雪上の花

桜木 利春

雪上の花

 私は昔、母からあるお伽噺を聞いたことがあった。それを聞いたのは私がかなり幼少の時分であったから、その話について私は細かいところまで詳しく思い出すことができない。確認しようにも母はとっくの昔に亡くなっているので確認できない。しかしその話が長きにわたり、とても強力な影響を私に及ぼしたのは言うまでもない。詳しくは思い出せなくても話の大筋はまだ覚えている。話にとって最も大切なのは流れだ。細かなところなどあってもなくてもいい。確かこんな話だったはずだ。

 いつの事かは定かではないが、今よりもずっと自然が豊かで人々が活き活きとしていた時代のことである。その時代の人々は本当の意味で生きていた。言いかえれば死と隣り合わせだったということではあるが、それでも人々はその恐怖に立ち向かいながら日々を懸命に生きていたのである。そんな時代だからこそ世界は美しさで満ちていた。世界は日々変化し、様々な表情を見せていた。永遠だとか不変だとか言うものより、変わりゆくものの方がずっと美しい。それは花が儚くも美しいのとよく似ている。ところでそんな時代、たった一晩でしぼんでしまうがこの上なく美しい花があるという噂が、人々の間で囁かれていた。その花は水晶のように透き通った合弁の花びらを持ち、それは桔梗の花のような五角形を形作っていた。遠目から見るとその花は雪の結晶のようにも見えたが、それはあながち間違いではなかったかもしれない。と、いうのも、その花は雪の降った晩にしか咲かないというのだ。新緑の色を呈したその花の美しい葉は、花に比べて幾分小さいもので、たった二枚だけ対になるように生え、それは地際に接するほど低く、それでいて地面とほぼ平行に開いていた。花粉は黄金よりもずっと黄金色で、雲の合間から月がちょっと顔をのぞかせた時などは、更なる輝きを放った。だがこの花を見た者はあまり多くは居なかった。それ故、人々はこの花を一度でいいから見てみたいと思い、憧れ、花についてあれやこれやと囁きあうのだった。

 少年はこの美しい花の話を小さい頃から聞かされ、いつか見てみたいと憧れながら育ってきた者の一人である。彼はある貧しい農村で生まれた。その村は土地が痩せていて小麦が育たないので、村人たちはみな、燕麦を育て、生きる糧としていた。彼にとって一番憧れ欲している物は勿論、小麦でできたパンであったが、それでもやはり誰かがその花を見たらしいとか、どうやらあすこに生えていたらしいなどという話を聞いたときには、食事をするのも忘れ、花について想像を膨らますのだった。

 少年の父親というのは、それは厳格な男だったが、それも貧しく厳しいその村で、息子が健全に生きていけるようにとの思いからだった。少年が花の話を聞いて上の空になっているときなんかは、父親は特に厳しい口調で「おい、てめえは何をぼけっと突っ立っているんだ! さっさと仕事をしろ! おい、聞いているのか? さっさと働けってんだよ!」と叱りつけるのだった。そうすると少年ははっと我に返って畑仕事を再び始めるのだった。

 ある冬の日のことだった。その日は朝から冷え込んでいた。外に出ると冷たい北風が少年の頬をさすった。刺すような感覚が少年の頬に確かにあった。少年はすぐに家に引き返すと、暖炉の前に座って手をかざし、それを裏返したりもとに戻したりして、掌と手の甲とを交互に暖めた。その様子はまるで、網の上で魚を焼く時のようだった。この村に川は流れていたが、小さいものだったので魚は大したものが獲れなかった。だから少年は終ぞ魚を食べたことはなかったが、本能的に魚を焼く仕草を真似ていたのかもしれない。

 暖炉では針葉樹の薪がたまにぱちぱちと火花を飛ばしながら燃えていた。針葉樹の皮は火が付くとよく弾け、燃えながらくるくると巻き上がっていくようだった。ときおり下の方にくべてあった薪が焼け落ちて、積んであった薪が崩れることがあった。そういう時、少年は暖炉のわきにあらかじめ用意しておいた新しい薪を手に持って、それで暖炉の中をつつき、崩れた薪が燃えやすいように位置を替えるのである。そうしているうちに朝食の用意ができたようだった。それは燕麦の粥だった。彼は不味い食事を平らげると、少し休んでからまた外に出た。相変わらず外は寒く、冷たい風が吹き続けていた。空は灰色の雲に覆われていて、すぐにでも降り出しそうな気配だった。彼は「この寒さじゃ雪になるな」と思ったが、その瞬間、あることに気が付いた。「雪が降るっていうんなら、今晩あの花が見られるかもしれないじゃないか!」彼は踊りだしたいような気分だった。彼は満ち足りた気持で辺りを散歩してから家へ戻った。収穫後の畑は渇き、白っぽかった。道端の草や木々もすっかり枯れてしまい、残っているのは茶色い枯草か落葉だけだった。

