第四片

 ――御田音々みたねねに、不思議と恐怖はなかった。

 目の前には、モノレールのホームをはみ出し、さらに背丈を伸ばす、赤く縁取られた漆黒の犬の頭が、悪い夢でも見ているように数とサイズを増やしている。

 当然、そのようなものを十七年間の人生で、音々は見たこともない。

「――」

 と、犬の頭のひとつから放たれた、金属を引っかいたような音のその先、上街の高層ビルの麓が、殴りつけられたように歪んだ。あんなものに当たれば、人間の体などひとたまりもない。

 ――それでも、音々はギターのコードを押さえる指を止めない。なぜなら――。

「――八つ当たりしないで、耀っ! こんが悲しむわ!」

 その巨体に対し、あまりに小さすぎる輝く青い人影が、果敢にヒットアンドアウェイを繰り返していた。主に蹴りを主体とし、小柄なその体が巨大な犬の頭を撃つたび、衝撃音がこちらまで伝わってきていた。

「キツネェエエエッ‼」

 が、効果のほどは芳しくなく、一時的に萎んだ複頭もしばらくすると復活する。

 ――それでも、宙を跳ねる青は躍るように自分の手を振り、相手の目を覚まさせるための足を止めない。

 青の人影――雷華らいかは、舞い狂っていた。

 音々のメロディに、歌に載り、沈みかけた夕陽を背負い、舞い続ける。

 そんな雷華の姿が、音々にすべきことを照らしてくれる。理屈も、理由もわからない。

 それでも音々の音楽を、雷華は必要としてくれている。なら、音々が歌う理由は、それだけでいい。

 そうしてまた、巨頭が一体、雷華の乱舞をすり抜けて迫る。

 根拠はなくとも、自分の音楽が効くのはわかった。だから同じように、弦を押さえ、弾いた音が今度も、凶暴極まりない破滅の音波を跳ね返して――。

「――え」

 ――くれなかった。プツンと一本、銅製の弦が切れる。

 たったそれだけのことで、折り重なる音々の音楽は瞬時に色を失う。

 ここまで二曲。たった二曲といえ、音々のこれまでのどの歌唱より、命と魂を掛けたパフォーマンスだ。酷使し続けた喉は悲鳴を上げる余力さえなく、音々は己の命の終焉を悟って、最後に彼女の――パートナーの姿を一目だけでも目に焼きつけようと、目線を飛ばす。

 ――歌え。

 そんな声が、聞こえた気がした。

「――」

 見上げた音々の視界を、黒い背中が遮る。革製のライダースーツが一瞬で蒸発し、露わになった、たくましい逆三角形。その背を這う、樹の枝のように広がる朱の紋様。

 音々へ背を晒し、振り返ることもしない夜犬の長――昏の咆哮が、黄昏の空を震わす。

「――――」

 それは、逆らう配下を譴責する長としての一喝だった。

 それは、己の力不足を悔やんだ一人の男の怒りだった。

 それは、兄弟として、弟の身を案じる兄の歎きだった。

 破壊と、それを押しとどめようとする二つの咆哮がぶつかり合い、周囲に凄まじい衝撃が木霊した。

 結果、風圧に閉じられたまぶたを開いたとき、奇跡的に音々の体は無事だった。

 代わりに音々の眼前、迫る巨大な犬頭へ立ちはだかった黒い長身が、膝を突く。

「昏っ!」

 夕空から舞い降りた雷華が駆けより、その傷の深さに端正な顔を歪ませる。そんな夜犬の長に庇われたと、ようやく我に返った音々も歩を進め、その事実に「どう、して?」と疑問が口を衝いた。

「……うぬぼれるな、小童。弟の過ちを正すのは、兄として当然の責」

「アニ……オサ……?」

 ひび割れ、異質の音となった耀あけるの声がかすれる。そんな弟へ、昏は震える手を掲げ、かろうじて威厳を保ったまま命じる。

「耀……御前を、夜犬の長とする」

 途端、昏の体躯から光のように朱の線が伸び、異形に変わり果てた耀の体を駆け巡った。いつしか集結していた夜犬の群れから遠吠えが一つ、また一つと上がり、折り重なる夜犬たちの悲しく荘厳な重奏に伴い、膨れ上がった耀の巨躯を鎮めていく。

