ミツキ
せっか
本文
***
15
助けてしまった猫がてくてくと僕の後をついてくる。猫にしてはどこか歩き方が下手、とでも言うのか、かわいらしくも間抜けなステップを踏みながら入場してくる馬術の馬みたいな歩き方でついてくるものだから、ついつい気になって振り返ってしまうのだ。そして僕が後ろを振り返ると、その猫は四足歩行一日目みたいな歩き方をやめて立ち止まり、何か言いたげな目でじっと僕の方を見てくるのである。猫の方からは決して目を逸らさない。勘違いされてずっとついて来られても困るし、と無視して僕が歩き出せば、また後ろからぎこちない足取りでてくてくとついて来るのだ。
困ったな、このまま家までついて来そうな気がする。飼うの? エサは? そもそもウチのアパートってペット可だったっけ? 飼うなら動物の保健所的なやつとか行かなくていいの?
やってしまった、と思った。買い物の帰りに猫同士の喧嘩、と言うより今ついて来ているコイツが一方的にボコられているのを見かけたので、ちょっとした徳でも積むつもりでレジ袋をブンブンと振り回し二匹とも追っ払ってやったつもりだったのだが、その内の一匹、ボコられていた方がついて来てしまった。たとえ猫であっても喧嘩に首を突っ込むべきじゃなかったということか。でも猫初日みたいなぎこちなさで喧嘩に勝てるはずもなかろうし、そのまま放っておいて、次この道を通った時に死体になって同じ場所で出迎えられても寝覚めが悪すぎる。このごろ暑さもだいぶ和らいできた九月の下旬とはいえ、そのまま腐りでもしたら……、いや、やめておこう。
とにかく、僕はコイツを見捨てられなくて、軽い気持ちで救ってやってしまった。そして今、コイツは僕の後をついて来ている。恩返しでもしたいのだろうか。あいにく猫の手も借りたくなるような用事はない。大学も夏休みだし。
はぁ、と観念したように溜め息をひとつ吐く。とりあえずこのまま無視して、家までついて来てしまったらメシくらいは食わせてやることにしよう、と決めた。もう一度だけ振り返ってみると、やっぱり猫は立ち止まってこちらをじっと見つめてくるのだった。
結局猫はそのまま家までついて来た。大学進学を機に越してきたワンルームのドアを開くと、猫は締め出されまいと僕より早く中に滑り込む。こういうとこだけは素早いんだな、とぼやきつつドアを閉めて、廊下を土足で汚される前に猫を片手で抱え上げた。
「先に風呂だからな、まったく」
猫は水嫌いだと聞いたことがあるが、コイツは全然逃げないので助かった。野良のくせに汚れはほとんどなく、足を中心に軽く洗ってやっている間、猫はポカンとした表情でこちらを見ていた。単純にどんくさくて水がどうとか気付いていないのかもしれない、と本気で思った。
タオルで体を拭いてやると、猫はまた例のぎこちないステップでリビングの方へと歩いていく。
「あ、ドライヤーまだだぞ」
こちらの呼びかけに応じる様子もない。
まあ汚れは落としたし良いか、としばらく放っていると、猫は机の上に出しっぱのボールペンとチラシを引っ張ってきた。
「どうしたの」
再び買い物に行ってこいと猫パンチを食らわそうという訳でもなく、猫は両の前足で必死にボールペンを抱え上げようとしている。猫じゃらしじゃないんだけどな、と思いつつも、ボールペンを持ち上げようとしては落っことす猫をしばらく座って眺めていたら、諦めたのか一分もしない内に猫はボールペンを置いて座り込んだ。ようやく飽きたかな、と床に転がされたボールペンに僕が手を伸ばした瞬間だった。
猫を中心に、まばゆい程の光が溢れだした。
なにか声を上げる間もなく、目の前が、そして部屋中が目も開けられないほどの光に包まれて、思わず顔を覆う。そのまま十数秒ぐらい座り込んだまま顔を覆っていたが、これといって特に物音がする様子もない。恐る恐る目を開けた。
先程の光はもう収まっていて、家具や壁が壊れた様子もない。特に何か起こったわけでもなさそうだ。
そうだ猫、とさっきまでボールペンに遊ばれていた猫のほうに視線をやる。
すると、そこに猫はいない。
代わりに、女の子がぺたんと座っていた。裸で。
ありえないぐらいかわいい子だなとか、なんで服着てないのかとか、猫はどこ行ったとか、そんなのを軽くすっ飛ばすほど驚いて、声も出ないまま口をぱくぱくする。何度目を擦っても見間違いではない。僕の理解が追い付いていない間に、女の子はボールペンでチラシの裏に何やら文字を書いている。なにか問い掛けることも出来ず、僕はただ床に座ったまま呆然とその様子を眺めていた。
すると、彼女は満面の笑みで書き上がったものをこちらに見せてくる。そこには、『はじめまして さっきはありがとう』と書かれていた。
「あ、うん」
そんな間の抜けた返事しかできずにいると、彼女は次のメッセージを書いて見せた。
『星の人だよね わたしは い―三〇五 です』
また書いて、また見せる。
『あなたの名前は?』
「えっと、たけなが、たけながこうき」
女の子はずい、こちらにチラシとボールペンを差し出してくる。漢字を知りたいということだろうか。チラシとペンを受け取って、端っこに『武永 光紀』と書いて返す。
それを手に取ると、彼女はまた言葉を書いて僕に渡した。
『なんてよむの?』
さっきは声が小さくて聞き逃したのだろうか。
「たけなが、こうき」
今回は声量に気を付けてゆっくり、かつはっきりと言ってみた。
どうだろう、伝わっただろうか、と彼女の方を見る。目の合った彼女は、どうしたの、とでも言わんばかりに小首を傾げる。
「えっと、書けってこと?」
僕の問いかけに、彼女は不思議そうな顔をしながら反対側に首を傾げた。もしかして、と思って聞いてみる。
「もしかして、聞こえてない?」
やっぱり彼女は首を傾げて不思議そうな顔をするだけだ。チラシの隅に書いた自分の名前に『たけなが こうき』と読み仮名を振ってから、『もしかして音が聞こえない?』と書いた。
彼女からの返事は『音ってなに?』だった。
予想が当たったのと、それでも斜め上からの返事だったのとで、僕はびっくりした。さて、どう説明したものか。少し考えてから、『僕たちが文字を目で見て話してるのと同じように、耳が聞こえる人は音を聞いて話す』と書いて見せた。それを読んだ彼女はまだ不思議そうな顔をしている。やはり説明が下手だっただろうか。何て教えてあげれば良いだろう、と悩んでいると、彼女は『じゃあ音に集中しててね』と書いたのを僕に見せる。どういうこと、と聞き返す前に、彼女は『いんすとーる するから』と書くと、膝立ちになって僕の首の後ろに手を回してきた。そうして目の前で揺れた彼女の胸を見て、彼女が裸であること、そしてそれが異常なことなのを思い出した。どき、と心臓が大きく一回跳ねる。それから、どくどくどくどく、と物凄い速さで心臓が鳴るのが自分の体の奥の方から聞こえてきた。
「ちょっ! あの! ふく、きてな
彼女のおでこが、僕のおでこにぴたっとくっつく。
どくどくどくどく。鼓動だけは痛いくらいに速く進むのに、僕の思考は前にも後ろにも進まない。すぐ鼻先には目を瞑った彼女の顔がある。突き飛ばすでも抱きつくでもなく、頭も体も金縛りにあったみたいに動かない。いつも僕が使ってるボディーソープの匂いがして、まつげはすごく長い。心臓の鼓動が遠のいて行って、だんだん聞こえなくなっていく。息が触れるほど近くにある彼女の顔はとてもきれいだった。
そのまま五秒か十秒か、実は何分も経っていたのだろうか、しばらくすると彼女はおもむろにおでこを離した。僕が目をまん丸にして動けないでいる間、彼女は周囲をきょろきょろと見回したり、自分の耳に手を当ててみたりして、やっぱり聞こえない、という顔で自分の耳を引っ張ってみて、それから僕と目が合うと急に顔を真っ赤にした。
