第2話


「ママー、おかえりぃ」

「お仕事お疲れさま」

 息子の健太郎が玄関まで迎えに来てくれて、ぎゅっとしてくれて、ちゅーもしてくれる。

 明らかに致命的な汚れがTシャツについたけど。

 健太郎は口の周りをこえてほっぺたまでオレンジ色のひげを生やし、満面の笑みで食卓まで手をつないで連れて行ってくれる。

「今日はナポリタンとオムレツだよ。すごくおいしいよ。ぼくもお手伝いしたの」

「ナポリタンのピーマンは健太郎が切ってくれたんだよ」

 よく似た二つの顔が褒めて褒めてと寄ってくる。

 トマトソースの麺にトマトソースの米だが、それがなんだというのだ。

 手を洗って座ったら、勇がナポリタンとオムレツを並べてくれた。

 塗装工になる前は中華料理屋で朝の九時から夜の十二時まで働いていたらしい。住み込み休日なし給料なしって、ブラック企業というより奴隷制度。でもそのおかげで、素晴らしくおいしい賄い的晩御飯を食べることができる。

 親子三人で真っ赤な皿を六つ並べてわあわあ言いながら晩御飯。

 アパートの家賃二万三千円。廊下の手すりは腐食でもげそうな廃墟。雨漏りで壁紙がぜんぶはがれてしまうし、窓のサッシは鉄製なのか錆びて開きづらいけど。

 今、私は世界で最高に幸せ。



 ノラネコを保護するような気持ちで17歳の勇を家に上げたら、毎日帰ってくるようになってしまった。

 封をしたままの給料袋を渡されて、勝負に負けたと悟った。

 現金入りの給料袋のインパクトは凄かった。

 8歳も年下の未成年を相手に未婚のまま妊娠したことについて、非難されたり、祝福されたり、面白がられたり、羨ましがられたりした。

 適当にあしらいながら、本心は周囲の意見を一切意に介していなかった。

 同僚で離婚している者は普通の業種よりずっと多かったから抵抗はなかったし、勇の顔は好みだった。彼に似た子供ならきっと可愛い。

 でも一人だけ、心にとげを刺した人がいた。

 彼はドクターで、迎えに来た勇をしみじみと眺めた後、眉根をキュッと寄せて、こう言った。

「あんないとけない子供を無理やり父親にすることにどうしても反感を感じるよ」

 その時の私はドクターの独り言を鼻で笑った。

 半年たったころ、私は自分の勤める病院で出産した。

 生まれたてほやほや自分の子を抱かされて勇が泣きそうな顔をしたとき、私は初めてドクターの感情を理解した。

 分娩台の上から見た勇はほんの小さな子供のようだった。

 私は大人の判断で妊娠し、出産したけれど。

 子供に同じ責任を負わせていいものだろうか。

 強制的に。あるいは一方的に。

 決心がつかなくて、父親欄が空白のままの出生届を提出した。



 何かを少しでも変えてしまうのがとても怖くて、アパートから引っ越さない。

 猫は家につくという。

 もし引っ越して勇が帰ってこなくなったらいやだ。

 戦後のどさくさで建ったらしいアパートはその壁のない側面があって、トタン屋根の素材で塞がれている。昔はそっち側に建物があったから、壁を作らなかったらしい。なんという合理性。

