第10話


 桃花愛未というカテゴリーの終わりは、本当に呆気ないと思った。ファンクラブ会員限定とはいえ、俺が想像していたよりも参加者は少なかった。

 熱愛疑惑の代償なのだろう。分かってたとはいえ、あまりにも切ない。サクラロマンスで一番人気なのは桃ちゃんだったのに。彼女抜きでもやっていけるだけの土台が出来上がったと、事務所は判断したらしい。


 コンサートホールを貸し切っての握手会ということが唯一の救いだ。これまでグループを引っ張ってくれた彼女に対する感謝の意が込められている気がした。

 この日、まずは彼女からの挨拶で始まった。俺は決められた席に座って、ただその声に耳を傾けた。桃ちゃんから見れば、スーツの男たちが真正面に座っているのだ。何かの講演会と誤解してしまいそうで可笑しかった。


 そんな俺とは裏腹に、彼女はとにかく謝った。ファンが気の毒になるぐらいに、頭を下げた。一人のファンが「頑張れ!」と声をかけたのをきっかけに、ホールは桃ちゃんの名前で溢れた。無論、俺もその一人であった。

 

 歌も踊りもない挨拶ではあったが、自身の疑惑が原因なのだ。自重して正解だと思う。もう聞けないのは残念だけれど。

 握手会はそのあとだった。これから別室に移動して順に彼女の手を握る。最後の10秒間を堪能するために、ドルオタたちはその慣れない頭で女心を読み解こうと必死である。


 今座っている席順に、とのことで俺は最後の方だった。つまりは1時間ぐらいの待ち時間がある。その間はとてつもなく暇なのだ。仮眠しようと思えば全然出来る。


 瞼を閉じて、思い返した。これまでのことを。桃花愛未との熱愛疑惑を報じられ、彼女と二人きりで会い、連絡先も知ってしまい、そうして、グループ脱退に至った。

 責任を感じないわけじゃない。報道は事実無根にしても、俺の説得次第では脱退することは無かったかもしれない。タラレバは嫌いだが、好きだからこその感情である。

 不思議と、サクラロマンスの行く末は気にならなかった。だから俺は、生粋の桃担だったのだ。今になって分かっても、もう遅いというのに。


 あぁ、急に寂しくなってきたな。

 今まで色々あったから、こうして冷静に考えることも無かった。彼女の終わりについて。これからは知らないところで、きっと幸せに暮らしていくのだ。彼女にはそれが似合っている。


 SNSにも向いていない。人前に立つ性格とは言えない。そんな彼女が持つ圧倒的な魅力。歌唱力とダンス力。それを生かしきれなかったのが悔やまれる。本来なら、桃花愛未こそアイドルのトップに居るべき存在なのに。


「――新木さん! 起きてください」


 男性スタッフの声でハッとした。

 瞼を閉じて、そのまま眠っていたらしい。慌てて目を擦って周りを見ると、広いコンサートホールの座席に俺一人の状況が生まれていた。


「握手、新木さんで最後になります」

「あ、す、すみません……」


 スタッフが俺の名前と顔を認識していたのには訳があった。ファンクラブ会員は身分証を提示する必要がある。彼女に拾ってもらった運転免許証が役に立ったわけだ。皮肉なものである。

 腕時計を見ると、ちょうど1時間が経っていた。俺が思っていたよりも早めに進んだらしい。荷物を持ってスタッフの後に続く。少し早歩きなのが癪だが、寝ていた俺が言うことでもないと飲み込んだ。


 ホールを出ると、握手を終えたファンが数人、ロビーに残っていた。余韻に浸っている表情が見て取れる。分かるぞ、その気持ち。

 俺が最後になるなんて、それもまた不思議な縁だ。原因となったあの写真の張本人なのだから。それを事務所側が知ったらどう思うだろうな。まぁ会うこともないし、問題ないけど。


「荷物はここに。手指消毒をお願いします」

「はい。分かりました」


 ポケットの中に何も無いか確認される。見ず知らずの人間と握手をするだけ、と言えど色んな奴が居る。

 好意を持った人間以外が、彼女を傷つける危険が握手会には付き纏う。刃物なんて持ち込まれたら、命の危険すらある。だからこれは参加者としてのマナーだ。スタッフの言うことは絶対。


