第28話


 喫茶店を出て、少し振り返る。寂れた看板に「喫茶・スウィート」の文字が掠れている。モダンな外観から醸し出す雰囲気そのままに、店内もすごくが流れていた。


 冬の冷気が体を刺激する。コートを羽織っているとはいえ、ジッと立っているのは辛い。看板に想いを馳せるのをやめて、そのまま歩き始めた。

 スーツを着たサラリーマンも多い。彼もその中の一人だと思うと、この世界は彼らに支えられていると言っても過言じゃない。


「あら、奇遇ね」


 私の目の前から歩いてきた女性に声を掛けられた。その人は黒のレザーコートに黒のキャップを被っていて、とても個性的な印象を受けた。そう、あの日のように。


「夏菜子さん。偶然ですね」

「お買い物かしら?」

「街ブラ中で。今から帰ろうかなって」

「そう」


 宮夏菜子。金髪ショートカットがよく似合うカッコいい女性だ。その正体は、芸能事務所・ゴールドコインの社長。そしてなにより、私をスカウトしてきた張本人である。

 お洒落な街を歩いていても様になる雰囲気とルックス。あのマスターのように、昔はさぞモテたんだろうと思う。


「夏菜子さんはこれから何を?」

「あなたに関わるちょっとした仕事」

「私に?」

「ええ」


 そもそも、夏菜子さんの顔には見覚えがあった。ポスター撮影の時もそうだったし、サクラロマンス時代から何度か私たちのスタイリストととして現場入りしていたから。

 だから、芸能事務所の社長だって言われた時は本当に驚いた。正直、嘘じゃないかって疑った。でも国税庁のサイトで調べたら、ちゃんと出てきたからそれは杞憂に終わった。


「明日、事務所に来てくれる? 給与振込用の口座と、銀行印も忘れないでね。そこで正式に契約書とか取りまとめるから」

「分かりました」


 何度か一緒に仕事をしたことがあるから、この人は信用できると思う。見た目だけで言えば、確かに胡散臭いと疑われても仕方がないのが本音。けれど、私を騙して夏菜子さんに何の得も無い。

 むしろこんなを、もう一度アイドルとして売り出そうしてる時点で、頭のネジが外れている。彼女の厚意を無下にするようで申し訳ないのだけれど、私はそういうことをしてしまったのだ。


「いてっ」


 彼女の細い指が、私の額を叩いた。痛くないけれど、反射的にそんな言葉が漏れる。


「顔に出てる」

「ご、ごめんなさい」

「ふふっ。いいの。謝らないで」


 私が何を思っているかまでは聞いてこなかった。夏菜子さんにそう言われるなんて、自分でもどんな顔をしていたのか気になる。

 行き交う人も多いから、私たちは無意識に建物側へ寄って話をしていた。どこかの店でゆっくり話したいと思ったけれど、夏菜子さんは仕事だからそれは難しい。


「ねぇ、ミーナちゃん」


 視線を行き交う人たちにやっていたら、名前を呼ばれた。


「あの人に会った?」


 あまりにも抽象的な言い方だった。けれど、私にはその言葉の真意がよく分かる。あの人というのは――紛れもなく彼のことである。

 二人にどんな接点があるのかは知らないけど、少なくとも夏菜子さんは週刊誌に載っていた男の人が新木さんだと言うことは理解していた。業界人ならそのぐらいの情報を抑えていても不思議じゃない。


「どうしてです?」


 あえて否定も肯定もしない。ここでその結論を出してしまうと、彼女の本心が読み解けないと思ったから。でもこの回答も、側から見たら「会った」と言ってるようなモノだった。


「ううん。なんとなく。あの時と同じような顔をしていたから」

「あの時?」

「そう。覚えてない?」


 彼女と会ったのは一度きりじゃないから、記憶を辿るしかない。思い当たる節は無くて、つい首を傾げる。すると夏菜子さんは、溢れる感情を堪えきれずにクスッと笑った。


「ミーナちゃんって、感情が出やすい子よ。時にはポーカーフェイスも大切なの」

「は、はあ……」


 彼女の危惧することも分かる。アイドルにとって、熱愛疑惑というのは致命的なスキャンダル。私はそれを狙って彼を利用しただけに過ぎない。

 その張本人が、アイドルに戻るきっかけを与えてくれるなんて誰が思っただろう。この歪な関係性は、あまりにも爆弾。だから、これっきりにしてしまわないと大きな弊害になるのは目に見えて明らかだった。


