知恵の終わり

直井千葉@「頑張ってるで賞」発売中

知恵の終わり

「では次。『異端騎士の破滅願望』より靈鷲ジン。希望する者は?」


 抑揚のあまりない、厳かで平坦な印象を与える声が世界に染み渡った。これまでの人生で経験してきた、本当に怒ると怖い人はみなこのような感じだった。この声だけで役職についたと言われても疑わないかもしれない。先ほど裁定者を自称した男はゆったりとした動作であたりを見渡す。間髪いれずに手が五つ挙がった。西、野口、鈴橋、矢野、安藤だった。

 靈鷲ジンはその圧倒的な戦闘力で基本的には無敵と言っていい。作中でも彼が通常の力を発揮できる状態で敵う奴はいなかった。しかし最も彼を主人公たらしめているのは戦闘力ではなく、その人格だ。彼が生きたのは「戦争で生まれ、戦争で終わる」との伝承が残る、倫理など所持している方が愚かとなった世界だった。そこで変わり者と見なされるジンの生き方が関わる人々の考えを変えていく。

 つまり、転生するにあたって最も難しいキャラがこの靈鷲ジンなのではないだろうか。いくら肉体を強化されようが、魔力を、知識を得ようが、人格は知識でどうこうなるものではない。悪役令嬢に性格の良い主人公が転生した結果本来とは異なるハッピーエンドを掴むことがあるのならば、その逆も十分起こり得るはずだ。

 だから、外した。自分は器じゃないと思った。

 しかしあの五人はどうだ。外面的な格好良さに憧れ、本質をまるで理解していない。あるいは自己評価が満足に出来ない人間なのかもしれない。どちらにしろ、その程度の理解力で靈鷲ジンが務まるのか。

 否、否だ。

 彼ら五人とはクラスの中でもそれほど親しくしていたわけではないが、傑物でないことくらい分かる。成績の良いわけでもなく、部活動にて優れた結果を残すわけでもなく、普通に友達がいるだけの奴らだ。……まあ、どうでもいい。どうせ今後会うことはない。困るのはあいつらだ。


 しばらく男と五人は会話をしていた。誰が相応しいのか判断しているのだろう。まるで面接である。同時進行でやってくれないため、順番でない者はひたすら待つばかりだった。

 周囲は暗闇で光源はないのだが、なぜか視界は確保されている。しかし闇が続くばかりで観察するものもない。退屈しのぎに右手の生命線を観察する。小学生の頃からこつこつ爪で伸ばしてきた生命線は、今では明らかに左手よりも長くなっている。生命線の長さを十八で割ると四くらいは伸ばした分である気がするから、俺の本来の寿命は中学二年だったのかもしれない。努力の甲斐あって、高校生活も半分以上送れたし、三年の修学旅行も行けたわけである。もう少し努力をしていれば妹にもみじ饅頭を食わせてやることが出来たというのが悔やまれるところだ。だがその場合は妹が一緒に死んでしまうことになったのだろうか。それは困る。巻き込んでしまったクラスの連中には申し訳ないが、そこは不幸中の幸いだったか。


「では鈴橋。貴方にはこれより靈鷲ジンとして『転生騎士の破滅願望』の世界へと赴いてもらう。詳しい話をしよう。あちらの天使の方へ向かってくれ」


 裁定者の男が自分たちの後方を指差す。つられて振り向くと、そこには何もないように見えた。「よし!よし!」と叫び鈴橋が握りこぶしを何度も自分の太ももに打ちつけている。「早く行くように」と男に促されると「あ、すみません」と弱々しく答え、小走りで集団の後方へと去って行った。西か矢野かの悔しがる声は聞こえるが、鈴橋を祝福する奴はいない。その程度の人間なのだ。俺はひとり声を上げずにほくそ笑む。