それを見て正気に戻った僕は弾かれたように立ち上がると、急いで洗面所の棚から一番大きなバスタオルを引っ張り出してきて、タオルを持った腕だけ彼女の方にぐい、と突き出した。顔は伏せたまま上げられなかった。
それを受け取った彼女はタオルを体に巻いてから、『音に集中してなかったでしょ』とチラシに書いた。いろいろと申し訳なくなって、ひとこと『ごめん』と書いて返す。彼女はそれを読んでから、恥ずかしそうに『次は音に集中してね』と書いて僕に見せて、また膝立ちになった。僕は慌ててぎゅっと目を閉じ、音に集中する。自分の左手の甲に爪を立てて雑念を追い払いながら耳を澄ます。暗闇の中で聞こえてくるのは小さくぶーと鳴る安物の冷蔵庫の低い音、風呂場でぴちょんと水が滴る音、呼吸音がふたつ分、窓の向こうの遠くの方で鳴っている車のエンジン音、鳥の鳴き声、目の前から衣擦れの音。
僕のおでこに温かいものがぴたりとくっついて、衣擦れと呼吸音が近くなる。どきっ、と自分の心臓が跳ねる音を聞きながら、手の甲をつねる右手に力を込めた。
それからすっと彼女が離れたのを感じ、ゆっくりと目を開ける。
「あ、あ、あー、あれ。これが聞こえる、で、良い、のかな?」
目の前にいるのは、初めて聞く音の感覚に戸惑っている女の子。初めて音を聞く人の反応を見たことはないけれど、たぶんそういうこと、なのだろうか。
「あらためましてこんにちは、星の人。私はい―三〇五です」
彼女は今はじめて知ったという音を使って、そう名乗った。
「イ、サンゼロゴ?」
「うん、星ではあんまりこういう名付け方はしないんだってね。好きなように呼んでいいよ」
相手に名乗られたのに、自分の方からは名乗っていなかったことを思い出す。
「あ、そういえば僕は光紀。武永光紀」
コーキ、コーキか、と彼女は僕の名前を何度か繰り返した。
「文字で聞いた時は『こうき』だったけど、音で聞くとコーキなんだね。じゃあコーキって呼ぶ」
自己紹介も済んだところでとりあえずひと段落、と空気が落ち着く。今日はいろいろあって疲れたね、と言わんばかりに二人して大きく息を吐きだした。
「あ、そうだ。お茶取ってくるから座ってて」
そういえば客人にはお茶を出さないとな、と呑気なことを考えながら立ち上がったところで、まだまだツッコミどころが満載なままなのを思い出す。まずは彼女に着せるジャージを棚から引っ張り出すところから始めなければ。パンツは……、いったん我慢してもらうか。
ジャージとお茶の準備が整ってから、疑問に思っていたことをひとつずつ聞いていくことにした。しばらく時間が経ったのと、あとは服を着せたことで、少し落ち着いて話せるようになった気がする。
「えっと、まず聞きたいんだけど」
彼女は小首を傾げてこちらの言葉を待っている。
「さっきから言ってる『星の人』ってのはなに?」
「私たち月の人は星って呼んでるんだけど、えーと星ではなんて呼ばれてるんだっけ……。地球? だったよね?」
「え? 月の人? 地球が星?」
えーとね、つまり……、と彼女はまとめる。
「私はね、月から来たの」
そのたった一言でまとめるには、あまりに情報量が多すぎないか。
「それで私みたいな月の人はね、地球のことを『星』って呼んでるんだ。お星さまは他にもいっぱい見えるけど、青くておっきくてきれいなのはこの『星』だけだから」
こんがらがる頭をなんとか動かして、情報の整理を試みる。
「えっと、つまり、い―三〇五さんは月から地球に来たってこと、だよね?」
私が言ったのと全部いっしょだ、と彼女は笑う。情報の整理には失敗したようだ。
「いやでも月から人が来るなんて聞いたことないから……」
「え、コーキは聞いたことないの? なよ竹のかぐや様の話は星でも有名って聞いてるんだけど」
なよ竹のかぐや様……、かぐや姫のことだろうか。
「いや、でもかぐや姫って作り話なんじゃ……」
「あれ、なんだ、かぐや様のこと知ってたんだ! かぐや様は私たちの国を今の形に作り直した人でもあるんだよ! かぐや様はね、……」
さらに情報が増えていく。そろそろ整理しきれなくなってきた。
「ちょ、いったんストップ! いったん待って!」
彼女は相変わらず小首を傾げては、どうしたの、という表情で僕の言葉を待つ。
「まず、とりあえずい―三〇五さんが月の住人だったとして、だったとしてね」
「うん」
「月ではどうやって過ごしてるの? 重力はないし、空気もほとんどないし、それに地球人は月に降り立ったことすらあるのに、宇宙人がいるなんて話は聞いたことないよ」
彼女は、なにを当たり前のことを、と真剣に不思議がるような顔をして、それから、あ! と声を上げた。
「違うの! 元々私たちは身体とかないの!」
「え?」
「ほら、星、じゃなかった、地球でも『あくがる』とか『たまさかる』とか言うでしょ? 要するにその魂みたいな存在なんだ、私たち」
「魂?」
そう、と彼女は続ける。
「だから元々身体とかはないんだけど、月の土とか石とかを部品として使うと、今みたいに一時的に身体を持てるってこと」
「本来は質量がない、ってこと?」
「そう! それ!」
「じゃあ死なないじゃん」
「死ぬよ」
「え、そうなの」
「うん」
にこやかに話すようなテンションの話題ではない気がしたけど、その不思議な世界の話をもっと聞きたかった。
「長く生き過ぎちゃうとやっぱりね、記憶とか、感情とか、そういうのが溜まりすぎちゃって、魂が擦り切れちゃうんだって。それでも星の人の五倍以上は生きるけどね」
昔は無駄なもの溜め込まないようにって恋愛が禁止されてて、その時は千年以上生きるのが普通だったらしいけど、と彼女は言う。
「あ、ちなみに活きのいい若い人の方がよく光るよ」
「光る?」
「うん、光るの。さっきみたいに」
猫が急に輝きだした時のことを思い出す。
「ちなみに、その一時的な身体っていうのは何か制限とかあるの?」
「んー、なんだろ、制限。あ、部品に使うのは月で採れるものじゃないとダメっていうのがあるかな」
「地球の石とかじゃ作れないんだ」
「いや、できるけど月の法で禁止されてるって感じかな。部品さえあれば、知ってるものなら何にでもなれるよ」
「あ、そうなんだ……。もしかしたら資源問題みたいな話で地球が侵略されちゃったりしないかな、ってちょっと心配になっちゃった……」
「ふふふ、今は侵略なんて言う人いないってば」
「今は……?」
ちなみに人間の身体はかぐや様が作ったことあるからみんな知ってて、猫はこの星で最初に見つけた生き物で、その二つならどっちでも自由に変身できるんだよ、と彼女は得意げに語っている。
「なるほど……。なんかいっぱい聞いちゃってごめんね。い―三〇五さんからはなんか聞きたいこととかある?」
「んー、とってもいっぱいあるけど」
でもその前に、とむくれた顔で彼女はこちらを見る。
「い―三〇五さん、って呼ぶの?」
「正直呼びづらいなって思ってたところ」
苦笑しながらそう答える。
「うーん、なんか語呂合わせとかもあんまり思いつかないし、いっそのこと地球の名前作ってみたら?」
「い、いやいやそんな畏れ多い!」
かぐや様だって星の人からいただいたお名前を使ってらっしゃったのに、それを私なんかが勝手に作って名乗るなんて……、とたいそう申し訳なさそうにしているジャージ姿の彼女。月から来たんだしかぐやって名乗ったら? と提案してみたら本気で怒られた。
「じゃあ僕が考えた名前ならいい? センスは保証できないけど」
畏れ多い、という彼女の表情に少し喜びや期待の色が混ざる。
「うーん、月の住人、月、お月見……」
僕の連想ゲームを、彼女はかたずをのんで見守っている。
「ミツキ、とかどうかな」
「ミツキ……」
「月見から、ミツキ。安直だけど満ちる月とか美しい月っていう意味にもなるし」
「ミツキ……!」
彼女の顔が満月のようにぱあっと明るくなる。案外気に入ってくれたようだ。
「どうかな」
「ありがたくちょうだいします!」
今日から彼女はミツキとなった。