 そうして昏とよく似た、人の似姿への継承を見届け、先代の長の体がぐらりと地に着く。

「昏! いま妖力を――」

『ならぬ……。おぬしの蓄えは、いずれ必要となる』

「――っ。それじゃ……」

 人の形を取れず、線の細い大型犬の姿に還った昏の頭を膝に抱き、雷華が身を震わせる。その色づいた頬を伝う涙が滴り、霞み始めた昏の輪郭に波紋を描いた。

『ああ。均衡は崩された。じき、狭間の刻が伸長し、やがては闇が世界を――』

「昏っ!?」

「兄長‼」

 声なき昏の声に、人の形を取った耀が無理にでも妖力を送ろうとする。――が、暴走によってこちらもほとんどの力を使い果たした耀は、ふらつく体を仲間の夜犬たちに支えられてやっと立っている有様だ。

『耀……』

 すでに頭を残して体の大部分が消滅しかけた昏が、残りわずかな力を振り絞って弟の名を呼んだ。

「はい、兄長」

『空狐やその他のものたちと、力を合わせろ。真の使命を、わすれるな』

「……御意。必ずや、均衡を取りもどしてみせます」

『兄弟たちを……たのむ、ぞ』

 言い残し、夜犬の長だった超常の存在が一体、完全に消失する。そこに何の痕跡も残さず、砂粒のように解けた夜色は、雷華の手にも残らない。

「――行くわよ、音々」

「えっ」

 立ち上がり、うつむいた音々のパートナーが手を取る。その手は冷たく、小さく震えていた。

「人があつまるわ。厄介なことになる前に行くのよ」

 貴方たちも早く、と夜犬たちを急かす雷華。

 そんな雷華に、新しい長――耀は、焦点の合わない目を向けてきて。

「貴様……この期に及んで逃げるつもりか。盗んだ〈天穹の麝香じゃこう〉を返せ!」

「盗んでないわ。わたしは舞っていただけ。舞っていたら、匂いが勝手に染みついたの」

「その舞が、遙かなる蒼穹を失わせたのだ! 貴様が麝香を溜めこまねばっ!」

「盗んだって……雷華、さん? どういうこと?」

 事情を飲み込めない音々の問いへ、いつだって応えてくれたパートナーが沈黙を返す。逸らした視線は暗に、罪を認めているように沈んでいた。「あとで説明する」と強引に遮り、雷華は、三角耳を伏せて夜犬たちに向き直る。

「――ムリよ。香は、わたしの浴衣に織りこんである。わたしが存在する限り、ほかのだれにも手出しできないし、消えもしない」

「なん、だと……!?」

「わたしたちの姿はもう、大勢に見られてしまったわ。これ以上の混乱は、事態を悪化させるだけ。昏の覚悟をムダにする気、耀? 貴方たちの力は、これからもっと必要になる」

「はぐらかすな――ッ」

 パンッ、と乾いた破裂音が、近づきつつある緊急車両のサイレンを貫いて、ホームに響き渡る。頬を張られ、とっさに耀が怒りを身に宿すが、それが塩のように傷んだ体にダメージを与える。

「しっかりなさいっ! 貴方が夜犬たちを率いていくのよ! 長の使命がどれだけ重いか、貴方だってわかるでしょ。昏の意志を継ぐ気なら、すべきことを見失わないで」

「――くっ」

 言うなり今度こそ、雷華は身を翻して駆けだした。

 尾を躍らせ、光る浴衣を風にはためかせて疾走する。その涙は、後を引くように滴り、茜色に照らされたアスファルトへ、小さな染みを作る。

 かろうじて振り返った音々の目には、短く咆えて逆方向へと、駆けていく夜犬たちの姿が映っていた。跳躍し、夜色の犬たちが紺青の空に消えていく。

 ――遠く、音々が行くはずだった方角から、歓声と音楽の音色が聞こえた気がした。


 その七夕の夕暮れ、世界は、青空をまとった舞い手と、その舞いに音を鳴らす一人の少女の姿を見た。

 ――それは、直に訪れることになる、長い長い、黄昏の始まりだった。



《了》

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蒼天の織り姫 一奏 〜舞狐の願い〜 ウツユリン @lin_utsuyu1992

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