茜色した思い出へ

錦魚葉椿

第1話

 たばこ畑の真ん中をとおる川を頼りに海まで。


 自転車は隣家のおいちゃんが修理してくれた。

 おいちゃんはいつもよれよれのU首の下着とスケスケのステテコで軒先の畑をウロウロしている。

 ばあちゃんちの納屋に放置されていた古い自転車に油を差して、チェーンをはめてもらい、ぼくは自転車という武器を手に入れた。

 自転車は車輪がすごく小さくて、小学校の友達には笑われそうな不細工な古いママチャリだったが、あるとないとでは行動範囲が全然違う。

 平たいこの町ではどこまでも行ける。

 この大きな黄色い葉っぱの植物がたばこだと、ばあちゃんが教えてくれた。

 たばこは大きくて、畑に入ったら頭まで隠れてしまう。

 川沿いに走ったらどこまで行けるだろうと冒険したら海に出た。

 海は最高だった。

 海は想像していたより少し緑色をしている。

 街の公園の「砂」よりもずっと小さくてきめ細やかな柔らかい砂を足裏でつかむのがとくに気に入っている。右を見ても左を見てもずっと海岸はつながっている。

 打ち上げられた海藻を集めてみたり、爪先ほどの小さな片貝を拾ってみたりする。海藻を持って帰ってみたら次の日すっかり臭くなってばあちゃんに怒られたから持って帰らない。


 夏休みの最初の日に、母ちゃんはぼくを特急電車に乗せた。

 特急電車の終点から教えられたとおりにホームの突き当りの電車に乗り換える。電車が大好きだったので、行き先表示を読むのは難しくない。

 駅の一番奥のホームで特急よりもずっと古い形の青い電車が待っていた。

 電車はゆっくりカーブしながら見覚えのある山の麓の駅にむかって走る。

 子供が砂場に作った山のようなすっきりとした三角形。

 おやまがぼくを見下ろしている。

 窓を開ければまだ青い田んぼの稲の花の匂いがした。


 ばあちゃんちのうらには川が流れている。

 水草には白い花が咲いていて、ふわふわしている。

 黒く熟したジュズダマの実をむしって集めながら、名前も知らない茶色い魚を3日間眺めていた。

 海で遊んでいたら友達ができた。

 波間にきらきら浮かぶクラゲを突いて、波打ち際に並べて飾る。

 年上のお兄ちゃんが突き刺したクラゲはタライぐらいの大きさがあって、みんなでつつきまわって遊んだ。

 空は真っ赤に、海は暗い青に、落ちていく夕陽は次第に黄色く輝き始める。

 クラゲは空を映して赤く染まった。

 砂浜にいくつも落ちた夕陽のようだった。


 アキアカネが飛ぶようになった。

 田んぼが黄色く染まり始め、すっくと立ちあがった彼岸花が田んぼの畔を緋色に染め上げる。半袖では肌寒くなった朝、ばあちゃんはふとぼくの顔をまじまじと見た。

「あんた、学校は行かなくていいのかい」


 次の次の日、スーツを着た大人が何人か家にやってきた。

 大人の人は親し気な顔をして、いろいろ聞いてくる。でも、その目の奥の温度のない色は知っている。面倒ごとを片付けようとしている目だ。

 魔法は解けてしまったのだ、とぼくは理解した。

 昼頃、もう何か月もすっかり存在を忘れていた母ちゃんがやってきた。

 ああ、こんな顔だったなあと思った。

 スーツを着た大人がにこにことした表情を顔面に張り付けて、どうしたいかと尋ねた。

「母ちゃんとおうちに帰る」

 母親以外が期待していただろう答えを口にすると、空気がほっとほどけた。

 そのまま荷物をまとめて、少年は母親と街に戻る電車に乗った。

 母ちゃんは終始不機嫌だった。

 おやまが遠ざかって車窓から見えなくなる瞬間が一番悲しかった。




――――ばあちゃんは来てもいいと、二度と言ってくれなかった。

 母親は相変わらず不定期にしか帰ってこない。それだけが親の義務だというように家賃と水道光熱費の支払いだけはしてくれているマンションに独り住んでいる。そんな生活から想定される範囲内程度に悪い中学生になった。

 なんの将来の計画もなく時間切れのように中学校を卒業し、高校に行くことは思いつかなくて、朝昼晩賄いのある中華料理屋で働き始めた。

 街の海は臭い。生臭い死んだ魚の匂いしかしない。


 中華料理屋で働き始めて2年近くたったころ、職人の忘年会で一人の親方に声をかけられた。

「お前、えらい顔色わるいで」

 毎日15時間働いていたので、頭が回らない。休みももらっていなかったし、給料ももらっていなかった。家にも帰れていなかった。

 それを聞いた親方は酔っぱらったふりをして、俺の肩を捕まえて店の外に連れ出し、そのまま自分の家に連れて帰ってくれた。

 先輩の一人が家賃の分担を条件にしばらく居候させてくれることになり、俺は親方の下で塗装工になることになった。



 所在なく、病院の廊下で座っていた。

 腹を抱えて倒れた先輩は緊急手術になり、このまましばらく入院になるだろうという説明をされた。病名は聞いたが難しくて覚えられなかった。

 俺は途方に暮れていた。

 部屋の鍵は先輩が持っていたし、仮に鍵を借りられたとしても部屋の主がいない部屋に勝手に入るのは気が引けた。そもそも慌てて救急車に乗ったので、財布も持っていない。

「この病院は泊まれませんよ」

 不意に声をかけられた。

 誰だかわからなくて、黙っていた。

 座っている自分の視界の前で、若い女性は床に膝をついて下から覗き込んできた。

 時計は深夜0時過ぎを指して、騒がしかった救急窓口も患者がいなくなってしいんとしている。

 女性の顔をよく見て、さっき処置室で先輩のズボンをハサミで切って脱がした早口の看護師さんだと気が付いた。ネイビーのユニフォームをきて髪をまとめ上げていた仕事中と違い、Tシャツにジーンズだった。

 17歳だということ、鍵と財布と家がないことを答えた。

 彼女は少しの間、首を傾げて考え込んでいたが、ついてくるように言うと、病院の薄暗い廊下を抜けて職員出入口から敷地外に出ていく。おいでおいでと角を曲がるたびに手招きするのについていくと、一瞬たじろぐほど廃墟のアパートに連れ込まれた。

 何かあるかなあ、と歌うように呟いて流しの下から取り出した袋めんを二つ開け、鍋で煮込んで卵でとじる。ラーメン鉢は二つないから、御椀と汁椀で、鍋から直接取りながら二人で分けて食べた。

 昼間、目を吊り上げて先輩のズボンを下着ごと切り刻んだ時は怖くて声も出なかったけど、にこにこしてラーメンを食べている彼女はとても可愛かった。

 その晩は、彼女が押し入れから出してくれたこたつ布団にくるまって眠り、翌朝、ピンク色の軽自動車で彼女に現場まで送り届けてもらった。

「じゃあ元気でね」

 彼女は車の中から手を振ると、ウィンカー出して発車し右折して見えなくなった。

 その時にはもう彼女のことが好きで好きで仕方がなくなっていた。

 その夜、先輩のお見舞いに行く体で病院の場所と現場の位置関係を把握した俺は、毎日彼女の家に「帰る」ようになった。

 以来7年、廃墟アパート以外のどこにも帰っていない。


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