第29話
芸能事務所・ゴールドコインの事務所は、マンションの一室を使ったこじんまりとしたモノだった。完全な住宅街にそびえ立つ築15年の賃貸マンション。駅から少し歩く。
家賃は意外と安いのよ、と夏菜子さんはコーヒーを差し出してきながら笑った。リビングにある年季の入ったテーブル。その椅子に腰掛けて、部屋を眺めた。
2LDKの良い部屋だ。一人で居るには、少し広すぎるぐらいに。
「これが契約書。ここに署名と印鑑を」
「………」
懐かしい。前の事務所と契約した時もこんな感じだった。広島から一人上京してきて、ショッピングモール内の洋服屋でバイトしながらようやく掴んだ夢へのチケット。あの頃はとにかく、希望に満ち溢れていた。
その切符を、自ら手放すことになるとは夢にも思わなかった。
「ミーナちゃん」
「は、はいっ!」
思い返していたせいで、つい声が大きくなった。夏菜子さんはそんな私を見て、一旦ペンを離すように言う。
「最後に聞くけど、本当にいいのね」
「えっ……?」
「ここでサインをすると、あなたはもう専属のタレント。私は本格的に売り出すために走る。そうなったら、勝手に辞めることは許されない」
私のような前科者。本来なら声を掛けることすらしないと思う。だって、一度逃げた人間は繰り返すから。アイドルに限らず、どんなことでもそう。逃げ癖が付いてしまって、ダメージをモロに受けるのは雇い主。それが芸能界。
「……」
「その覚悟は……ある?」
彼女は決して、脅しているわけではない。アイドルになる上でごく当たり前のことを言っているだけ。
なのに脅しに聞こえてしまうのは……私の覚悟が足りないからだと痛感した。逃げ出すなら今だと、本能が言っている。
「あの……一つ聞いてもいいですか」
「もちろん。なに?」
思考を落ち着かせるために、間を置くことにした。私としても気になっていたことはある。それは単純にして、最大の疑問。
「他に所属しているタレントさんって……居るんですか」
頭の片隅にあった疑念は、事務所に来てみて確信に変わろうとしていた。芸能事務所にしては、あまりにも小さくて地味。あちこちに書類が挟まっているファイルが置いてあるわけでもない。
まるで……それは自宅のようにすら見えるのだ。夏菜子さんは少しだけ微笑んで、一言だけ。
「いいえ」
小さく首を横に振る。彼女に声を掛けられて、芸能事務所の社長だと知ってからの違和感。それがようやく、点と点で繋がった。
ゴールドコインは、言ってしまえば生まれたての存在。設立して間もない事務所。
あの雨の日、そんなことを言われた気がしたけど、私の意識は彼女になくて、直前まで話していた彼のことばかりを――。
「前にも言ったけど、私はあなたを売り出したいの。アイドルではなくて、山元美依奈っていう女の子を」
「……買い被りすぎです」
あぁそうだ。この言葉もあの日に聞いた気がする。浮き足立っていたから、細かい話の内容まで忘れていたけれど、言われて記憶の底に眠っていたカケラが浮かび上がってくる。
夏菜子さんはフリーのスタイリストで、私をアイドルとして売り出したくて事務所を立ち上げた。こんな大切なことを忘れていたのは、頭の中にそれ以上の何かがあったから。
「私にそれが出来るんでしょうか」
「出来る、そうじゃないの。するの。私……いえ。私たちが」
「夏菜子さん、たち……?」
「ええ」
ゴールドコインは社長の夏菜子さんだけで、従業員は居ない。けれど、所属するタレントが私一人なら何とかならないこともない。
プロモーションから現場入りまで、全て一人でこなすのは無理があるけど、そこは彼女にも色々と考えがあるはず。
「あなたには、それだけの魅力がある。彼もゾッコンじゃない」
「あ、新木さんは別にそんなんじゃ……」
思わず否定してしまったけど、夏菜子さんは彼のことをどう思っているのだろう。いえ、どんな目で見ているだろうか。
邪魔者と考えているのなら、少し毒が足りない気もする。あんまり悪い印象は抱いていないのかな。彼に対しては、本心がよく分からない。
「ねぇミーナちゃん。あなたは、どんなアイドルになりたい?」
