第22話
降りしきる雨は、目の前の道路を真っ黒に濡らしていた。街頭の灯りを反射させて、眩しくも暗く光るそれを、ただジッと見つめている一人の女性。
雨宿りをしているだけに見えなくもない。けれど、そうじゃないことは俺にも分かる。どんな表情をしているのかは分からない。
「――濡れますよ」
カバンから折り畳み傘を取り出して、彼女に差し出す。横に立った俺に、この人は少し不満そうに鼻を鳴らした。
「別に良いです」
「なら、ここで何を?」
「別に何も」
「そう」
折り畳み傘を受け取ってもらえなかったから、仕方なくダラリと腕を下げる。
いつも良い顔を見せてくれていた彼女が、こんな表情をするなんて。新鮮な気分である。
それもそうか。アイドルとして、ファンを傷つけるわけにはいかない。どんなに辛くても、彼女は俺たちに笑顔を振り撒いた。プロだから当然じゃない。人として尊敬するぐらいだ。
……そんな桃花愛未が、今は俺の隣に立っている。そして、彼女が見せてこなかった顔を見せている。そこで行き着く疑問。
彼女にとって、俺は一人のファンではないのか?
だってそうだろう。もし当時の俺がここに立っていれば、彼女はもっと親切にしてくれるはずだ。だって、ファンだから。それ以上でもそれ以下でもない存在。自ら心の中に踏み込むことはしないはずだ。
なら……それ以上の存在だと見てくれているのだろうか。途端に胸が鳴る。痛いぐらいに俺の心を抉ってくる。
その感情をただ、雨の音に乗せているだけ。何も生まないし、何も生まれない。このままだと。宮さんの言うように、自然と距離を置くようになって、何も無かったかのように残りの人生を過ごしていくだろう。
「………雨は嫌い」
彼女がおもむろにそんなことを言うから「どうして?」と聞き返した。すると山元さんは少し考えて、消え入りそうな声で言った。
「泣いているみたいだから」
子どもみたいな理由でも、彼女が言うと思わず頷いてしまいそうになった。きっとこれは、彼女の心のことだろう。今、この天気は山元美依奈の胸の中。だとしたら、俺はひどくやるせなくなった。
「あの……山元さん」
雨は止む気配もない。むしろ強まるばかりで、少し声を大きくしないと彼女には届かないと思った。不思議と恥ずかしさは無かった。周りにも人が居たけれど、不思議と。
「俺と、お友達になりませんか」
「へっ?」
彼女がこっちを見上げた。視線を感じる。恥ずかしくて顔は合わせられなかった。
言葉の意味をどんなに
あぁそうだ。俺はこう言ってしまうのが怖かったんだ。彼女との関係が変わってしまうことじゃなく、ファンという看板を捨ててしまうことが何よりも。
ならどうして、口からそんな言葉が出たのだろう。本心だった、と言われると否定するつもりはない。その場凌ぎだと思われたくもない。もしかしたら、宮さんに対する反抗なのかもしれないな。
「あの……急にどうして」
「い、いやそうですよね。何言ってんだろ……」
彼女の反応は至極真っ当だ。あまりにも唐突すぎる。だけど、今このタイミングを逃してしまえば、もう同じことを言えない気もした。
雨は変わらない。周りの人は打たれながら走ったり、諦めてタクシーを拾っていたり。俺たちのように立ち止まっているのは無かった。
年末の風は冷たい。ジッと立っているだけだと、ぶるりと体が震える。鼻をすすると、雨の匂いが強くした。
「……」
彼女はまた道路の方を向いて、何も言わなくなった。気まずい空気が流れるけれど、良い感じの言葉は頭に浮かばない。
そういう意味では、雨が降っていて良かったかもしれない。静かな夜より誤魔化しやすいから。たとえそれが、彼女の心の中だとしてもだ。
宮さんは言った。機嫌を直せと。なんでそんなことを言われなきゃいけないんだと思いながら、ここまで来た。だが確かに、彼女をこのままにしておくのは違うとも思う。
友達になろう、なんて提案は機嫌取りにもならない。ならなくていい。何度も言うように、これは俺の本心でもあるから。
「あの、山元さん」
また呼びかける。でも反応はない。
「さっきは、ごめんなさい」
だいぶ遅めの謝罪である。本来なら一番最初にやるべきことなのに、すっかり頭から抜け落ちていた。32年も生きてきて、社会人10年目になるのに。非常に恥ずかしい。