 でも――彼は恩人でもあるのだ。

 一方的に利用してしまったのに、彼はそれを許してくれて、かつ今の私に足掛かりをくれた。そんな彼のことを切り離すなんて、私には出来ない。


「……私は、本当にアイドルとしてやっていけるのでしょうか」

「あら、悩みは吹っ切れたと思ってたけど」


 吹っ切れただった。だけど少し考えると、こうして弱音となって言の葉になる。ただこうして聞いてくれる人が居るだけで、心の負担はだいぶ軽くなる。


「彼は何と言っていたの?」


 思い返す。記憶を辿る。

 答えはたくさん出てきた。それだけ優しい言葉を掛けてくれていたから。その中で、あの年末のことをピックアップする。


「――少なくとも、俺はトキメクって」

「へぇ」


 夏菜子さんのニヤついた声に、ハッとした。カマをかけられたと気付いた時にはもう遅い。口元を手で隠そうが、言い訳を考えようが、言い逃れ出来ないと察してしまって。


「こっ、これはその……」

「もうっ。彼もキザなことを言うわね」


 そうは言うけれど、夏菜子さんは呆れたような、揶揄からかっているような声だった。

 別に交際しているわけじゃないから、二人で会おうが何の支障はない。表面上は。それを面白おかしく週刊誌が取り上げるのを知っているから、彼女は私たちのことを探ってくる。


「ま、彼の言うことも間違いじゃない。そういう意味では見る目あるわね」


 夏菜子さんも、私のことをすごく買ってくれている。スカウトされたあの雨の日も、彼と同じようなことを言ってくれたのを覚えている。

 切なくて、心まで濡れてしまいそうになったあの雨の夜に、彼は自分の手で私の心を晴れやかにしてくれたから。


「それじゃ、私行くわね」

「あ、ごめんなさい。お仕事中だったのに」

「いいの。またミーナちゃんのことを一つ知れたから」


 揶揄われていると思ったけど、もう何も言わなかった。イタチごっこになると思ったから、ここはグッと反論したくなる気持ちを飲み込んだ。


「そうそう」


 人波に乗ろうとしたまさにその寸前。夏菜子さんは振り返って、私の顔を見つめた。何かを思い出したかのような表情をしている。


「タバコの匂いは、意外としつこいの」

「えっ?」

「入念に消臭しないとダメよ。それか、匂いが付いてもいい服装をしなさい。そういうところに行くのなら」


 「それじゃまた明日ね」彼女はそのまま人波に飲まれていった。そう言われたから、思わず着ているコートをクンクン嗅いでしまう。

 確かに洗剤の匂いよりは焦げた感じの印象を受ける。非喫煙者だけど、全く気にしてなかった。アイドルになるのなら、意識しないと。イメージが大切な職業だから。


 まぁ、私が言えた口ではないけど。


「……さむい。帰ろ」


 その前に晩御飯の買い出しもしないと。今日はもう家から出ないように。あったかい鍋でもしようかな。一人だけど。いや、一人だから。

 寒空の下で話していたせいか、ぬくもりを感じたい本能がささやく。辛くて汗をかいてしまうぐらいの、ぬくもりが欲しい。


 あ、そうだ。消臭スプレーも買わないと。ちょうど切れてたような気がする。まあ家に置いておく分には良いし、うん。買おう。

 でも、そうしたらこの焦げた匂いは消えてしまうのかな。彼のタバコの匂いが、唇に付いたあの味すらも、明日の朝には居なくなっているのだろうか。


 また行こう。そうすれば、きっとこの鼓動は落ち着くはず。この紅潮は、桃色のチークを付けたせいでそう見えるだけだもの。


 きっと、あなたは揶揄うでしょ?

 そう言われないために、早く帰ろう。


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