「では次。『True × 5 Love』より綾小路みずき。希望する者は?」


 鈴橋が去ると、すぐに次の転生者の選定がはじまった。威厳のある声で真面目に読み上げられた可愛らしい作品名が可笑しいのか、どこからか押し殺した笑い声が聞こえた。あまり詳しくはないが名作と名高い乙女ゲームだった。主人公が非常に魅力的であり、その可愛さのあまり購入者の男性比率が他の乙女ゲームと比べて高いことで話題になった。転生したところで男に迫られても嬉しくはない。まだ待つ時間となりそうだ。

 すぐに意識はまた手相にむきはじめていたが、隣でさっと手が挙がりぎょっとして見つめる。吉川礼子が耳の後ろに腕をあて、すっと高く挙手をしていた。少し肉のついた顔に、眉は吊り上がって勝気な印象を与える。口許はいつもニタニタと笑っているせいか下品に歪んでいる。すまし顔でもしていれば可愛らしいと言えなくもないが、一度でも彼女の本質に触れたことのある人間には決してそう思わせない悪趣味さをたたえている。

 礼子が乙女ゲームの主人公など質の悪い冗談だ。小学生の頃から知っているが、男子であいつを好きなやつがいるなど聞いたことがない。まだ痩せていた小学生の頃はその見た目に惹かれて近づこうとする者はいたが、礼子の好む下品な笑いに巻き込まれるとどん引いて去っていった。俺は名前も知らないイケメンたちに同情した。可哀そうではあるが、攻略対象は主人公を選べないのだ。


「他には?」


 礼子以外手を挙げる者がいないなか、裁定者が最後の確認をした。礼子が舌なめずりをしたように見えた。すると「はい」とか細い声とともに手がひとつ挙がった。続けて唾で潤った舌打ちが聞こえた。裁定者が前へ呼ぶと、礼子ともうひとりの女生徒が裁定者のそばへと進み出る。顔を確認すると、下の名前は覚えていないが苗字を守山という女生徒だった。控えめな性格である印象を持っていたが、ここで対抗に名乗りをあげるとはなかなか肝の据わった女である。

 しばらく三人で話し込んでいた。なにやら叫ぶような声が聞こえ、礼子がまさにどすどすといった足音を立てながら戻ってきた。こちらの視線を感じとったのか、一瞥するとわざとらしく荒々しい息を吐き、元のように座った。惨めな敗走である。これ以上八つ当たりされぬよう少し距離を取った。


「では守山。貴方にはこれより綾小路みずきとして『True × 5 Love』の世界へと赴いてもらう。詳しい話をしよう。あちらの天使の方へ向かってくれ」


 裁定者が告げ、守山が嬉しそうに去っていった。こちらには目もくれない。礼子は敵意を周囲に向けながら、まるで暴れ馬といった呼吸をしている。前にもこんなようなことがあった。小学生の頃、礼子が学級委員に立候補した。それまで誰も手を挙げる様子はなかったのだが、礼子が立候補すると誰かが別の女子を推薦し、投票の結果礼子は負けた。俺は集計係だから知っているが礼子には一票しか入っていなかった。落選を知らされると、礼子は怒り狂い、大泣きし、最後には早退した。いまも泣き出すのではないかと気が気ではなかったが、どうやら徐々に落ち着いてきてはいるようだ。

 俺は知らん顔を作りながら世界を救った勇者に心の内で拍手を送る。それにしても最後の最後までこんなとは。最終的に礼子もどこかに転生することにはなるのだろうが、誰か天職は悪役令嬢だと教えてやって欲しい。礼子のその在り方を世界が望むことだろう。

 俺は礼子を好きではないが、ダメなやつだとは思っていない。ただ人には役割というものがあるだけなのだ。生前、自身の役割に自覚的である必要というのは薄かった。社会生活を営むには寧ろ不要であることも度々あるからだ。だがこと転生先を選ぶにあたっては自身の役割、器を自覚することが最も幸福に繋がるはずだと俺は思う。正しい場所に正しい歯車をはめれば、世界が正常にはたらく。その点でいえば俺は、最も自分に相応しい場所を転生先に選んでいると思う。


