第30話


 夜の6時を過ぎた◯△駅前はとても賑わっていた。ここに来ると、初めて彼に山元美依奈として会った日のことを思い出す。裏垢を使って彼に接触して、戸惑いながら来てくれた彼の顔。今でも昨日のことのように、頭の奥に居る。


 全国チェーンの居酒屋、トリマル。彼と来た時はランチタイムだったけど、この時間になると流石に混んでいる。個室オンリーだから他のところよりも人気みたいだ。空いていて良かった。

 仕切りの向こう側からは、声が大きくなり始めた男性たちの声が聞こえる。ああいうのを聞いていると、ついこちらまで気が大きくなる。


 閉め切られた個室のドアを2回叩く音がした。返事をすると、店員さんが顔を覗かせる。


「お、お疲れ様」

「遅いよ。もうっ」


 なんて言うけれど、彼はしっかり時間を守っている。言いがかりも良いところだった。

 彼は店員さんに促されるまま、私の向かいに腰を落とした。はぁ、とため息に近い疲労を吐き出しながら。


「土曜日なのに、お仕事お疲れ様」

「ホント勘弁して欲しいよ。休日出勤なんて」


 私が電話した時、彼は職場に居た。言う通り、休日出勤中だったのだ。だからその邪魔をしたことになるのだけれど、彼も休みの日に働く不憫さに飽き飽きしていたところで、すぐ私の誘いに乗ってくれた。驚いてはいたけどね。


 お手拭きを顔の前でこねくり回す彼と、視線が合う。


「何飲む?」

「え、えっと……ウーロン茶でいいかな」


 何を遠慮してるんだと思った。食い気味に問いただす。


「お酒じゃなくていいの?」

「……今日は休肝日にしようかなって」

「ふーん……」


 そう言い訳する彼に、私は見せつけるようにお酒のメニューを開いた。夏菜子さんには申し訳ないけれど、今はすごくお酒が飲みたい。

 冷静に考えることが出来なくなると分かっているけど、今は。今だけは。


「私はビールにしよ」

「ほ、本気?」


 案の定止めにきた。ムカつく。

 ……まぁ、彼の前で一度やらかしたことあるから仕方のないことだけど。


「うん。ダメ?」

「いやダメじゃないけど……」

「新木さんも飲もうよ」


 休肝日だか気を遣ったのかは分からないけど、私としては一緒にお酒を飲みたい。一人だけ酔うのは嫌。彼には、楽しそうに笑っていて欲しいから。


「……その顔はズルいよ」


 そんな変な顔はしてないけど。でも、バカにされてるわけでも無かったから、何か嬉しい。


「えへへっ。ビール二つね」

「分かった分かった。食べ物は適当に頼もうか」


 彼は、慣れた手つきでタブレットを操作する。トリの唐揚げ、キムチなどビールに合う食べ物を見つけては注文する。


「そういや、山元さんは何してたの?」


 その疑問はもっともである。私はただ、今から会えないかと聞いただけで、何をしていたかは言っていなかった。


「……あの、ね」

「うん」


 事情を説明しようとした時、個室の扉が開いた。女性の店員さんがビールとお通しを持ってきてくれた。咄嗟に言葉を飲み込んで、彼女が出ていくのを待つ。

 目の前に置かれた中ジョッキは、凍っていたようで白く染まっている。特有の黄金色がキラキラと輝いているように見えて、すごく美味しそう。


「とりあえず、乾杯しよう」

「うんっ」


 手に持ったソレから、冷気が体に流れ込む。指先はひんやりと痛むのに、胸の中はポカポカと暖かい。寒暖差で風邪引きそう。


「お疲れ様。乾杯」

「乾杯っ」


 カチャンと音を鳴らして、彼に触れる。凍っていたジョッキが溶けてしまうぐらいの熱。私の指先から伝わる感情に身を任せて、黄金色が体の中に流れ込んでくる。

 特有の苦味にもすっかり慣れた。ハタチになって初めて飲んだ時は「飲めたものではない」と思ったのに。人間は不思議な生き物だな。


 ぷはーっ、と彼の飲みっぷりには目を見張る。とても休肝日だと言ってた人には思えないぐらいに。それが可笑しくて、思わずクスクスと笑った。


「それで、さっきの続きは?」


 少しムッとした表情で問いかけてくる。本気で怒っているわけではなくて、私のことを揶揄っているだけ。それが分かっていたから、溢れる感情を誤魔化す必要も無かった。


「――また、怖気付いちゃって」


 「どうして?」彼の声は、私が思っていたよりも優しかった。


「今日、本当は契約する予定だったんです。だけど、その……」


 それ以上は言わずとも、彼には伝わった。この人はアイドルを辞めた私のことをずっと、見てきてくれたから。

 視線を僅かにズラすと、彼のビールはすでに半分以上減っている。私はまだまだ残っている。なんか悔しい。


「怖気付いて立ち止まることも、勇気だと思うよ」


 そんな彼の言葉は、ひどく良い匂いがした。不思議な感覚。目からうろこが落ちた気分だった。


「勇気……」

「うん。突っ走ることも大事だけど、立ち止まって冷静になることも大切なんじゃないかな」


 「受け売りだけどね」と言って彼は笑うけど、今の私の心には素直に染み渡っていく。受け売りなんかじゃなくて、彼の言葉がすんなりと染みていく。

 怖気付くことをネガティブに考えない思考もあるんだと、純粋に感心すらした。恥ずかしくなったのか、彼はジョッキを手に持って残り少なくなったビールを一気に飲み干してみせた。