そんなことをしている間に、日はすっかり暮れている。窓の外を見てみれば、綺麗な満月が昇り始めていた。
「ミツキ、ちょっとおいで」
ミツキを呼び寄せて、空に浮かぶ輝くまん丸を指した。
「あれが地球から見た月だよ。今日はいっちばん綺麗なやつ」
てくてくと窓辺までやって来たミツキは、しばらく何も言わずぼーっと月を眺めていた。
邪魔にならないよう僕が静かに窓辺を離れてキッチンへ向かってからも数分ほどそのまま月に見入っていたミツキの口から、静かに言葉が零れる。
「コーキ」
「ん?」
「綺麗だね」
「そうだね」
そこに住んでるのに、と思うと少しおかしくて、ちょっと笑いながら相槌を打つ。
「あのね」
ミツキはやっぱり食い入るように月を見つめながら言う。
「月の土はね、灰色なの」
そういえば、写真で見た月の石は確かに灰色だった記憶がある。それも一切の生気を感じさせないような、どこまでも静かな灰色。
「でも、この星から見るとあんなに綺麗だったんだね」
月に住んだことのない僕には感じられていない重みのようなものがある気がして、軽率に返事をするのが躊躇われた。しばらく言葉を探してから、やっぱり良いのは見つからなくて、そうだね、と応える。夕飯の準備をする手は止まっていた。
「私ね」
ミツキが月から視線を外すことはない。
「家出してきたの」
何も言わず、次の言葉を待った。
「家どころか自分の住む星から出てきちゃったんだけどね」
「壮大な家出だ」
ふふ、そうかも、と彼女は笑う。
「これからどうするかなんて全然決まってないんだけど、せっかくこの星にいるんだし、出来ることはしたいなって思うんだ」
「うん」
「コーキ」
そういうとミツキは振り返って真っ直ぐに僕を見る。
「しばらくここに居させてもらってもいい?」
ミツキの背負う月が綺麗だ。
「いいよ。僕も月の話もっと聞きたいし」
ありがとう、お世話になります、とミツキはペコリと頭を下げて、それから安堵と感謝のないまぜになったような表情で微笑んだ。いとうつくしうて居たるかぐや姫もこんな顔をしていたのだろうか、と思った。
それから、まずはミツキに食べることを教えた。「私は魂だけの存在なんだからだいじょぶだよ」と言った途端にミツキの腹がぐうっと鳴ったので、実体のある身体を持つあいだは、それに準じた生命維持をしなければいけない、ということなのだろう。今まで視覚しか使ってこなかった月の住人に五感で料理を楽しんでもらいたくて、しばらく前から冷凍庫の番人となっていた半額の黒毛和牛ステーキ肉を引っ張り出して焼いた。料理の腕がなくても失敗せず、お手軽で一番おいしい料理を、ミツキはびっくりするぐらい感涙を流しながら喜んで食べてくれた。そんな大げさな、とも思ったけれど、これまで味覚で得てきた経験や記憶を全部消してから美味しいものを食べたら僕も泣いてしまうのかもしれない。
ともあれ、食器を洗ってから戻ると、ミツキはローテーブルに突っ伏して寝落ちしていた。かなり無防備で穏やかな寝顔は、すぅ、すぅ、と時々小さく息を吐いている。彼女の背中に毛布をかけてから早めに身支度を済ませて電気を消すと、窓からぼんやりと月の薄明かりが差し込んでいるのに気付いた。今日のはスーパームーンと言うらしい。欠けるところのない月は、何度見てもやっぱり綺麗だった。
***
16
翌朝、自分の腰や肘をさすりながら「身体壊れちゃったのかな……」となにやら物騒なことをぼやいていた。
「どうしたの」
「なんかね、身体のところどころがじわーってなって、重くて変な感じがするの」
「首とかはどう?」
「変な感じする。身体の作り方間違えちゃったのかな」
おそらく寝違えたのだろう。昨日机に突っ伏して寝てしまっていたから、身体が言うことを聞いてくれていないみたいだ。後から作った身体なのにそこまで忠実に再現されているなんて、とついつい感心してしまう。
「人間はね、変な体勢で寝ると身体が痛くなるんだ」
「痛い?」
「たぶんその変な感じって言うのが痛いってことだよ」
「コーキは物知りだね」
「まあミツキの何千倍もこの身体で生きてるからね」
寝違えを教えてあげただけで物知りと言われる日が来るとは思わなかった。でも、とミツキは続ける。
「痛いって、ちょっと嫌な感じしない?」
「まあ、だいぶ嫌な感じかもね」
「なんで痛くなるの?」
これまた中々難しい質問だ。
「嫌な感じなのに、なんで痛くなるの?」
さして良い返しも思い浮かばず、僕は「それが生きてるってことだよ」と答えた。
「身体を持ってるとね、痛い以外にも嫌なことがたくさんあるんだ。だから僕は正直ミツキが羨ましいかも」
「そうなんだ」
痛みとか苦しみのない生き方。それは僕ら人間の究極の理想形に聞こえる。
ミツキはやっぱりまだ腑に落ちていない様子で、うーん、と首を捻っている。
「嫌な感じを感じる機能って、そのうち削ぎ落とされそうな気がするけど……。なんて言うか、うーん、ちょっと失礼だけど、無駄と言うか……」
「まあ確かに無駄かも。あ、でもそういえば、痛みに関しては『怪我したら気付けるように』って理由があった」
小学校の保健の授業で先生がそんなことを言っていたのを今更思い出した。
「僕ら地球の人は身体がないと生きていけないからね。身体が傷ついたり、良くない使い方をしたりしたらすぐわかるようにしとかないと困っちゃうんだ」
とはいえ、不便だし邪魔なのは違いないけどね、と付け加えておく。
「なるほど、ちょっとわかった!」
「ならよかった」
「要するに、私は寝るのが下手だったってことだね」
「うーん、まあそう、なのかな?」
とりあえず今日はミツキの服と布団を買いに行こうと心に決めてから、朝食の支度をはじめた。
朝食を終えてから、買い物に出るための準備をする。
「服、どうしよっか」
服を買いに行くための服がない状態、というやつだ。最近は中性的なファッションが流行っていて、まあ多様性の時代だし、正直何を着ていようが問題ないのかもしれないが、とりあえずメンズを着せておけばボーイッシュなレディースファッションの完成、とはならないことはファッションに明るくない僕でもなんとなく想像がつく。
幸い身長とか背格好はそれほど変わらないし、ミツキが興味を示したやつを着せれば良いか、とタンスの中身を並べて見せてみることにした。
「どれでも着ていいの!?」
「上下一枚ずつね」
「でもかぐや様はいっぱい重ねて着てたって聞いたことあるよ。これとかちょっと似てるかも」
ミツキは甚平風の羽織りものを指してそう言った。
「十二単の話? えっとね、服にも和服と洋服があって……」
和服と洋服の違いというのもまた説明しづらいのだが、肝心のミツキの方はこちらが頭を悩ませている間にすっかり別の服に心移りしている。
結局、一通り広げて見てみたミツキは「コーキに見繕ってもらう」とのことで、無難にオーバーサイズのTシャツとスキニージーンズを渡した。靴とか靴下とかはもうどうしようもないので、諦めてある物を履いてもらうことにした。下着は……、それを今から買いに行くということで……。
「乗ってみたら意外とだいじょぶだったね」
電車の音がかなりうるさいかも、と心配していたけど、ミツキにとっては平気だったようだ。
「電車がごわー! って来たときはちょっとやばいかもって思ったけど、中は意外とだいじょぶだったよ」
「ならよかった。ここからは人が増えてだいぶうるさくなるから、なんかあったら言ってね」
平日とはいえ、かなり大きな駅なので人も多い。周囲の喧騒につられるように、ミツキの声も大きくなっている。作り物の体でそんな細かいところまでよく器用に再現してあるものだと感心しつつ、まっすぐ服屋へと歩を進めた。
着いたのは、大きい駅ならどこにでもある若者に人気のある、アパレルショップと呼ぶには価格帯がかなり低めの服屋。正直特にこだわりがなければ大学の間はここの服だけで足りると思っている。