「では次。『Can't Select』より屋敷トオル。希望する者は?」

「はい!」


 作品名、キャラ名を聞いてすぐに手を挙げた。他を牽制するために声も張り上げた。これを待っていたのだ。転生先候補のリストを見たときには目を疑ったものだ。まさかノベルゲームも転生先となりうるとは思いもしなかった。『Can't Select』の特徴は、なんといってもヒロインが妹である屋敷コズエ一人のみという点であろう。ループを重ねることで真のシナリオを迎える形式のゲームでありながら、ヒロインはただひとり。このゲームをプレイしたことがない者が聞けば転生先としては退屈に思えるかもしれない。しかしそれは大きな誤りである。深く広くひとりの人間を知り、愛し合う理想を俺はこのゲームで知った。『Can't Select』は人生だ。俺は真の人生を手に入れる。


「他には?」


 先ほどと同じように最後の確認が行われる。するとこれまた先ほどと同様のタイミングで手がひとつ挙がった。声を発しなかったため、後姿からは誰だか分からなかった。唇を噛んでそれを見つめる。覇気のまるで感じられない背中が忌々しい。屋敷トオルに相応しいのが自分であることは確定的に明らかであるが、裁定者の目が節穴であっては問題だ。


「前へ出るように」


 促されて裁定者の前へと出る。いらだちと少し期待も併せながら相手を見ると、それは楠木俊哉だった。陽の光をあまり浴びていないことが容易に推察される青白い肌は、生前より一層濃い闇に不気味に映える。この泥棒猫は小柄で痩躯、ねずみを彷彿とさせる顔をしている。こうして向かいあってもなお熱意の感じられないことは不愉快極まりない。


「それではどちらが転生するのか判断するため、いくつか質問をする」


 候補者が揃ったことを確認すると裁定者がそう告げた。先ほどまでも同じことをしていたのだろう。どうやら本当に面接の真似事をしていたようだ。しかし先ほどの一瞬の焦りは既に消えていた。相手を見る限りではまったく問題なさそうだ。団体戦で数合わせの部員を相手にするかのようだ。不戦勝となったっておかしくない。


「まず一つ目。兄弟はいるか」

「僕は妹がひとりいます」

「俺はひとりっこです」


 まずはじめに俺が、続いて楠木が答えた。楠木は熱意を装う気もなく平板な口調だ。


「承知した。次に二つ目。あなたと妹の命、どちらかが助かり、どちらかは助けることは出来ない状況となった。選択はあなたがしなければならない場合、どのような選択をするか」

「妹を助けます」

「具体的な状況はないんですか」


 俺が間髪入れずに答え、楠木がまた後手で答えた。


「必要ならば自身で設定して構わない」

「それでは、そちらに想定はなく、単純な優先順位を聞かれていると考えます。特にどちらということも思わないので一番自然な選択をしようかなと思います。例えばトロッコ問題のような状況なら俺はレバーを操作しません」


 何がおかしいのか楠木は好青年ぶった笑顔を作った。しかし目の奥が笑っていないため、あまりにいびつだった。

 それからもいくつか質問が続いた。俺はすべての質問に熱意を持って誠実に答えたが、楠木は微塵も執着を感じられないのらりくらりとした回答をし続けた。まったく話にならない。俺に、裁定者に、屋敷兄妹に、楠木俊哉という人間自身にさえ失礼だと思った。

 もう完全に趨勢は決してるはずである。形式上必要なのかもしれないが、いい加減終わってくれないだろうか。不愉快と退屈を押し殺していると、裁定者は思いがけない言葉を放った。


「なるほど。では次で最後の質問だ。ちなみに現時点では楠木にするべきでないかと我々は考えている」


 耳を疑った。誰かが小さく笑った声が聞こえた。楠木?俺ではなくて?戸惑う俺をよそに裁定者は最後の質問を述べる。


「質問。死後、転生するかどうかには明確に基準がある。その基準とは何だと思う」


 咄嗟には回答が思いつかず、ちらと裁定者の顔を窺い見る。視線はただ一点開きっぱなしで携えている本に注がれており表情は読めない。先ほどから一度もこちらの顔は見ておらず、本当に公平な判断を下す気があるのか疑わしいとは思っていた。

