4th

第27話


 どうかしていたと思う。


 自分のことばかりを考えて、大切であるはずのファンを巻き込んでしまう。そんな愚かな行為を思い返しては、今でも胸が痛む。


 タバコの匂いが染み付いたこの空間は、そんな自分を脱ぎ捨てるのにピッタリな気がした。私に声をかけてくれたあの日から、ずっと気になっていた場所。いつか一人で来ようと思っていたところに、彼は居た。


「意外に大胆だね、君も」

「……そう、ですね」


 彼と仲良く話していたマスターが声を掛けてくる。彼が店を出て行ったから、残されたのは食べかけのパンケーキと、飲みかけのコーヒーと、私だけ。店内の老人たちは、私たちに興味すら示していない。


 大胆だと言われた。確かにその通りだと思う。男の人にあんなことをしたこともないし、しようと思ったこともない。ただ少しだけ、揶揄からかいたくなっただけ。

 それだけなのに、チクリと胸が痛む。何も言わずに、恥ずかしそうな顔をして出て行った彼の顔を思い出すたびに、チクリと。


 彼に差し出したフォークは私の手元にある。思えば、彼との出会いからこれまでは偶然の積み重ねもいいところだ。積み木なら、もうすぐに崩れ落ちてしまうほどに。


「替えのフォーク、置いとくね」

「ありがとうございます」


 半分以上残っているコーヒーを顔に近づけると、苦味の中にある爽やかさが鼻を抜けた。

 口付けて、舌の上に広がる暗くて染みる苦味。紅茶よりもコーヒー派。アイドル時代から「意外だね」と言われることも多かった。


 マスターがフォークを持ってきてくれたから、私の手元にあるソレは2本に増えた。持ってきてくれただけで、下げることを忘れたらしい。


 椅子にもたれて、窓の外を眺める。

 昼間の都会は忙しなく人の流れがある。見ているだけで酔っちゃいそうになるぐらい。

 だけど、目に映る全ての人たちには生活があって、大切な人だって存在するかもしれない。そうやってこの世界は創り上げられてきた。


 誰かの幸せになっていたことも、彼と出会ってから実感するようになった。サクラロマンス時代は、そんな心の余裕が無かったから。


 そんな私は、もう一度だけ挑戦しようと決心した。アイドルとして、再びあの世界に戻る。


「コーヒー、入れ直そうか?」

「えっ?」


 当然そんなことを言われたから、つい顔をカウンターの方に向けた。マスターが私のことを見つめていて、その視線はすごく優しいモノだった。


「眉間にしわ寄せちゃって」

「あはは……気が抜けてました」

「いいっていいって。アイツの前だとそんな顔出来ないもんね」


 その言葉の意味は分からないけれど、ひどい顔をしていたみたい。不思議と恥ずかしさは無かった。この人は何というか、女の人の扱い方がすごく上手な人。昔はすごくモテたんだろうなと直感が言う。