店に入り、普段は立ち入ることの少ないレディースのエリアに向かいながら、ミツキに聞いてみる。
「今更なんだけどレディースでいいの?」
「レディースって?」
「女の子の服ってことかな。なんか作った身体がたまたま女の子だっただけで性自認は別です、とかないかなって、今更だけど」
んー、としばらく悩んでからミツキは言う。
「女の子の方が近い……、かな? かぐや様も女の子だったし。でも月の人たちはあんまりどっちとかはないかな」
「そうなんだ」
「コーキは男の子で、それと比べると私は男の子とはちょっと違う気がするけど……。うーん、やっぱりちょっと難しいや」
どうやら、月では性別と言う概念があまりなく、言語化するのは難しいらしい。確かに身体がなければ性別にこだわる必要もないのかもしれない。とりあえずメンズとかレディースとか関係なく店内をぐるっと見て、気に入ったのを買えばよいだろうか。
「でも今着てるこれはけっこー好きだよ」
オーバーサイズな裾を広げてバサバサしながらミツキは言う。
「ほらこれ、羽みたい」
「羽みたい、なのかな?」
「月にも羽みたいなのがあるんだよ」
「へー」
いっぱい輝いててきれいなんだ、とミツキは裾をバサバサさせながら嬉しそうに言う。
「てか月にもあるんだ、服」
「あ、えーとね、月の人がみんな着るわけじゃないんだけど、えーとね」
なんて説明すればいいかな、と悩むミツキ。
「私たちの国にも王様がいるんだけどね、その家系のひとたちが四百歳以上になったら着れる服が一枚だけあってね、でも服を着るときは身体がなくちゃいけないから、その時だけこっそり地球に来てそれを着る儀式をやって帰るんだよ」
秘密なんだけどね、とミツキは笑う。
「服を着る儀式か……」
「まあ貴重なものだからね、着るときの決まりがないと困っちゃうから。あ、でも特例で着る場合もあるよ、かぐや様とか」
とにかく大事な国宝があるらしい。ミツキの話を聞いている限り、かぐや様というのが月ではかなり高貴な人らしいし、国王の即位の証として着る服、みたいなものなのだろうか、と想像した。たしか日本でも皇位継承のときに三種の神器を渡すとかあった気がする。
「だから私は羽っぽい服が良いな」
という要望を受け、結局ぶかぶかのオーバーサイズTシャツを数枚と、これまた袖周りと裾がぶかぶかのパーカーに、あとは肌触りが羽っぽいということでもこもこの部屋着を数枚買うことになった。下着はお互いによく分からない、ということで、おあつらえ向きに置いてあった男女兼用のものをいくつか買った。ついでに、アクセサリーコーナーに置いてあった三日月のチャームのイヤリングも一緒に買った。
「何か食べたいものある?」
さっそくイヤリングを耳にぶら下げてゴキゲンなミツキに聞いてみる。ちょうどお昼時の午後一時過ぎ、そろそろお腹も減ってきた頃だろう。
「うーん、私、昨日食べた食べ物しか知らない」
「そりゃそうだよね」
さすがに地球に来て三食目で「何食べたい?」は酷だったか。地球に来て初めて食べることを知ったミツキにとってはなおさらだ。
「あ、私気付いたんだけどさ」
スマホで近くの飲食店を探していると、ミツキは言う。
「かぐや様もたぶん地球ではじめてご飯食べたんだよね」
「まあそうかも」
「何食べてたのかなあ」
竹取物語の舞台は奈良時代だっただろうか、とにかく大昔の話だ。画面をミツキにも見せながら、奈良時代のご飯を検索してみる。奈良の貴族は意外とうまそうなものを食べていたらしい。
「昔の人も意外と魚とか海老とか食べてたんだな」
「昨日の『おにく』はあんまりないなんだね」
肉料理が鹿肉のものだけなのを見るに、この頃は畜産が発達していなかったのかもしれない。
「ね、コーキ。これ食べれる?」
「鹿肉はないけど、お魚の和食ならここらへんにもあるかな」
ずいぶん昔の料理だから全く同じではないけど、と付け加えると、ミツキは喜んでお礼を言った。
そういうわけで近くの和食屋さんに入り、海老の入っている刺し盛のセットと焼き鮭定食を注文した。奈良時代の人は鮎などの川魚も多く食べていたみたいだが、現代社会で川魚が簡単に手に入るわけもなく、一応生まれだけは川の鮭を頼むことにしたのだ。
「『おにく』もおいしかったけど『おさかな』もおいし~!」
ミツキは海老も鮭も気に入ったようだ。お喋りする間も惜しいとばかりに運ばれてきた食事をもりもりと平らげていく。ミツキのぶんは大目に取り分けたはずだったけれど、気付けば彼女は僕よりも早く食べ終わっていた。
おしぼりで手や口を拭きながら、先に食べ終わったミツキが話し始める。
「そういえばコーキってすごく偉いんだね」
「え? 偉い?」
「だってコーキに仕えてる人いっぱい」
当然、生まれてこのかた誰かに仕えてもらったことは一度もない。
「さっきの人私たちにご飯運んできてくれたし」
「ああ、店員さんのことか。別に偉くなくても、ここでご飯を買ったらみんなああして出してもらえるんだよ」
買う? とミツキは首を傾げる。そうか、質量が無ければお金でモノをやりとりする必要もないのか、と今更気付いた。
「もしかして月にはお金ってないの?」
「なにそれ」
やっぱりこれも説明が難しい。
「うーん、まず地球の人はこうして毎日ご飯を食べなきゃいけないんだけど、その食材をひとりでいっぱい集めるのは大変だから、色んな人と交換して食材を集めなきゃいけないんだ。これは大丈夫?」
「うん」
「で、その交換をするのに便利なものとして、お金っていうのを使うんだよ」
「お金って誰が持ってるの?」
正確にはお札は日本銀行が発行しててどうとか話さなきゃいけない気もするが、そういう話ではないのでとりあえず黙っておく。
「お金はみんな持ってるよ」
「でも私持ってない」
「まあ働いてないからね。地球の人は働いてお金を稼いで、それでモノを買うんだ。それがお金」
「じゃあコーキも働いてるんだね、えらいね」
「ぐ……」
無駄遣いしなければ余るくらいの親の仕送りに甘えてバイトもしていない大学生にはなかなか刺さる言葉だった。
「あ、でもそしたら、このご飯も買わなきゃいけないんだよね」
「まあ基本的にタダでもらえるモノはないからね。このご飯も最初にお金を払って買ったものだよ」
「もしかして入り口の紙を入れて別の紙をもらったやつのこと?」
たしかに食券機のことをそう言えなくもない。
「あ、でも私払ってないよ……」
いけないことをしたのでは……、とわなわな震えだすミツキの様子が面白くて、つい笑ってしまう。
「一緒に払ってるから大丈夫だよ」
「コーキが払ってくれたの……?」
ごめんなさい……、とミツキはしゅんとしている。
「いや、別にぜんぜん平気だよ。お金には困ってないし」
困っていないと言えるありがたみをこれでもかと噛み締めつつそう言ったが、ミツキは申し訳なさそうな顔をしたままだった。
その後は布団を買いに行こうと思ったのだが、警戒一色の目をしたミツキに「それも買うの……?」と聞かれ、そうだと答えたら全力で拒否されてしまった。ちょうど来客用の布団無かったし、と説得を試みたが、このまま無理に押し切ったらご飯すら食べてくれなくなりそうなので、説得は途中で諦めて帰ることにした。寝るときだけ猫になればベッドはひとつで足りる、とのことだった。返せないのに買ってもらってばかりというのが嫌らしい。怠け者な地球人の僕とは正反対の、とても殊勝な心掛けなのがちょっとおかしくて笑える。
***
18
昨日は曇っていて月がよく見えなかったぶん、今日の月はいつもよりもちょっとだけ綺麗に感じる。今日のは居待月と言うらしい。三日前の満月と比べると少し欠けているものの、ぱっと見ただけでは欠けているのにも気づかない。
「コーキ! 今日は月見えるよ!」
嬉しそうに窓辺に張り付いているミツキ。
「今日もうさぎ達はがんばってるなあ」
「うさぎ、ってなに?」