 その仮の壁もいよいよ錆びて穴が開き始めている。

 高齢の大家さんが管理を放棄し、住人はもうみんないなくなったが、相続がややこしいらしく次の持ち主が決まらないので地上げが保留されている。

 こんなに子供が暴れても文句の来ないアパートがほかにあるだろうか。

 布団を二枚寄せて敷いて、おでこをくっつけて眠る。

 二人の時も三人になっても。



 その日も、勇は中華鍋に丹念に油を焼き付けていた。

「夏の間、健太郎を真季さんの実家で預かってもらえないかな」

 私はびっくりした。

「母さんも父さんも喜ぶだろうけど、勇はいいの」

 勇は自分で名前を付けた健太郎を心から可愛がっている。寝返りも初めてのたっちも全部勇が先に目撃したぐらい。しゃべりだしたのも「ママ」より「パパ」の方が早かった。

 保育所では父子家庭だと思われている節すらある。

 彼の仕事は雨の日は働けない。塗料が乾かないから。

 あと雪の日や寒い日も良くないようだ。そんな日は内装工事の応援に行くようだけど。 反対に夏は忙しいみたいだった。

 お迎えが遅れるより、実家だと安心だとも思った。

「そうじゃなくて――――ふるさとのある子供に育てたいんだ」

「じゃあ、私と結婚して、いっしょに田舎に帰って暮らさない?」

 真っ白い砂の海。

 透明感のある淡い青、水平線に近い、遠いところの黒潮を抱く紺碧の青。きっと健太郎は喜ぶだろう。実家に近いところに家を借りよう。空き家が多いから一軒家でも借りてもいい。

 ――――どうしてそんなことを口にしてしまったのだろう。

 一昨日届いた立ち退きを求める内容証明が頭の端っこにあったからかもしれない。

 勇は目を見開いて私を見ていた。

 ガスをつけっぱなしにして、大切な中華鍋から煙が出ていた。

「ごめん。聞かなかったことにして」

 次の日、勇は仕事にいった。

 雨なのに、と健太郎は残念がっていた。

 私は取り返しのつかない失敗をしてしまったのかもしれない。



 準夜勤を終えてのろのろと帰宅したら、勇は食卓に座って待ち構えていた。

 食卓の上には勇の名前が載った住民票と戸籍謄本が置いてある。

 勇は少しこわばった表情をして、私に真季さんと呼びかける。

 彼が次に何を言うのか、私には全く想像がつかなくて、ただうなだれていた。

「俺は中学校もちゃんと行っていません」

 だから世の中の仕組みを全然知らないまま大人になってしまった。と悔しそうに呟いた。

 昨日のことを親方に相談したそうだ。

 親方は話をよく聞くと、勇を役所の窓口に連れてきて戸籍と住民票を取るようにいったらしい。見た目に反して意外と常識があって、しみじみ親切で世話好きな人だと思った。

「17歳の時から真季さんと結婚しているつもりでいたんだ。健太郎が産まれたとき、俺は本当にうれしかったし、今日まで一度だった健太郎が俺の子供になっていないと思ったこともなかった。そんなことができるなんて知らなかった」

 彼の戸籍謄本には出生の記録しか記載されていないし、住民票の世帯主は私になっていて、勇との続柄は「同居人」となっている。

 いつか、大人になった勇が別の人生を歩みだしたとしても、これまでの生活が彼の将来の不利益にならないように。

「昨日真季さんが結婚してと言ってくれたんじゃなかったら、俺は役所の窓口でこれを見て泣いたと思う」

 健太郎が産まれた後の6年間のどこかで、修正できたことだった。

 彼は常に誠実な夫であったし、立派な父親だった。

 それでも彼が去っていったときに痕跡が残っていたら辛いと思って、敢えてそのままにしていた。浮気よりある意味大きな裏切りだとわかっていても。

 私は裁判にかけられ検察官に責め立てられている被告人のように肩を落とした。

「申し訳ないと思うなら、今すぐこの紙にお名前を書いてください」

 勇の言葉遣いがどんどん丁寧になっている。

 どうしたんだろうと見上げたら、ボールペンを握らされた。

 広げられた紙は「婚姻届」と「認知届」。

 全部隅々まで記入されていて、周到にも名前を書く欄には矢印の付箋がつけられて、ご丁寧にも「署名捺印」と書かれている。証人欄には既に親方の名前と看護師長の名前が埋まっていた。今日の勤務上がりに師長が何ともいえない顔をしていたのを思い出す。

「結婚してください。そして、一緒に田舎へ帰ろう」

 


 夕焼けの海辺を家族で手をつないで家に帰ろう。

 茜色の空に自分たちの姿が影のように浮かび上がるだろう。

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茜色した思い出へ 錦魚葉椿 @BEL13542

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