の彼女はとてもそういう風に見えないが、ポテンシャルは間違いなく今の芸能界を見てもトップクラスだと思う。あくまでファン目線だけども。それでも、俺はずっと桃花愛未を追いかけていたのだ。この目には自信しかない。



 それはただの酔い。君に。


 桃ちゃんを「演じてきた」と考えれば、本当の彼女は今目の前に居るこの子である。

 そう考えると、俺は作られたアイドルを追いかけていただけだ。別にソレは普通だと思うし、アイドル自体がそういうモノだと認識している。

 けれど、この子にはそのが無いのだ。歌やダンスの上手さはもちろん、人を笑顔にする特別な魅力。それこそが、山元さんが持って生まれた天性の才能なのではないか。


 ぶるりと震えた。テーブルの上に置かれたスマートフォンだ。俺のじゃなくて、彼女の。

 振動は止まることなく、一定のリズムを刻んでいる。電話だろう。


「山元さん、電話だよ」

「ふぇ……」


 声に反応はするが、起きようとはしない。しょうがなく、彼女のスマートフォンを手に取る。もちろん、しっかり手を拭いて。

 画面には電話番号と、登録されている名前が映し出されていた。

 その名前は、宮夏菜子。ドキッと心臓を大きな針で刺された気分だ。何もしていないのに。

 今二人で飲んでいたなんてバレたら、きっと面倒なことになる。だけど――彼女なら山元さんを連れて帰ることが出来るのではないか。


「も、もしもし。新木ですけど……」


 となれば、出るしかない。二人で飲んでいることは後から説明すれば済む話だ。


「――なーんであなたが出るのかしら」


 冷静な声色だが、怒っている。そりゃ俺だって出来ることなら、あなたの電話には出たくないよ――。


「色々ありまして……」


 ――とは言えなかった。火に油を注ぐだけだから。だけどまぁ、今はこれで良い。


「ミーナちゃんは?」

「えっと……寝てます」


 「は?」宮さんの声に重みが増す。今の言い方だと、確かに色々と誤解された可能性がある。


「い、いま居酒屋なんですけど」

「良い度胸ね。を酔い潰すなんて。何する気?」


 まだ契約していないのにね。今はグッと飲み込んで、彼女の言葉を全否定しないと。


「いやいや何もしませんから! 神に誓って!」

「どうかしらね」


 何もしないが、揺らぐのは事実である。願わくば迎えに来て欲しいぐらい。

 とにかく第三者が居ないと俺の理性が崩壊してしまう。それが本音だった。


「どこの居酒屋? 迎えに行くから」

「す、すみません。助かります」

「いいの。あなたに襲われるとたまったもんじゃないから」


 一言多い。そんなの俺だって分かっている。

 にしても、宮さんって意外と面倒見が良いんだな。多分、悩んでいる彼女のことを心配して電話したのだろう。俺と飲まなければ、きっと良い相談相手になっていたはずだ。


「今から行く。逃げないでよ」

「逃げませんから……」


 視界に入った彼女の綺麗な黒髪は、甘い香りを出しながらこの世界に溶け込んでいる。髪に隠れてしまったそんな君の顔を見たくて仕方がない。


 全然飲んでいないのに、酔ってしまったよ。君のせいで。



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