そんなことを聞かれた。かつてアイドルを目指したあの頃の感情を思い出そうとするけど、真っ先に出てきたのは、そうじゃなくて。
「……サクラロマンスの時は、とにかく沢山の人に歌と踊りを見てもらって、それで――」
「それで?」
言葉に詰まってしまった。その理由は、すごく単純なもの。
「メンバーを引っ張らなきゃって……」
本心。心の中に閉じ込めていた感情。それを初めて誰かに打ち明けた。
アイドルとして、ファンのことを見ていなかったと心が痛む。でも、私より年下の子たちの手を離すわけにもいかなかった。ネットの声であの子たちの悪口を見るたびに心が苦しくなって、何とか見返してやりたくて指導だってした。
心ない声は、本当に人の心臓を止めてしまうだけの力がある。メンバーのことは大切にしていた。彼女たちに寄り添いすぎるほどに。
その結果、私の心が壊れてしまった。
歌、ダンス、その全てが嫌になって、ヤケにやって。ファンである彼を巻き込んだ。
「ミーナちゃん」
「あ……」
夏菜子さんの手が、私の手を包んだ。無意識のうちに震えていたせいで、その暖かみがよくわかる。
「あなたは優しい子よ。私はそんなあなたを見て、それが心を苦しめてるって分かってた」
「え……」
「だから、何にも縛られなくていいの。一人で、あなた自身の魅力を存分に発揮して欲しい」
優しい声だった。胸が溶けていくぐらいに、暖かくて、穏やかで、感情の波が収まっていくぐらいに。
グループアイドルに向いていない――。前の事務所を辞める時に、嫌味でそう言われたことを思い出した。そもそもグループとして売り出したのは彼等なのに、辞めて行く私にそんなことを言うなんて、余程イラついてたんだろうな。
夏菜子さんも、同じようなことを言ったのに。比べ物にならないぐらい優しくて、前向きな捉え方をしてくれて。
「来てもらったところ悪いけど、もう一日、考えてみて」
「え、で、でも……」
彼女は遠慮する私を優しく諭した。今のあなたは、意志が揺らいでるからと。
情けない話である。彼の前で自分の意思をハッキリと認識したつもりだったのに、いざ目の前にすると怖気付いてしまった。
「大丈夫。待つから。あなたの為だもの」
年が明けたから、私は今年28歳になる。アイドルとしては、正直厳しい年齢。彼は気にしないと言ってくれたけど、世間的に見たら痛々しくもある。
夏菜子さんとしても、出来るだけ早くコトを進めたいはず。もしデビュー曲をリリースするとしても、今から準備して今年中に出せるかどうか。曲を出すにしても、レーベルとも契約しなきゃいけないし、まずクリエイターを見つける必要もある。やることは山積みである。
「大丈夫。大丈夫よ」
「夏菜子さん……」
夕陽が部屋に差し込んでいるせいか、少しだけ空気が暖かい。いや、この正体は空ではなくて、目の前のこの人だ。
私を包み込んでくれる、まさに母親のようだった。しばらく帰省していないから、久々に二人の顔を見たくなった。
心が少し落ち着いたから、夏菜子さんに促されるままに席を立って事務所を出た。マンションの少し古びたエレベーターを使って地上に出る。
道路は夕焼け色に染まっていて、堪えていたのに泣きたくなる。泣きたくなると――彼に会いたくなる。
だって、彼ならきっと私の愚痴全てを受け止めてくれるから。たとえどんなに屁理屈なことを言っても、笑ってくれるから。
あのパンケーキの味が口の中に広がった気がした。甘くて苦い、あの時の。
夕焼けに伸びる自身の影に視線を落としたまま、私はスマートフォンを耳に当てた。持ち運びバッテリーを使って充電していたから、少し熱い。顔から火が出そうなほどに、この冬の風をもろともしない。
「……新木さん」
びっくりしているようだった。少し可愛い。
でも、そんなに驚くこともないのに。友達からの電話くらい、普通にとって欲しいな。
そんな思考とは裏腹に、体の熱が上がっていく。心臓が鳴る。この閑静な住宅街をも切り裂くぐらいにロックを奏でている。
とにかく今は――。
「今から、会えませんか」
あなたに背中を押してもらいたい。
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