「どうして怖気付いたの?」


 タブレットで二杯目のビールを注文しながら、彼は疑問を飛ばしてきた。そして先ほどのことを思い返す。夏菜子さんに言われた「覚悟」

のことを。


「私は……心のどこかで逃げ道を探していたんだと思う」

「うん」

「それが絶たれるって、現実を突きつけられた気がして」


 夏菜子さんの言うことに何の間違いもない。一度逃げ出した私が同じことを繰り返さない保証はどこにもないのだ。

 だから釘を刺す意味でも、あの言葉は正しい。多分、私が同じ立場でも言ってたと思う。

 本当に私は弱い。周りの喧騒に消えてしまいそうなほどの細くて折れてしまいそうな心。


「いいさ」


 彼は、そんな私を否定しない。

 そうしてくれるだろうって頭の片隅にあったから、今もこうして呼び出したのだけれど。瞳を合わせると酔いが一気に回ってきそうになるから、視線を伏せて彼の空気を感じるしか出来ないのが、少しだけ虚しい。


「突っ走って、ぶつかって死んじゃうよりも、ゆっくり、マイペースに。たとえ止まったとしても。そっちの方が、山元さんには合ってるんじゃないかな」


 運ばれてきた二杯目のビールを飲みながら、少し照れ臭そうに言う。意を決して彼の瞳を見つめようと思ったのに、そんな時に限ってあなたは視線を逸らして。寂しいな。

 どうしてそっちを向いちゃったのかな。照れ臭いからかな。私と同じで、酔いが早く回っちゃうからかな。色々考えて、自分で恥ずかしくなって、結局はまた黄金色に口付ける。


 苦いのに、すごく甘い。

 甘いのに、どこか苦しい。

 すごく不思議な感覚で、すっかり消えてしまった泡に身を任せたくもなる。


「ファンとして、そう思うよ」


 その泡ですら、私の心をすくい上げてくれるわけじゃない。ただ波に乗るがままに、揺れ動くこの感情を理解しようと頭が働いてしまう。

 どうしてこんなに切ないのだろう。彼の優しさに溢れた言葉を浴びているのに、どうしてこんなにも……胸が痛いのだろう。黄金色は私のことを見つめるだけで、本心を引き上げることもしない。

 喉に流し込むと、奥が痺れる感覚がした。目の前に居る彼はタバコを吸おうとすらしない。あの匂いはすごく好きなのに、また私に気を遣っているんだろうな。


「まぁなんだ。辛くなったら逃げても良いさ。俺だって話は聞くし。もちろん、愚痴だっていくらでも」


 ふと考えた。あの時、写真を撮られたのが彼じゃなかったのなら、私は今何をしていたのだろうと。

 そんなのは野暮だということぐらい分かってる。私は彼のアカウントと裏アカで繋がっていたし、彼のことを一方的に知っていた。都内に暮らしていることも、社会人であることも。そして――福岡のライブに来てくれるということも。

 だから、突発的に見せかけて実は計画性も高かったりする。彼を利用するだけして、その罪悪感で心が潰れてしまったとしても、私に文句を言う資格なんて無い。


 なのに、こんなにも私は恵まれていていいのだろうか。


 巻き込んでおいて優しくしてくれる彼や、待つと言ってくれた夏菜子さん。私一人だと、何も出来なかったに違いない。自らチャンスを捨てた人間に、もう一度チャンスを与えてくれた。


「偶然が積み重なることを、人は運命と呼ぶんだよ」


 いきなりキザなことを言い出したから、つい口元が緩んだ。


「ふふっ。急にどうしたの」

「ネガティブ思考になってる気がしたから」

「私が?」

「そう。俺には分かるよ」


 ならどうして、そんな言葉が出てきたのだろう。余計に分からない。けれど、彼の優しさであることには違いない。ここで考えていても仕方がない思考を吹き飛ばすには、十分すぎるぐらいにキザなセリフだったから。


「どうせそれも、どこかの哲学者の言葉なんでしょ?」


 私の捻くれた言葉も、感情も、表情も。その全てが、彼が飲み込んでくれる気がした。

 喉仏が上下に動くたび、いちいち心臓が鳴る。


「いいや。オリジナル」


 ホント、おかしな人。

 でも、すごく嬉しい。


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