 飛行機の手荷物検査を通った感じだ。そのまま個室に通される。そこには剥がしのスタッフと警備の男が二人。これまでの握手会よりも厳重だ。


「あっ! 最後の方ですね!」


 そして――桃ちゃん。疲れているだろうに、ファンの姿を見ると元気よく「おーい」と手を振る。

 促されるまま彼女に近づいて、最後の手のひら確認。何か付いていたりすれば大問題だから。それを難なくクリアして、ようやく桃ちゃんの手を握ることが出来る。


「今日は来てくれてありがとうございますっ」


 さらりと伸びた黒髪。艶があって、すごく良い匂いがしそう。化粧も濃すぎず、素材の良さが際立っている。


 ――それでも、頭をよぎる山元美依奈の顔。いま目の前に居るのは、間違いなく桃花愛未であるのに。化粧も髪型も、そうなのに。かつての視線で彼女を見られなくなっている。そのコトに気づいたのが、あまりにも遅い。


「お、お疲れ様でした」


 悟られない為に堂々としていたつもりだが、声は震えていた。この緊張感と圧迫感は、これまでの握手会に無かった。

 桃ちゃんの手は、細くて柔らかい。それはこれまでと変わっていなくて、少し安心した。だけど、今日で最後だと思うと――少し手に力が入った。離したくなくて。

 彼女は、俺の右手を両手で包み込んでくれる。ファン全員に同じことをしているが、今だけは独占しているみたいで優越感が凄い。


「来てくれて嬉しいです」

「大丈夫? 疲れてない?」

「あはは。大丈夫です。お優しいですね」


 普段の持ち時間は、一人約10秒程度。だが、今日は5秒ぐらい長いとアナウンスがあった。どのみち短いことには変わりない。

 桃ちゃんはそう言うけれど、表情には疲れの色が出ていた。見ている俺が気の毒になるぐらい。たった一人でファン数百人と握手しなければならないのだ。想像しただけで気が滅入る。


 本当は目を合わせたいが、煌びやかな瞳に吸い込まれて何も言えなくなるから、口元ばかりを見ている自分がダサい。


 この時点で時間の半分を消化していた。交わせる言葉は、あと一つか二つ。無難に行けば、感謝の気持ちを伝えて終わりだ。


「君は――」


 そう、たったそれだけなのに。

 なのに――俺の口から出てきたのは感謝でも、労いの言葉でもなくて。



「本当は、アイドルやりたいんじゃないの?」



 桃色の仮面を付けていた彼女の顔が、少し動揺したのが分かった。山元美依奈の表情が僅かに浮き出てきた。でもそれは一瞬で、すぐに視線を整える。流石と言うべきか。

 これで最後だと思ったからこそ、言い残したくなかった。ただそれだけ。変に良い顔をして彼女の背中を押す理由も無い。


 うん、そうだ。だって俺は巻き込まれた側なのだから。これぐらい言ってやらないと気が済まない。

 相手の言葉に返さないと、ファンの貴重な時間を奪うコトになる。それでも、桃ちゃんは何かを言いたそうに、吃った。この行為は握手会をするアイドルにとってタブーとも言える。


「――時間でーす」


 剥がしのスタッフがそう言って、俺の両肩を優しく掴んだ。俺にとっても、彼女にとっても最後の握手。その手が離れていく瞬間だけは、やっぱり切なくて寂しかった。

 スタッフに促されるまま、俺は退場した。手を離しても一言ぶつけることぐらいは出来たのに、俺はそれ以上何も言わなかった。言えなかった。


 多分、今の彼女にとって一番言われたくない言葉だと、心のどこかで分かっていたから。本当は辞めたくないのに、心が追いつかないことで好きなことが出来ない。


 好きなことと、向いていることは違う。

 これは人間誰でもそうだ。やりたい仕事と向いている仕事が別物のように、人間それぞれ個性がある。

 神様というのは、本当に悪いことをする。彼女にあんな才能を与えておきながら、不向きの性格をくっつけてしまうなんて。


 生まれてきたタイミングもあるのかな。

 きっと、一昔前の芸能界なら天下を取れていたかもしれない。

 あぁ、また嫌いなタラレバを言ってしまった。それだけ、俺は桃花愛未を推していたから。

 最後の言葉にしては、寂しいな。「ありがとう」で良かったはずなのに。自分から思い出を傷つけてしまうなんてさ。


 会場を出たら、空は橙色に焼けていた。

 いっそのこと青空だったら、こんなセンチメンタルにならずに済んだだろう。手に残る彼女の柔らかい手のひらの感触は、夏の空気に消えていく。


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