 思えば嫌な違和感を質問にも感じていた。この質問だってそうだ。はじめは最も相応しい人物がなるのだと考えていた。主人公になり得る器と情熱を持った人物が転生するのが世界にとっても望ましいことだろう。だが「転生する基準は何か」という問いは、人格を計ることは出来るかもしれないが主人公として適切かどうかを見極めるには少し遠い質問に思える。

 いや、楠木を現状推薦しようと考えているという先ほどの腹立たしい発言からも既に明らかだ。裁定者は相応しいかどうかを選択の基準にしていない。

 俺が考え込んでいると今度は楠木が先に口を開いた。


「生前に心残りがあるかどうか、かな」


 一瞬裁定者の口許が痙攣のような笑みを浮かべた気がした。しまった。それが正解だったのか?


「浅井、あなたは?」


 裁定者が回答を催促した。しかし、前提が覆った今俺には考えることが多すぎる。脳がぐちゃぐちゃにかき混ぜられたかのように出すべき答えがまとまらない。


「浅井」


 さっきよりも強い口調で俺の名前を再度呼んだ。俺はもう少しだけお願いしますと告げ、一度頭を冷静にするために前髪を親指と人差し指で弄る。

 もうダメなのかもしれない。望まれていた回答はおそらく出されてしまったのだ。それにきっと心象も良くない。どこを間違えていたのかすら分からない。裁定者が間違っているのではとすら思っているが、それはそこに合わせられなかった俺のミスである。

 先ほどよりも世界の闇が濃くなっている。通常の視界は確保されていると思っていたが、いまや目の前ですら見えている自信がない。それに意識していなかったがこんなにも寒いところだっただろうか。半袖に薄い長袖のパーカーを羽織るという恰好ながら刺すような冷たさを感じる。

 もうダメなのだろう。屋敷コズエを幸せに出来るのはどう考えても俺以外にいないが、世界の望むところはそうでないようだ。もしかしたらこういうところを見抜かれているのかもしれない。俺は最も大切なことは妹の幸せだと思っているが、世界を敵にまわしてまでそれを成し遂げるような胆力を持ち合わせてはいない。勿論妹が不幸になるならば抗う気概はあるが、そうでなければ運命の中で最善を尽くすことしかできない人間だった。

 ……せめて次に繋がるような回答を考えるしかないか。同じ人物に転生は出来ないが、必ず全員出来るようにはなっているとはじめにあいつは言っていた。『Can't Select』はハッピーエンド到達が非常に難しいゲームであるため他の誰にも任せたくはなかったが、それ以外にも妹の出てくる転生先は存在している。次の番の際に少しでも有利になるように動くことを今は考えよう。

 転生するかどうかの基準。ヒントとなるのは現在の状況しかない。今回転生の対象となったのは、俺の所属する教師も含めた三年二組の連中全員だ。バスが事故を起こしたことにより死亡してしまった。しかしこの場に運転手の男はいない。バスの運転手にはなく、クラス連中全員にはある共通点のはずだ。楠木の答えた「生前に心残り」、それは可能性としては否定できない。クラス全員に心残りがあるかどうかは分からないが、あると言われても何も不思議ではない。だがあの運転手に心残りはなかったのだろうか。正直、雰囲気の悪いおっさんだと思っていた。この世のすべてに絶望しているようで、なぜこんな奴が修学旅行のバスを受け持ってるのだろうと思ったものだった。しかし、それも印象だけなので内面は分かりはしない。可能性は否定できない。……いや、そもそもだが、心残りがあるかどうか向こうに判断の手段があると仮定すれば、わざわざこんな面接のような真似などしなくても済むのではないだろうか。内面のことは向こうには分からないとすれば、俺たちには客観的に明らかな共通点が存在することになる。学校や地域など共通項は様々あるが、それが基準になるとは考えにくい。正直この結論は信じたくないのだが、一番期待を持っている回答がひとつある。