ミツキの頭上にはハテナマークが並んでいる。そういえば月のうさぎと竹取物語とは別の話だったか。
「うさぎっていう生き物がいるんだけど、地球から見た月の模様がそれに似てるんだ」
「生き物って猫みたいな感じ?」
「そうだね、野良はあんまりいないけど」
検索して出てきたウサギの写真と二匹のうさぎが餅つきをしているイラストを順に見せる。
「ちなみに餅つきっていうのはお米を使って餅を作ることだね」
ミツキはまじまじと月を見つめる。
「うーん、あんまり似てない気がする」
「まあ昔の人が勝手に言ったことだしね、僕らもずっとそう聞かされてきたから見えるってだけかも」
やっぱりミツキは月をじいっと見つめている。
「そんなに珍しい? うさぎの模様は毎日同じだよ」
それを聞いたミツキはくるっと振り返り、首を傾げる。
「なんで?」
たしかに。
「月から見た地球は毎晩ぐるぐる回ってるよ?」
本気でわからないので調べてみると、どうやら月の自転周期と公転周期がぴったり同じせいで、月はずっと同じ面を地球に向け続けている、ということだった。
「そういえばうさぎってどんな身体してるんだろう。あ、あと月にうさぎがいるって誰が見つけたのかな。それから……」
「気になることたくさんだね」
ミツキの探究心はとどまることを知らない。
「私ね、いろんなことたくさん知りたいの。先のことはまだわからないけど、地球に住むにしても、月に帰るにしても、いっぱい知ってないと困っちゃうから」
「ミツキはえらいね」
「月の人たちはね、もともと石以外に何もない月で何も考えずにさまよってたの。でも地球に行って、色んなことを学んで、月では身体を持って生きることはできないけど、星の人から授かった文化とかいろんなものを取り入れて、今はすこし豊かに生きれてると思う。だから私もいっぱい知りたいなって」
ミツキの瞳はまっすぐだ。
「今でも何百年かに一回、月の人が地球に学びに来てるんだよ。そうして新しい知恵や文化をわけてもらって、持ち帰るの」
まあ私は家出なんだけどね、とミツキは決まり悪そうに笑った。
「じゃあさ、図書館とか行ってみる?」
僕はそう提案してみた。疑問に思うことも、疑問にすら思っていなかったことも、いろんなことを知りに行くには良い場所だと思ったのだ。
「本が読み切れないくらいいっぱい置いてあるところなんだ。かぐや姫の本も置いてあると思うよ」
ミツキはそれを聞くと、目を輝かせて「行きたい!」と言った。
***
19
翌日、僕とミツキは隣駅にある公立の図書館に行った。
「図書館では静かに、ってことになってるから、喋るときはなるべくちいさな声でね」
「わかった」
この辺は学生街で子供やお年寄りは少ない。その上大学生は大学図書館を利用するので、規模の小さい地域の図書館はいつ来ても残念ながら寂れている。マナー的にはあまりよろしくはないけど、初めての図書館なミツキにはいろいろ説明しなければならないのはわかっていたので、ならばなるべく人のいない方にしよう、と思って大学図書館ではなくこちらに来たのだ。
図書館に入ると、案の定利用者はほとんどいない。幸運にも、人の来づらい隅っこの席が取れたので、多少なら喋ってもあまり迷惑にはならないだろう。
まずは何の本が見たいか聞くとミツキはうさぎや生き物の本と答えたので、動物のコーナーから適当に図鑑やら写真集やらを引っ張り出してきた。
『動物』とそのまんまなタイトルの図鑑の目次を開くと、「ウサギのなかま」という項目があったので、そのページを開く。ウサギはウサギ目というのがあるらしい。
「いっぱいいるけど、どれも似てるね」
「そうだね」
「でもこっち側のはどれも足が見えてるけど、こっち側のは足がもふもふで隠れちゃってるのが多いね」
よく見てみると、左ページはノウサギやユキウサギのような野生種、右ページにはカイウサギという飼育用のウサギがまとめられているようだった。細かいところまでよく気づくものだと感心する。
「私はこの子が一番好き」
そう言ってミツキが指差したのは「日本白色種」と書かれたカイウサギの品種。「日本でよくかわれている白ウサギ」とのことらしい。
「僕もウサギって言われてぱっと想像するのはこいつだな」
「かわいいね」
「だね」
「あ、この羽みたいなのは耳なんだ」
「『ウサギの耳は進化の過程で長くなっていった』って書いてあるね。たしかにちょっと羽っぽい」
昔の人は、ウサギの耳が羽っぽいからという理由でウサギを一羽、二羽、と数えた、みたいな話がよぎる。
「耳が羽みたいで、もふもふしてて、後ろ足がちょっと大きいんだね。あとは動いてる姿をいくつか見れたら変身できそう」
うんうん、とミツキは満足げに頷く。解剖図なんかを見なくても変身できるとはかなり器用だ。
「他にもかわいいのいたら変身しようかな」
ミツキは他のページもぱらぱらとめくって行くが、サル、キリン、ゾウ、コウモリ、イノシシ……、どれもあまりかわいくはなかったようだ。イヌはどうだろうかと思って「イヌのなかま」のページを開いてみると、イヌは「ネコ目イヌ科」だと書いてある。それを読んだミツキは「じゃあ猫でいいや、変身できるし」と言うのだった。
ついでに、ウサギの飼い方の本も開いてみる。
「『ウサギはこわがりで臆病な生き物です』って書いてある」
「たしかに臆病なイメージあるね」
「だから耳が大きくなったんだね」
「そのせいで余計ビビリになってるけどね」
その性格もそうだけど、なにより音に敏感で小さな音にもすぐ反応して逃げ出すのが、ウサギの臆病と言われる由縁なのだろう。
「でも音をたくさん聞けるのはいいな。聞こえるってすてきだもん」
「そんなに?」
「うん、とっても」
耳の三日月を指先で弄びながら、まあイヤリング出来ないのはちょっと残念だけどね、とミツキは笑った。
月には空気がない。当たり前に空気があって、当たり前に音が聞こえて、当たり前に喋った内容が伝わる、その僕にとっての当たり前がミツキにとっては驚くべきものだったのだろう。
「次は、音について知りたいな」
そう言うミツキを連れて、今度は科学のコーナーへと向かった。
***
23
「そういえばさ」
キッチンで夕食後の片付けをしていたところ、今ふと思い出した、といった感じでミツキはそう切り出した。
「なんでコーキは一人で暮らしてたの?」
泡を流し終えた食器をミツキに手渡しながら、なんて答えようかと考えを巡らせた。
「んー、僕も家出みたいなもんかな」
「そうなんだ」
「まあ家出にしてはずいぶん仕送りもらいまくってるけどね」
逃げるように家を出てきた時のことを思い出す。大学進学が決まった直後、親の反対を強引に押し切って一人暮らしを始めた。頑張れば実家からでも通える距離ではあったけど、正直これ以上実家で暮らしていたらもたないと思った。裕福な家庭に産んでもらって、なんとか死なずにここまで育ててもらって、もちろん感謝はしてるし、もらった分のお金は働いて返すつもりでいるけど、それでもやっぱり実家にはもう帰らない気がする。
「そうだね……、簡単に言うと、ちょっと過保護が過ぎる家でね、愛が重いっていうか、それ全部受け取って全部返してってやってると、ちょっと疲れちゃうんだ」
ミツキはあまりピンと来ないという表情をしている。もちろんそんな単純な問題じゃないし、月と地球とでは家族の在り方なんかもいろいろ違うだろう。
「そっか……」
「まあ僕は今こうして楽しくやってるし、別に大丈夫だよ」
ミツキが気まずそうな顔をしたのに気付いてそう言ったが、あまり慰めにはならなかったようだ。それからしばらくの沈黙を挟んで、ミツキはぽつぽつと語り始めた。
「……私はね、パパとママにね、『他人のことを愛するな』って教えられて育ったの」
「うん」