それだけ浮き足立っていると理解して欲しいワガママを思う。
「最初に言って欲しかったです」
「……面目ない」
何も言い返せなかった。彼女の毒を素直に飲み込む。すると山元さんは、今まで仏頂面だったのにクスッと笑ってみせた。
「冗談です。気にしてませんから」
なら何故、あんな寂しそうな背中をしていたのか。ファンである俺の前で違う一面を見せてくれたのか。聞きたいことは沢山あったけど、一つ言えることがあった。
「……嘘ですよね」
見栄を張っているのか、本音を出したくないのかは分からない。けれど、今の彼女は明らかに嘘をついている。俺にじゃない。自分自身に。アイドルを辞めたいと言ったあの時と同じ雰囲気だった。
「なにがですか」
「気にしてないっていうこと」
「どうしてそう思うんですか」
「なんとなくです」
「そんなの理由になってません」
「否定はしないんだね」
お互い道路を眺めながら、ただ思いつくままに言葉を紡いだ。顔を見合わせているわけじゃないのに、自然とキャッチボールが出来ている気がする。いや、きっと顔を合わせてないからだろう。
「……どうして、お友達なんてことを」
話が戻った。いや、この先に進むために必要な戻りかもしれない。だから少し考えた。答えは割とすぐに出た。
「放っておけないんです」
「え……?」
「俺、ずっとあなたのこと見てきたから」
言葉足らずだったことに気がついたのは、言い切ってしまってから。「ああいや!」なんて咄嗟に彼女の方を向いてしまったが、それは山元さんも同じであった。
「こ、これはファンとしてという意味で……!」
そんな言い訳を目が合った状態で言った。3秒間ぐらい。やがて、二人して逸らした。酒を飲んでいないのに、彼女の頬は少しだけ紅潮しているように見えた。とても綺麗で見惚れしまう。
俺としては「深い意味はない」と告げたかったが、これ以上言い訳がましくなると男としてもみっともない。彼女が察してくれることを祈りながら、分かりやすく咳払いをした。
「ふふっ」
彼女が笑ったから、少しムッとして言った。
「笑わないでください……」
「ごめんなさい。可笑しくて」
「一応、俺の方が年上なんですけど」
そんなのは理由にならないらしく、山元さんは相変わらずクスクス笑う。さっきまで拗ねていた子とは思えないほど、無邪気な表情をしている。
「だって、ほら――」
「ん?」
一通り笑った後、彼女は俺の方を見上げて、まるで年下を
気がつくと、雨は弱まっていた。
「私たち、お友達でしょ?」
二度目の高鳴りは、雨の音で誤魔化せなかった。心臓が強く跳ねる。俺の体に鞭打つように、痛く、激しく、なのに苦しくなくて。
ジッと見つめてくる彼女は、俺の瞳の奥の奥まで覗いているみたいだ。山元美依奈の黒い瞳がガラスに映る光のように揺れている。
「――確かに。それもそうだね」
彼女が手の届かない場所に戻ったとしても、それでも良い。友達として山元さんをサポートすることだって苦じゃない。迷惑をかけない範囲でなら、誰にも文句を言わせない。
「なら、雨に濡れないように」
「もう弱まったから、そんな良いのに」
「大丈夫だから。体が資本でしょ?」
半ば強引に折り畳み傘を渡した。最初こそ遠慮していたが、折れたのは彼女の方だった。
そろそろ宮さんも来るだろうし、俺も二次会に行かないといけない。あんまり待たせると藤原たちがうるさいだろうから。
「それじゃあ、また」
店はすぐ近くなのに。彼女にもすぐ会えるのに。そんなキザなセリフをぶつけてしまった恥ずかしさは、この雨に濡れて冷えていく。
「――新木さん!」
綺麗な声は、よく響いた。でも俺だけに向けられた声だったから、周りの人間は気にも留めていない。独占している気分になって、また胸が鳴る。
振り返って、呼び止めた張本人を見る。何も言わない。ただ、小さく、本当に小さく手を振っているだけ。口元がほんの僅かに上がっていているように見える。遠目からだと分からないけれど。
気がつくと、雨は止んでいた。
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