「……事件に巻き込まれて死んだことではないかと思います」


 絞り出した俺の声に裁定者は何の興味も示さない。ただ開いていた本を閉じたことから伝わってはいるように思えた。次の言葉を祈るようにして待つ。はじめの自信は失われ、立っていることで精いっぱいだった。その立っていられるのも、足元から崩れればどこまでも沈んでいってしまいそうな深い闇に恐怖しているだけだ。両膝を軽く曲げて合わせ、その上に手を置き踏ん張る。


「それでは最後決定を下す前に、自由な発言を許す。何か言いたいことがある者は述べるように」


 そういうと裁定者は顔を向けて俺に発言の意思があるのか確認しようとした。楠木も俺の出方を窺っているようだ。相変わらず熱意であったり興奮した様子は見られないが、その顔にははっきり優越が滲んでおり、俺の自尊心をかき乱した。

 仕方がない。仕方がないのだ。運が悪かった。足掻くのは無駄だ。発言をするなら、選定基準か模範回答を聞くのが最も望ましい。俺が思っていた基準は全然違ったのだ。どう考えても屋敷コズエを愛しているのは俺だし、幸せにできるのも俺だが、仕方がないのだ。

 丁寧に、冷静に、紳士に、誠実に、尋ねよう。

「なんで」

 だがしかし

「なんで俺じゃないんですか?どうして?俺ほど妹という存在を愛せるやつは他にいないのに!」

 一度口を開くと、感情がどろどろと言葉となって溢れて制御など出来なかった。自分が選ばれなかったことも悔しいが、何よりもこんなやる気のない奴に敗れたことが耐えがたい。自分と同等かそれ以上に屋敷コズエを愛しているものに任せたかった。


「俺には妹がいます。大事な妹です。恋人ではないですが、恋人と間違われることなんかしょっちゅうあるほどに仲がいい!それに!俺はこのゲームを何度もプレイしました。一昨日だってやりました。何回やっても泣いています!飽きたことなんてありません!なんで俺じゃないんですか!」


 言い切ったあとも「なんで。なんで。なんで」と譫言のように繰り返す。口も頭も馬鹿になってしまったようで、ブレーキのかけ方が分からない。楠木はいよいよ俺を見下した様子を隠さずにこちらを見ている。裁定者の表情は読めない。冷めているようには見える。ともかく誰も返答する気はないようだった。分かっていた。敗者というのはいつだってそうなのだ。そして俺は敗北から返り咲いたことのない人間だった。つまり、すべてが終わったのだと分かった。俺は終わりの音を聞いていた。


「それはアンタよりもそこの男の方がよっぽど気持ち悪い妹好きだからだよ」


 突然、すぐ後ろからとげとげしい声がした。俺の発言とは呼び難い駄々をこねるような問いに返事をする者がいた。それは裁定者でも楠木でもなかった。驚いて振り返ると、なぜか礼子がそこに立っていた。腕を組み、蔑んだ目をしている。視線の先にあるのは楠木だ。


「なんだよ吉川。うるさいな。関係ないやつが口を出していい場じゃないんだ。出て行ってくれ」


 状況が呑み込めず、俺は何も言葉が出てこなかったが、楠木は突然吹っ掛けられた喧嘩に応戦してみせた。はじめて感情を露わにした。だが礼子にとってそんな反応は予想通りだったようで、意味ありげに溜め息をつくと楽しそうに楠木を煽りはじめた。


「話を聞いてなかったのか?相変わらず頭が悪いな。そこのおっさんは『何か言いたいことがある者は述べるように』って言っただろうが」


 そう言われると楠木は目を丸くし、いかにも「それは屁理屈だろう」と言わんばかりに抗議の視線を裁定者に送る。その一瞥を受けると、裁定者はかぶりを振って「構いません」と軽く流した。そのやり取りを見届けると、礼子は嘲笑するように鼻を鳴らし話を続けた。