「パパは偉いんだけど古風な人でね、『思ふべからず』っていう昔の月の掟を何度も聞かされてきたの。あ、もちろん今はそんなことないんだよ! かぐや様が月に帰ってきてから掟も変わって、今は月の人同士自由に愛し合ったりすることができるんだけど……。でも、やっぱり愛っていうものが存在しなかった時代のほうがずっとずうっと長生きだったのも事実でね、だからパパみたいな古風な人は『愛など魂が穢れるだけだ!』って言うの……」
以前、月の人々は魂だけの存在だけど、感情や記憶が蓄積され過ぎると魂が劣化して死んでしまう、みたいな話をしてくれたのを思い出した。
「おかしいよね、私はパパとママのこと大好きなのに。それで、おかしいよって、大好きだよ、って私言ったんだけどね、『種の繁栄のためにお前を産んだだけだ』って言われちゃって、それで家出してきたの」
「そうだったんだ」
「でも今は幸せだよ、自由に好きだって言えるし。コーキのことも大好き」
「あ、ありがとう……」
あのね、とミツキ。
「私、大好きって、愛って、すごいことだと思うんだ」
そう言うミツキの言葉には、強い力がこもっているように感じた。
「愛って、地球の文化の一番はじまりの場所で、おわりの場所でもあると思うの。そこからいろんなものが生まれていって、それをたくさんの人が受け取って、そうやって豊かさって生まれてくるモノなんじゃないかな」
もうとっくに泡は全て流れ落ちているのに、この最後の一枚のお皿を渡したら会話が終わりになってしまう気がして、いつまでも蛇口の水が止められない。
「長く生きるって、誰かを愛することよりも豊かなことなのかな……」
これは正義と正義の戦争だ。長く生きることと、愛と、自分たちにとってどちらがより「豊か」と言えるのか、月では今ちょうど答えを探しているところなのだろう。過渡期ってやつだ。長生きと愛のどちらが豊かかなんて地球でも結論は出ていないけど、身体のある地球人が伸ばすことの出来る寿命なんて頑張ってもせいぜいボケてなにも覚えていられない最後の十年くらいのもので、僕らはそんなことで悩むだけ無駄だった。その代わりに地球では愛がすっかり飽和しきって、恋愛だとか、自己愛だとか、自分にとって最も気持ちのいい愛の質をみんなばらばらに追いかけ続けている。それが豊かさの極みとはとても思えなかったけど、愛のイチかゼロかでどっちが本当の豊かさか、なんて僕がパッと答えられるはずもない。
蛇口から流れ落ちては排水溝へと吸い込まれていく水をようやく止めて、最後のお皿をミツキに渡した。
***
25
土曜日、また例の寂れた図書館にやってきた。ミツキはどうも音のことが気に入っているらしい。月にはなくて、地球では一番メジャーなコミュニケーションの手段である音が、新しい豊かさを学ぶきっかけになるんじゃないか、だそうだ。それでもっと本とかいっぱい読んでいっぱい知りたいと言うので、図書館に連れて来たのだ。土曜とはいえ、相変わらず図書館はガラガラである。
例によってまた人の来ない隅の席を確保して、案内図の前にやってきた。
「とりあえず音の仕組みについてだったらこないだもちょっと見た自然科学のコーナーだけど、コミュニケーションについてだと、そうだなあ、社会科学とかになるのかな? あ、でも言語のコーナーもちょっと絡みそう。他には……」
本のナンバリングの分類表を見ながらお目当てのエリアがどこになるのか探していると、ミツキがこれは? と分類表の76を指して言った。
「これ、音って書いてある」
芸術・美術のカテゴリーの「音楽」だ。
「音楽か」
「オンガクっていうのも音?」
「そうだね、音を使って作る芸術、って言えばいいかな」
「私これも気になる!」
「じゃああとで音楽のことも調べてみようか、実際に聞くのはうちに帰ってからになるけど」
子供向けの科学雑誌なんかをしばらく読んで、ミツキは音が伝わる仕組みや聞こえる仕組みを理解したようで、科学的な「音について」の話はもう満足したのか、次は音楽っていうのが気になる! と言い始めた。なので、とりあえず音楽の本があるコーナーまで連れて行ってはみたものの、クラシックの歴史とか、ジャズ研究者の評論とか、トロンボーンの仕組みとか、オペラ歌手の書いた自己啓発本とか、並んでいる本はどれもいまいちピンと来ない。まあ「音楽っていうのは音を使う表現のことで……」というところから説明が必要な人向けに書かれた本なんて聞いたことがない。地球上に音楽を知らずに育ってきた人など滅多にいないだろうから仕方ないのだろうけど。
「うーん、あんまり良い本がないね……」
「そうなの?」
「地球の人は『音楽』って言葉を知る前に音楽を聞いてるからね。ミツキみたいに『音楽』っていう言葉から先に知った人向けの本はなかなか無いんだ」
これで興味を失わせてしまったらもったいないな、なんて思ったが、ミツキは一段と目を輝かせている。
「つまり地球の人たちにとってすんごく馴染みの深い文化ってことだよね!?」
「そうなるね」
「私もっと気になってきた! 早く帰って音楽聞こ! 早く早く!」
より興味を持ってくれたようでホッとした。
「借りて帰るものとかある? かぐや姫の本とかもあると思うけど」
「あ、じゃあかぐや様の本借りてから早く帰る」
絵本の『かぐや姫』と、読めないとは思うがいちおう『竹取物語』のほうも借りていくことにした。
家に帰ってすぐにパソコンを点け、ユーチューブを開く。
「聞きたい音楽とかある? ってあるわけないよな……」
初めて聞かせる音楽って何が良いんだろう。やっぱりバッハ? モーツァルト? それともメンデルスゾーンとか? そもそもクラシックで良いのだろうか。さらに言えばクラシックでもオーケストラか各楽器のソロの曲かではだいぶ違う。
「私はコーキの一番好きな音楽が聞きたいな、思い入れがあるとか、そういうの。あ、あとはもちろんとってもすごいの!」
その注文を受けてパッと思い出したのは、ラフマニノフの前奏曲「鐘」だった。受験勉強で忙しくなる前の高校二年生の、ちょうどこのくらいの季節に弾いていた曲。習い事としてはかなり長く続けた僕のピアノ人生の中でいちばん難しくて、いちばん印象的で、そしていちばん最後に弾いた曲。それ以降ピアノを弾く機会はだんだんと減っていき、今ではピアノも、楽譜も、それから音楽の才能も当時の実家の防音室に置きっぱなしだ。
僕の感傷と趣味全開で申し訳ない気もしたけれど、それでも僕の一番好きな曲を聞いてほしいと思って、プロのピアニストが弾いている「鐘」の映像を最大音量で流した。
最初の三打鍵で全てがよみがえる。この曲を弾きながら楽譜の奥に見ていた荘厳なロシアの宮殿、はらはらと舞う雪と刺すような寒さ、敬愛する人への讃美、よからぬ未来が訪れるのではないかという予感、そこはかとない不安、それらすべてを震わせ包み込む、揺るぎない鐘の音。
そんなことを閉じた目蓋の裏に描きながら聞いていたら、あっという間に動画の五分が終わった。目を開けると、やっぱりそこはロシアでも実家でもなく、いつものアパートだ。
「ごめんね、趣味全開で。退屈じゃなか、った、かな……、って、え」
ふと隣を見れば、ミツキの両目からはだらだらと涙が溢れている。
「え、ど、どうしたの?」
止め処なく涙をこぼし続けるミツキは、だいじょうぶだと言うように首を軽く振ってから裾で拭う。その様子を最後まで見てから、ふと我に返り慌ててタオルを取りに行った。
しばらく背中をさすってあげると、ミツキはだいぶ落ち着いてきた。
「どう? そろそろ大丈夫?」
こくこく、と頷くミツキ。
「自分でもわからないんだけど、気付いたらこうなってて、痛くないのに、嫌な感じしないのに」
「そうだね、ちょっとびっくりしちゃったね」
また背中を軽くさする。呼吸はだいぶ落ち着いているものの、わずかだが身体は小刻みに震えていた。
「ちょっと刺激が強すぎたかもしれないけど、これが音楽だよ。ずっと昔、音楽って言葉ができた頃にはもうあって、そんなに昔からずっと人々を感動させ続けてきたんだ。この曲を作った人はもう死んじゃってるけど、でもミツキがこうして感動してくれて、喜んでると思うよ」