 少年は家に着くとすぐさまベッドに潜って、雪の花探しに備えることにした。昼間からベッドで寝息をかいている息子を見た母親は溜息をついてから、呆れたように「全くこの子は昼間から何をやっているんだろうね。お日様が昇ったら起きる、お日様が沈んだら眠る、これがこの世界の法則じゃないか」と、つぶやいた。

 母親がそのことを父親に言ってしまったが、父親は大して怒りもせずに言った。「まあ、冬だし畑仕事もないからなあ。今のうちは休ませておいてもいいんじゃないかな」おかげで少年は誰にも邪魔をされることなく仮眠をとることができた。

 夜になって家中の人々が寝静まった頃、少年はひっそりと音を立てないように家を出てきた。手には火を灯したランプを持っていた。少年の予想通り雪が降っていて、辺りには十分積もっていた。ランプの光が降り続く雪に当たるとき、きらきらと反射した。煌めく結晶はダイヤモンドの小さな欠片のようだった。少年が一歩踏み出すたびに、踏みつけられた雪はぎしりと音を立てた。しばらく行ったところにある草原で、ランプをかざしながら地面を見回してみたが、それらしいものは見当たらなかった。「おかしいなあ、誰かがこの辺で見たっていう話を聞いたんだけれど。あれは嘘だったのかなあ」少年は思った。草原は少年の家が二、三十件建つくらい広いのだが、彼は雪の花を草原中くまなく探し回った。が、やはり見つからない。何度も何度も探し回っているうちに少年の身体はどんどん冷えていってしまった。凍てつく空気だけでなく、降り続ける雪も彼を凍えさせた。雪は頭の上に積もり、彼の黒髪を白髪に変えてしまった。彼は半ば凍えながら帰路についた。もう彼の身体は限界に近かった。「これ以上外にいたら死んでしまう」彼は直感でそう思った。彼は震えながら歩いた。足や手は氷のように冷たくなっていた。ランプに照らされた少年の吐息は白い霞のように見えた。家のすぐ前まで来たとき、少年はふと、彼らの畑の方に金色に輝く小さな粒のようなものがあることに気が付いた。もしかして、彼は思った。彼は一旦家の中に入ると暖炉に火をくべ、暖を取った。十分体が温まったところで、彼はもう一度身支度を整えて外に出た。畑の方にランプをかざすと、やはり金色の粒がいくらか見えた。やっぱり、彼は確信した。それは間違いなく話に聞いた雪の花なのだ。彼は小走りに金色の粒の方へ向かった。そうして彼は金色の粒のすぐそばに座ると、ランプの光でそれを照らした。金色の粒の周りには透き通った五角形の合弁の花びらが広がり、新緑の色を呈した二枚の葉は対で、地際に生えていた。まさしくそれが少年の探し求めていた雪の花なのである。少年はランプに照らされた美しいその花を見て、溜息をついた。「なんて綺麗なんだろう。こんな花見たことないや」そんな言葉が少年の口をついて飛び出した。すると突然「そうだろう、これは特別なんだ。俺たちの間でもな」と、誰かが言うのが聞こえた。少年は驚いてランプを振り回した。すると花の近くに小さな人のようなものがたくさんいるではないか。彼は呆気に取られて目を丸くした。「君たちはいったい……」少年は彼らに問いかけた。するとその中にいた年配の小人が答えてくれた。「わしらは妖精だよ。君も知っているだろう? 物語とかに出てくるあれさ」「妖精ってあの? 僕初めて見たよ、しかもこんなにたくさんの……」少年はしどろもどろにそう言った。年配の妖精は続けて言った。「君もこの花を見に来たんだろう? これはね、我々の『想い』でできているんだよ。実は今日、ある妖精が死んでしまったんだ。妖精は死ぬとその魂が天に昇って、きれいな結晶となって我々のもとに帰ってくるんだ。そう、それが雪だよ。我々は帰ってきたその魂の欠片に最後の別れをするんだが、その時の死者を想う気持ちが集まって、花になるんだ。だからこの花は特別なんだ。魔法なんかじゃ作れない、世界で一番美しい花なんだよ」

 少年の頬に涙が一粒垂れ落ちた。少年はゆっくりと目を閉じると、妖精たちとともに静かに祈った。しばらくして目を開けると、そこには妖精も花も見当たらなかった。辺りを見回してみたが、降り積もった雪以外何もなかった。いつの間にか雪は降り止んでいるようだった。

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