「いいか。何で浅井くんが選ばれなくて楠木が選ばれたのか私が教えてやるよ。楠木は妹が、まあ正確には妹不在を拗らせて幼女全般が大好きでな。卑猥な写真や動画を大量に収集してんだ。えげつないもんだぜ。まだな、ネットで血眼になってそういうのを探してるだけなら、まあガチのは犯罪だから許しはしねえが、小指の先ほどの理解も出来ねえとは言わないよ。だがこいつは自分で撮影までするんだよ。本物のごみ屑さ。浅井くん、あんたはそこまでかい?だから負けたんだよ。なあ、裁定者さん」


 話の終わり、礼子が突如水を向けると「し、しばし待つように」と裁定者は露骨に動揺した。果たしてそこに答えが載っているのかは怪しいが、持っていた本を開きページを必死に繰っている。楠木は放心して口を間抜けに開きっぱなしにしていた。突然の爆弾発言に皆が呆気に取られていた。俺自身も、礼子の登場はまるで災害のようで、状況が一変したことは分かったが、心が追い付かずにいた。

 楠木は我に返ると「おい、何を勝手なことを言ってるんだ。ふざけるなよ」と反撃した。しかし「アンタ、どうして私がここまで言えるか少しでも考えたの?」と礼子がさらりと返すと、一瞬絶望したような表情を見せ、肩を落とし、それきり口を噤んでしまった。 

 礼子はそれ以上何も言わなかった。すべてが終わったことが分かったのだろう。重い沈黙が流れる。さすがにこの場を預かる者とあってか、いち早く立ち直った裁定者が再度仕切り出す。


「それでは他に何か発言のある者は?」


 誰も答える者はいない。楠木は体のどこにも力がこもっておらず、意気消沈していた。礼子はいつもと違いニタニタと笑ってはいなかった。口をきつく結んだまま、抜け殻のようになった楠木を見下していた。彼女は心の底から軽蔑をしていた。

 これ以上の発言がないことを確認すると、裁定者は努めてそうしたような事務的な口調で告げた。


「では浅井。貴方にはこれより屋敷トオルとして『Can't Select』の世界へと赴いてもらう。詳しい話をしよう。あちらの天使の方へ向かってくれ」

 

 指示された先には執事の恰好をした男性と女性が一名ずつ待機していた。どう見ても人間の執事のようにしか見えないが彼らも天使らしい。天使は、そばまで行くと深々と礼をした。慌てて礼を返す。どうにも上の空だった。あまりにも長く頭を下げていたため、困ったように「もう頭を上げてください」と声をかけられた。俺は心ここにあらずのまま彼らから転生の説明を受けた。

 喜びの感情は浮かんでこない。代わりに不安と責任とがあった。礼子と楠木のやり取りが頭から離れなかった。

 礼子と楠木の間に一体何があったのか。俺は本当に相応しい人物であるのか。相応しいとは何か。役割とは何か。礼子とは果たしてどういう人物だったのか。俺はこの時、はじめて自分の人生に本当に後悔を感じた。そして、これからそんな自分が深く広くひとりの人間を愛していかねばならぬのだと思うと、どんな勇者にも為し得ないことのように感じて膝ががくがくと震えた。

 天使は何も言わない。温かい表情をして俺が落ち着くのを待っているようだった。どこか懐かしいものを感じた。震える膝を無理やり手で抑え込み、覚悟を決める。分かることなどひとつもないが約束できることだけはあると思った。

 次はきっと楽だけはしない。知恵の終わりは地獄だった。

 震えは完全には止まらなかった。決意した俺を見て天使は微笑み、最後の言葉を投げかけてくる。


「それでは目を閉じてください。次、目を覚ましたときから、あなたは屋敷トオルです。宜しくお願い致します」


 何も言わずただ不安がる俺に、天使は何も言わず手をそっと握ってきた。それで幾分か安心すると、温もりが身体に浸透して意識が遠のいていく。


 少し遠くで、世界に沈むような声がした。


「では吉川。貴方にはこれより屋敷コズエとして『Can't Select』の世界へと赴いてもらう。詳しい話をしよう。あちらの天使の方へ向かってくれ」

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