ミツキはすうっと大きく息を吸って、吐いて、言った。
「音楽って、すごいね」
「すごいね」
「私にもできるかな」
「できるよ。音楽は誰にでもできるんだ」
そう言うとミツキの顔がぱあっと明るくなった。
「音楽の中にも歌っていうのがあってね、これは自分の声を使うから楽器がなくても大丈夫なんだ。それでね……」
うんうん、ふむふむ……、と僕の教えることをひとつも聞き逃すまいと集中しているミツキが可愛くて、つい熱が入ってしまう。ミツキに楽しんでもらえれば良いな、とその日は月が昇るまでいっぱい音楽の話をしてしまった。
***
27
大学入学時に有り余っていた創作意欲が先走って買ってしまったMIDIキーボードをパソコンに繋いだけの間に合わせのピアノを、ミツキは嬉しそうにずっと触っている。やはり聞くだけと自分で音を鳴らしてみるのとではだいぶ違うようで、音の名前はすっかり覚えてしまって、今はいろんな組み合わせの和音を鳴らしては音の響きを試して遊んでいる。すっかり目覚めてしまった絶対音感の感覚が楽しくて、そんな一朝一夕で身に着くものではないはずなのだが、音感を手に入れたミツキはパソコンの電源を落とした後もだいたい何かを歌っては楽しそうにしている。絶対音感を持っていないかなりの人にとっては羨ましい光景だろう。
そういうわけで、今日の夕食後もミツキはふんふん、と鼻歌を歌っていた。
「なんの曲?」
「これ? これはね、月に伝わる昔の歌に音をつけてみたの」
ふんふん、と満足げな表情でまた歌い出すミツキ。月に歌があるとは驚きだ。
「月には音がないのに歌はあるの?」
「そうだよ。コーキが教えてくれたのとはちょっと違うけどね。これもかぐや様が詠んだって言われてるんだよ」
歌うのではなく、詠む歌。
「……ああ、和歌のことか」
「知ってるの?」
今ミツキが歌っていたのは「まことかと聞きて見つれば言の葉を飾れる珠の枝にぞありける」という和歌だったらしい。当然聞き馴染みはないが、珠の枝とあるし、竹取物語に登場するものなんじゃないだろうか。
「和歌っていうのはこの国のすごく昔の歌でね、当時の人たちは自分の気持ちとか伝えたいことを和歌に込めて贈ってたらしい」
「へえー、じゃあかぐや様の歌も誰かのために詠んだんだね」
「うん、たぶんね」
とりあえず先日借りてきた『かぐや姫』と『竹取物語』を机に持ってくる。
「これにいろいろ書いてあるかも。読んでみる?」
「うん!」
「……あれ、これで終わり? 月に帰ってからの話はないの?」
「まあ地球の人が書いたお話だからね」
ミツキが古語をすらすらと読みこなしていたのには面食らったが、月に和歌があるのだから、もしかしたら古語の言い回しとか文章とかも伝わっていたのかもしれない。
ともあれ、昔話の『かぐや姫』と古文の『竹取物語』の両方を読み比べてみたわけだが。
「うーんと、なんかいっぱい気になることがあって、どれから行こうかな……」
ミツキはかなりの情報量を得た様子だ。
「えっとね、まず、『竹取物語』の方に出てきた歌、あれ全部知ってた。月にあるよ」
「そうなのか」
「月にはね、かぐや様が詠んだとされる歌が百二十個あって、それをまとめて『かくやうた』って呼んでるの。それで、今回『竹取物語』に出てきたのは『かくやうた』の一番から五番と、最後の百二十番目。でも、どういうことがあって、誰に向けて読まれた、とかは全然伝わってなくて、深い意味とか背景とかははじめて知ったかな」
「ちなみに順番とかは?」
「五人への返歌として詠まれた歌が、登場した順に一から五番で、『今はとて』の歌は最後の百二十番目だよ」
要するに、月にはかぐや姫の詠んだと思われる歌が「かくやうた」として百二十も伝わっていて、そのうちの六首は『竹取物語』に出てきたものと一緒。そして、その「かくやうた」が詠まれた順番通りに並んでいるとするならば、石上麻呂への「年を経て~」からかぐや姫が月に帰るときに遺した「今はとて」の間に百十四首もの和歌が詠まれていたことになる。
「で、次なんだけど」
ミツキは疑問点をさらに上げていく。
「帝ってだれ? かぐや様が五人の星の人に求婚されて断ったっていう逸話は月で聞いたことがあるけど、帝さんの名前は聞いたことないかも。でもこの五人よりももっと偉い人なんだよね? なんで帝さんのお話は月に伝わらなかったんだろう」
ちなみに、昔話の『かぐや姫』の方では帝の話の部分はばっさりカットされていて、不死の薬もお爺さんが受け取ってお爺さんが燃やしていた。
「それで最後にもうひとつあるんだけど」
ミツキは『竹取物語』のかぐや姫が月へと帰るシーンのページを開く。
「この『今はとて』はね、月では天の羽衣を着ることになった人が必ず唱えることになってるの。天の羽衣を着れるなんてとても名誉なことだから、その感謝や光栄に思う気持ちを込めてね。でも、このお話のかぐや様は、なんていうか、とても悲しそう。羽衣を着れて嬉しいっていう風には、どうしても見えない」
地球人の僕が普通に読んだ感想としては、これを着たら月に帰らなきゃいけない、という別れを象徴する天の羽衣を着たくない、でも抗うことはできないので、この思う気持ちを「あはれ」の一言に込めて……、というものなんだろうと思った。かぐや姫と帝は出会いこそ最低だったものの、十年とかのかなりの長い間文通していたようだし、それなりに、恋心、とか、まあそういうのもあったのだろう。
ただ月では、この歌や天の羽衣には全く違う文脈での意味が込められていて、月の人はかぐや姫が悲しい気持ちでこの歌を詠んで羽衣に袖を通した、とは露ほども思っていないらしい。どうしてかぐや姫はこの話を月の人に伝えずに、歌だけを伝えたのか。そして、詠んだ時の想いとは違う解釈をされたことに、異を唱えたりはしなかったのだろうか。
外してあるイヤリングを手に取って、部屋の明かりをきらりとかえす月のチャームを見つめながら、ミツキは呟いた。
「羽衣は自ら輝いていてとても美しいって言われてるけど、かぐや様は嫌だったのかな……」
月の昇っていない夜空は、どこかうつろで寂しそうだった。
***
29
この間のかぐや姫の話の続きがどうしても気になって、僕は図書館に行くことにした。
相変わらずミツキはずっと鍵盤を触っているが、あの話をしてからあまり元気がないというか、なにか思い悩んでいるように見える。図書館に行くけど一緒に来る? と誘おうかとも思ったけど、ずっと同じワンルームにいるのに、外に出るときまで一緒では考え事もできないだろうと思って、「図書館行ってくるね、なにかあったらライン送って」とだけ声をかけて家を出た。ネットの見かたとかは大体教えたし、パソコン版のラインからメモ帳代わりに使っている僕一人のトークルームにメッセージを送る方法も教えたので、大丈夫だと思う。ミツキはかなり賢い子だし。
入構証どころか戸籍もないミツキと一緒ではなかなか入りづらい大学図書館で本を探す。もうそろそろ学期が始まるせいか、学生の数はそこそこ多かった。まずは『竹取物語』を手に取って、それから羽衣伝説についての本や日本の伝承説話についての民俗学の本なんかも数冊抜き出して、席に着く。
一番引っかかっているのがかぐや姫の「罪」の内容だ。
『竹取物語』では、月の迎えが「かぐや姫は罪を犯したから地球に居たのだ」と言っている。そして、「罪の限り果てぬれば」、つまり罪を償う期限が終わったので、もしくは罪の全てが晴れたとも読めるが、そういうわけで月の人はかぐや姫を迎えに来た、と言うのだ。
要するに、かぐや姫は月で罪を犯す、つまり法を破り、その罪を償うため、または消すために地球を訪れた。そして、それほど長く地球に居る必要は無かったものの、地球に一定期間留まることで罪は消せた、ということらしい。
