第26話
「どうしてこの店に?」
「前に来た時、雰囲気がすごく好きだったから」
カレーを丁寧に食べる彼女。近くのカウンターに移動して右肘をテーブルに置き、半身だけ山元さんの方に向ける。
一緒の席に座ろうかとも思ったが、食事中の様子を正面から見られるといい気はしないだろう。このぐらい離れている方が互いの為だと判断した。
幸い、こうして話していても支障が無いぐらいの客数しかいないから。あんまり大声では言えないけど。
「カレー美味しい」
「でしょ。俺の行きつけだから」
「だからこの前も?」
「そう。お客も居ないし、マスターは信用出来る人だから」
染み付いてしまうタバコの匂いはどうしても消せなかったが、それでも自分のホームで話を進めたかった。いかんせん、ポスター起用の交渉なんて初めてだったから、ちょっとしたことで動揺するのだけは避けたかったのだ。
「山元さんは、タバコの匂いって気にしない?」
ふと気になったから、問いかけてみた。カレーを口に入れていた彼女は、口元を手で隠しながら丁寧に咀嚼している。タイミングが悪かったから、視線を逸らして返答を待った。
「気にはなりますけど……最近はそうでも」
気にしてなかったら喫煙席オンリーの店を選ばないだろう。彼女の返答はもっともである。
「へぇ、どうして?」
「……どうしてだろう」
肝心なのはその理由。コトンとスプーンを置いて、真剣に考えている。わざわざそこまでしなくていいのに、と言ったところで彼女はしっかり理由を探すのだけど。
「…………」
「ん?」
山元さんと目が合った。俺の顔をまじまじと見ているが、そんな大層なモノでは無いだろう。
「い、いや。なんでも……」
そうかと思ったら、プイッと顔を背けてカレーを口に運ぶ。なんだよ。言いたいことがあれば素直に言えばいいのに。
彼女に背を向けると、目の前でマスターが新聞を広げていた。暇そうにしているから、つい声を掛けてしまう。
「やっぱ分煙にした方が良いと思うよ」
「……僕もそう思ってたところ」
普段から喫煙所で吸っているせいか、非喫煙者の前でタバコをふかすことに抵抗感があった。周りの爺さんたちは関係なくプカプカ吸っているけれど、彼女の前だと余計に気を遣ってしまうというか。
「ねぇ」
この場で一番綺麗な声が響いた。
店内BGMをも切り裂くだけの美しくてよく届くそれは、間違いなく俺に向けられたものであろう。
振り返る。今度は体ごと、回る椅子をくるりと。
「なに?」
「……気を遣ってる?」
「どうしてさ」
「分かるよ。だって、新木さんはそういう人だから」
この子は時折、人の心臓をチクリと刺す。でもそれは決して不快なものではなくて、愉快で、幸せな味がするモノ。あんまり言われると、今度は勘違いしてしまうぐらいの麻薬のように。
真っ直ぐで綺麗な瞳が刺さる。ずっと見ていると心が完全に奪われてしまう気がしたから、僅かに逸らしてしまった。
「買い被りすぎだよ」
「ううん。新木さんが居なかったら私――」
彼女はどこか焦っているように見えた。
俺に気を遣われたぐらいで、それが焦る理由になるとは思えない。言葉を言い掛けて、少し考えている。数秒待ってみたけれど、彼女の口から言の葉は出てこない。
「山元さん?」
「……その、あの」
視線をずらすと、カレーを完食していた。中途半端に残すより、しっかり食べる女の子は魅力的である。そういう意味でも、彼女はサッパリとした人だと思う。
「新木さんと会うようになって、タバコの匂いが悪くないっていうか……」
「え?」
「だからその……遠慮しないで吸ってほしいの。ただそれだけだから」
女の子からそんなことを言われたのは、もちろん初めてだった。そもそも、タバコなんて嫌いな人が多いだろうし、嫌われても当然な匂いだったり不快感があるのも事実なわけで。
俺は喫煙者だから、女の子が吸ってても何とも思わない。だが、吸わない人からすれば良く思われないはずだ。
「……ストレス溜まってる?」
「へっ?」
「いや、タバコの匂いが気にならないって言うから」
「すみませんマスター。食後のコーヒーを。あとミニパンケーキも。新木さんの奢りで」
「えっ」思わず動揺した俺とは裏腹に、マスターはニヤニヤしながら彼女の注文に応えた。同時に俺に向かって「女心が分かっていない」なんて言う。