「あの……カウンターに移動してもいいですか?」

「ええ、もちろん。ガラリと空いてるので、長居してもらって構いませんよ」


 マスターは自嘲気味に笑った。


 が居なくなったから、別にこの席じゃなくても良い。カウンターだったら、マスターが話し相手になってくれるだろうし。

 コーヒーとミニパンケーキのお皿を移動させて、さっきまで彼が座っていた席に腰を落とした。微かに残っているタバコの匂いが私の体の中に染み込んでいく。


「はい、おかわりコーヒー」

「あれ、注文してないんですけど……?」

「奢り。僕のね」


 茶目っ気たっぷりにウインクされた。白髪が良く似合う人だけど、可愛らしい。いくつぐらいの人だろう。多分、本当の歳より若々しい。なんとなくそれは分かる。


 マスターはフォークが2本あることに気づいて、彼に使ったモノをここでようやく下げてくれた。別に邪魔じゃなかったから、このままでも良かったケド。

 二杯目のコーヒーから上がる湯気。良い香り。詳しいことは知らないけど、喫茶店のコーヒーってどうしてこんなに落ち着く匂いなんだろ。


「新木さんは、よくここに来るんですか?」


 コーヒーの苦味が残る口で、思わず問いかけてしまった。ここに来た時には、少し休んで帰ろうかと思っていたのに。彼に遭遇してしまって、そんな興味が湧いてきた。


「かれこれ10年ぐらいの付き合いになるね」

「へぇ! 常連さんなんですね」

「他に行くとこも無いのかねぇ。ま、アイツに聞けば「タバコが気軽に吸えるから」って答えるよ」


 簡単に想像出来た。笑いながら、いかにも喫煙者の発想をぶつけてくる彼の姿が。可笑しくて、僅かに口角が上がってしまった。

 マスターと目が合ったから、この緩みを誤魔化すようにコーヒーを口にする。少し落ち着いた。


「新木さんってどんな人です?」

「それは君の方が知ってるんじゃない?」

「私は……そうでも」


 もちろん、知らないという意味じゃない。だけど、知り合ってからの時間が違いすぎる。


「まぁ、ああ見えてしっかり者。仕事も出来るみたいだし。よく愚痴を聞かされるけどね」

「ふふっ。なんとなく分かります」


 仕事が出来るのは知っている。ポスター起用で彼と付き合いがあるから。色々なスタッフさんと淀みなく連絡を取り合ってくれたおかげで、撮影もスムーズに進んだ。多分、芸能界でスタッフとして働いても出世するタイプだと思う。


「そうそう。君の話もよく聞いてたよ」

「……私の?」

「アイツ、君のオタクだったろ。それで」


 マスターは私のことを知っているかな。店に入ってきた時は、初めて見たような接し方だったけど。まあいいや。話も気になるし。


「どんなことを言ってたんですか?」

「とにかくベタ褒めだよ。世界で一番可愛いって」

「……変な人っ」


 人伝ひとずてに聞くと嬉しさよりも恥ずかしさが勝る。多分、私に限らず多くの人がそうだと思う。

 その分、恥ずかしさが引いた時に現れる嬉しさはひとしお。手元で口を隠さないとニヤけているのがバレてしまうぐらいには。


「気になるかい?」


 その問いかけの意味が理解出来なくて、首を傾げた。マスターの表情を見ても、イマイチ分からない。

 今のままその問いに答えるなら「気になる」だ。でもそれは、彼の質問の中身のことで、決して本質ではない。

 だからそう返答するのは違う気がした。ここは素直に「何がですか」と聞き返す。するとマスターは、僅かに口角を上げた。


「アイツのことが気になるか、ってことさ」

「……それは」


 下手に答えるとあらぬ誤解を招くと思った。だから少し考えて、言葉を導き出す。


興味があったので」


 ハッキリと言う必要がある。含みを持たせる理由は無いのだから。


「そう。てっきりデキてるのかと思ってたよ。をしたからさ」

「そ、それは……その」

「あはは。変なこと聞いて悪かったね」


 彼は素直に引き下がった。もっと食らいついてくるかと思ったけど、そうでもない。さっきの行為が頭をよぎる度に、胸が鳴る。痛いぐらいに。

 そんな私を尻目に、言葉を続けたのはマスターの方であった。


「ここだけの話、アイツも失恋したら落ち込むタイプなんだよ」

「失恋……」

「そう。真面目な奴だから」


 彼の過去を深掘りするつもりは無かった。気にはなるけど、どんな人か知ることが出来ればそれで良かった。

 私がサクラロマンスというアイドルグループに所属していたように、彼もまた人並みに生きて、恋をして、涙していた。


 握手会に来ていた彼しか知らなかった私にとって、ひどく違和感のある情報でしかない。けれど、この人が言うのだから事実なのだろう。

 今だって、誰かと付き合っていても不思議じゃない年齢。むしろ、もう結婚していてもおかしくない。


 少し苦しい。息が、胸が。

 アイドルに戻る不安とは違う痛みがゆっくりと全身に広がっていく。


 私が差し出したパンケーキを、口に入れて見せたあの顔は、どんな感情だったのだろう。問いただしたくなっても、彼はもう居ない。きっと仕事に戻ってしまった。

 気になる。何を思ったのか。そして――私自身がどうしてあんなことをしたのか。


 視線を落とすと、食べかけのパンケーキがある。もう冷めてしまっているけど、ご馳走になったから、残すわけにはいかない。

 フォークに刺して、それを口に運ぶ。甘い。甘い。知っている味。それなのに。


 少しだけ、タバコの味がした。



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