そこで思い出すのが、ミツキの言っていた月の掟だ。ミツキが言うには、かぐや姫が月で改革を行ったことで、「思ふことなかれ」という掟が改められ、月の人々は互いを愛することができるようになった、というような話だったと思う。逆に考えるのなら、かぐや姫が月に帰るまではこの掟は存在していて、実はこの掟を破ったから地球へと送られることになったのではないか、という推測が経つ。
ならば、なぜ帝の話だけが月に伝わらなかったのか。
かぐや姫が地球で知った愛の形にはいろんな種類があっただろう。求婚者たちのような押し付けがましい慕情もあれば、翁や嫗から受け、かぐや姫からも与えた家族愛、それに帝と恋文をやりとりしていたとするならば、恋愛も。それなのになぜ帝だけが省かれて伝えられたのか。もちろん十数年もの間帝に手紙を送られ続け、無下にも出来ず、かぐや姫がただただ迷惑していたという可能性もないわけではない。しかし、そんな人に悲しそうな別れの歌なんて残すだろうか。翁や嫗に渡さなかった不死の薬を、わざわざ帝に届けるよう言うだろうか。かぐや姫が自身の改革によって、地球の文化を取り入れ、自由に愛情を持てるような国づくりを行ったという月で、帝への恋心を無いものとするのだろうか。
そして、天の羽衣。羽衣伝説という伝承の類型があるそうで、天からやってきた美しい天女が水浴びをしているところへやってきた男が羽衣を隠してしまうことで、天女は天へと飛んで帰ることができなくなり、仕方なくその男と結婚せざるを得なくなる、というのが共通の型だという。『竹取物語』はこの型には当てはまらないが、他の伝承に登場する羽衣は、一般的には天に帰るための翼という位置づけなのだろうか。
しかし、月から来た迎えの一団には「屋の上に飛ぶ車」があるし、かぐや姫はその車に乗っているのだから、天の羽衣はかぐや姫が飛んで帰るためのものではない。さらに、かぐや姫本人が「衣着せつる人は、心異になるなりといふ」と言っており、その効果を知っているからこそ袖を通すのを何度も躊躇った。結局文を遺した後天の羽衣を着せられたかぐや姫は、「翁を『いとほし、愛し』と思しつることも失せ」てしまったらしい。
いつだかにミツキの言っていた「歳をとった王族が儀式で着る、羽のような見た目で貴重な服」が脳内で繋がる。とても貴重で、着ることがこの上ない名誉なのだという天の羽衣。人格を変えてしまう程の効果を持っているのに、王族の、しかも年寄りが喜々として着るのか。その効果を知っていてなお、月の人々はそれを祝福するのだろうか。
なにか隠されたものがあるように感じるが、地球に遺された情報だけでは、これ以上はわからない。
家に着いてすぐ、ミツキに掟のことを訊ねてみた。
「ねえミツキ、掟のことなんだけど」
鍵盤をぼーっと見つめているミツキの肩が急にびくっと大きく跳ねる。
「あ、ご、ごめん! びっくりさせちゃったね。ただいま」
「ううん、だいじょぶ」
ミツキはゆっくりと首を横に振る。
「えと、で、なんだっけ」
「ああ、そうそう月の掟の話。色々調べて来たんだけど、やっぱり地球の資料には月の掟は載ってないからさ、ミツキに聞こうかなと思って」
「うん、そっか」
いつもと比べると、どこか張り合いがない。
「うん。で、前に教えてくれた『思ふべからず』って掟がもともとあって、それをかぐや姫が改めたんだったよね。それってどういう風に改められたのかな。たぶん丸々消されたってわけじゃないんだよね」
「あ、えっと、その……」
ミツキは言い淀む。ミツキが月の掟の話をしてくれたのは、家出の理由を聞いた時だっただろうか。ここ数日物思いをしているような様子だったし、家出の状態にどう決着をつけるか考えることもあっただろう。今はあまり聞くべき時じゃなかったかもしれないな、と聞いてから気付いたが、もう遅い。せめて急かすようなことだけはしないように、とミツキの言葉を待った。
やがて、ミツキはぽつぽつと言葉を紡いでいく。
「えっと、『思ふべからず』って掟は、今は……、えっと……」
意を決したように、ミツキは静かに息を吸った
「今は『星の人思ふべからず』って……、なってる……」
「そうだったんだ、教えてくれてありがとう」
つらいことを聞いてしまったのは間違いなさそうで、申し訳なさを埋めようとミツキの背をさすった。
「なんで帝の話だけ月に伝わってなかったんだろうって考えてたんだけど、そういう掟があったんだね。月の人と地球人じゃ寿命も違うってことだったし、いくらかぐや姫でも帝への恋心は隠さなきゃって思いもあったのかもね、後世の人が真似して悲しい結末になっても困るし」
しばらく背中をさすっていると、ミツキは自分の頭を僕の胸に預けるように寄り掛かった。
「教えてくれてありがとう、おかげで気になることがひとつわかったよ」
それから、僕がこんなことを言っていいのかわからなかったけど、少し悩んでから、言うことにした。
「あと、家出のことなんだけど、ミツキの中で答えが出るまではここでゆっくりしてていいからね。僕は大丈夫だし、ミツキにはしっかり考えた上で答えを出してほしいと思うし、それを尊重したいって思うから」
今夜も一向に月は昇らない。月明かりが入って来ないせいか、その日の夜はすぐに意識が落ちてしまった。
***
30
早朝、目覚めると、ミツキはいなくなっていた。
机の上には、三日月のイヤリングの片方と、「羽衣を着らる心地のかくありと知れどあへなし 音のこすのみ」と書かれた紙が置いてある。
帰ったのだと、静かに悟った。それでもまたそこの窓に張り付いて一緒にひと際きれいな月を見るんじゃないか、と思ってしまう。今日の月の出は何時だろうか、それまでにおいしい夕食を作っておこうか。調べてみれば、ちょうど先程から新月が昇っているらしい。夕暮れと共に沈むそうだ。
もう帰ってこないんだな、と否応なしに思わされた。
***
7
それからすぐに大学が始まって、ばたばたとしている間に気付けばもう一週間が過ぎていた。午後の講義のない水曜日の昼、帰り道の快晴の青空に月を見た。輝くわけでもなく、埃みたいに灰色で、綺麗に半分の、あれは上弦の月。そういえば昼間にも月は出るんだったっけ、そういえば昼間の月は見せてあげられなかったな、そんなことが目の奥から止め処なく溢れてきて、やっぱりミツキのことを思い出す。
ミツキは何をのこしたのだろうか。彼女が「歌」としか呼ばなかった和歌の中に、「音」をのこすと書かれていたのが引っ掛かった。
彼女に教えたのはネットの見かたとラインの使い方くらいのものだし、と思って調べてみたら、案の定メモ帳にしているラインのトークルームに音声ファイルが送られていた。どこまでも素直だな、と笑って、音声ファイルを開く。
君を忘れることになったの
君が教えてくれた音だとか
君と見た写真のうさぎとか
君を好きでいたこととかね
君を忘れることになったの
君と一緒に聞いた鐘の音も
君が焼いたお肉も、笑った顔も、
声も、言葉も、愛も
月が照らされて輝くのなら
人も愛されて輝くと思うの
私を照らしてくれた君も
誰かに照らしてもらってね
いたいけど、ごめんね
いられなくて、ごめんね
会えなくなるのはつらいけど
がんばるから、がんばってね
月を見て笑ってね
おんなじ月を見て笑ってね
私も月から笑ってるからね
思い出せなくても、覚えているからね
音声ファイルの上には、ご丁寧に歌詞も送ってあった。
今度は歌詞を見ながら、一緒に歌いながら聞いてみる。
そういえば、一緒に歌ってあげなかったんだっけ。
半月を空に浮かぶ舟に喩えた人がいた気がする。
舟に乗せて届けてもらえるように、霞んだ視界で空高く昇る月を見ながら歌った。
ミツキ せっか @Sekka_A-0666
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