そんなことを言われても、俺はそう思わない。だってタバコはそういうモノだから。
「何ですか?」
「あ、いやなんでもないです……」
チラッと彼女を見たつもりだった。思いがけず目が合って、呆れられる。俺の方はコーヒーを飲み終わってしまったから、手持ち無沙汰感がすごい。
お言葉に甘えて、一服してから店を出ることにした。
タバコに火を付けて、煙を肺に入れると何とも言えない幸福感に包まれる。せめてもの抵抗で、彼女には煙がいかないようにマスター目掛けて吐く。あからさまに嫌そうな顔をされた。
当然、山元さんの方は見ることが出来ない。けれど、ものすごく視線を感じる。少しだけ格好つけて、右肘をテーブルに置いて吸ってみる。
「カッコつけてる」
彼女の鋭いツッコミが決まる。嫌味というには、少し軽めである。
「別に良いでしょ?」
くるりと回って、また彼女と向き合った。
右手にはタバコ。灰が落ちないよう、一度灰皿にぽんぽんと落として。
スーツに染み付いた匂いも、今右手から天井に登っていく匂いも、君は本当に気にならないと言ってくれるだろうか。
そうだといいな、なんて思って、吸って、天井に向かって吐いて。
「……ばか」
「知ってる」
なんでそう言われたのかは分からない。けれど、不思議と悪い気はしない。だって、彼女にそう言われるのは自分だけな気がしたから。
山元さんの手元には、コーヒーとミニパンケーキが並んでいる。アイスのはずだったのに、より高いデザートになってしまった。俺の奢りだと分かってやってるな。マスターのせいで余計な出費だ。まぁ、別にこれぐらいなら気にしないけども。
「パンケーキ、冷めないうちに食べた方が良いよ」
「煙で溶けちゃうかも」
「はいはい。おっさんは背中向けますから」
随分軽口を利くようになったなと思う。彼女だけじゃなくて、俺としてもだ。桃ちゃんファンだったあの頃が懐かしくすらある。
宣言通り、背中を向けてタバコに口付ける。吸っていると、おもむろに彼女が――。
「――アイドル、やってみる」
あぁ全く。タイミングが悪すぎる。
煙を口に含んでいるから、振り返ることが出来ないじゃないか。一番聞きたかった言葉を、どんな顔で言うのか見たかったのに。
ふーっ、と吐き出してしまって、いまさら振り返るのが恥ずかしくなった。だから、背中を向けたまま、彼女の言葉を受け止めて、咀嚼した。
「――うん。リベンジだ」
ずっと思っていたこと。この言葉に嘘は無かったけれど、でも、心が痛くなった。
タバコを吸いすぎたせいだ。うん、きっとそう。だから灰皿に押しつけて、腕時計に視線を逃した。昼の1時前。
「ご馳走様。マスター会計を」
「はいよ」
席を立って、ポケットにしまっていた使い古した長財布を取り出す。開いて千円札と小銭があるかをその場で確認していると、背中に何かが当たった。
「ねぇ」
二度目だ。となれば、あの感触は彼女の綺麗な細い指。挨拶も無しに帰ろうとしているのが嫌なのだろうか。それなら、これからしようと思っていたのに。せっかちな子だな、なんて。
振り返ると、彼女はそこに居た。
「あーん」
フォークに刺さった小さめのパンケーキを、俺の口に差し出してきた。声を出す間もなく、俺はただそれを受け入れる。あまりにも唐突だったから、恥じらいとか何も無い。
でも、口の中で溶けてしまってからソレは来た。
「……へっ」
「美味しいでしょ?」
顔から火が出そうになるとは、このことだ。頬も、耳も、手のひらでさえ、真っ赤に染まっていくのが分かる。
この歳になって、女の子からの「あーん」でこんなことになるなんて、誰が思うか。落ち着いていた心臓は、フル回転で俺の体に血を巡らせている。
どうしようもなくなって、彼女に挨拶もせず会計だけ済ませて店を飛び出した。冬の空気に当たっても、火照りは冷めそうにない。
アイドルとして見ていた彼女。それがあの瞬間だけは、ひとりの女の子として映った。いや、映ってしまったと言うべきだ。
……ダメだ。こんなんじゃダメなんだ。
とにかく今は、もう一度タバコを吸いたい。吸って、あのパンケーキの味を忘れてしまいたい。
――ただ、それは確かに。
タバコの味をかき消すほどに甘くて。
同時に。
いつかの青春のように、酸っぱくもあった。
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