第三片

 売れないうちは、歌手シンガー作詞家ソングライターもステージを降りれば、ただの人だ。

 当然、食いぶちは自分で稼ぐし、破格の安値とは言え、毎月の家賃も耳を揃えて納めなければならない。

 それが御田音々みたねねの、自分に課した約束だ。

「――ふんっふんっ~♪ おおきにぃ~」

「勤務中だ。お客の前で鼻歌はやめろ。あと、意味不明な関西弁もだ。おまえ、西の出だろうが、御田」

「あー店長! いま、あたしの地元バカにしましたね! 山と人情しかない、ぶちええとこだって」

「だれもそうは言っていないし、それを馬鹿にしたとは言わないぞ、御田」

 レジの保温器へ、香ばしい芳香を漂わす四個入り唐揚げの補充をしつつ、冷静極まりない突っ込みを返してくる店長。普段なら、「マジメですねー、店長」と音々が返すところだが、上機嫌に客を見送った今日の音々は一転、「みんな見てくれるかな」と珍しく、笑顔に影が差していた。

「なんだ? 配信チケットでも送ればいいだろ。まさか、おまえのところはブロードバンド環境もない未開発の――」

「ネットくらいあるっちゃ! そうやなくて……」

 言いよどんだ音々を前に、保温器の扉を閉めた店長が小さく眉根を寄せる。

 店で非正規社員――アルバイトとして、御田音々を雇ったのが約二年前。

 入ったばかりの高校を休学し、シンガーソングライターの夢を叶えるべく、上京した音々が提出してきた履歴書は、当然というべきか真っ白に近かった。

 それでも店長が採用を断らなかった理由は、恩のある〈乙雅照荘〉大家が身元保証人を務めていたのもさることながら、面接で彼女が言い放った一言にある。

 ――あたしは、シンガーソングライターになるんです!

 だから何だ、と店長は即座に言い返した。

「なりたい」と口にするのはだれでもできる。

 だが、そこから「なれる」までに立ちはだかる壁は、果てしなく高い。そのことを、頭の隅へ追いやったはずのグローブを置いたほろ苦い経験が忠告してきていた。そもそも、コンビニ店員の採用と、己の目標宣言には何ら関連性が認められない。

 そう理詰めで論破を試みた店長へ、拳を握り締めていたそんな少女が投げ返してきたのは、だが混じりっ気なしのストレートだった。

 ――デビューしたら、お店の前で歌います!

 不覚にも、笑ってしまった。

 プロになったからといって、栄光の道が延びていると限らない。むしろ、そこから本物の地獄が――落ちればすぐ切り捨てられる競争が、始まる。

 だからだろうか。

 気がつけば、店の制服を渡している自分がいた。――この、己の目標を一片たりとも疑わずに進み続ける少女に。

 そうして進んださきに、彼女の豪語した未来が現実となるのか、見たくなったから。

 ――その未来を目前にしながら浮かない顔をする姿に、つい、冴えない冗談でも飛ばして普段の彼女を取り戻してほしいくらいには。

「――あたし、約束したんです。この夏フェスが終わったら、帰るって」

「……なぜだ? 仮にも国内最大級の祭典なんだろう? おまえに興味をもつ物好きな人間もいるかもしれない。そこから次のマウンドにでも――」

「ダメですっ! ホントは、春までには帰るって約束してたんです。でも、フェスの出演が決まったから、あたしが無理言って……だから、決めたんです。一度、帰ろうって」

「――待て、御田」

 うつむき、心持ちを吐露するアルバイターの肩を、気づけば店長はつかんでいた。

 そうして客の目と、ハッと上げた彼女の目も気にせず、湧き上がる怒りをそのまま、言葉にしてぶつけていた。

「ここで諦めるのか? 目の前にチャンスが来ているんだぞっ!」

「や、約束だから――」

「おまえが逃げたいだけじゃないのか?」

「――っ」

「おじけづいたんだろう! 容赦ない目で見られて、そのまま見向きもされなくなるかもしれない。自分の努力が無駄だったと、そっぽを向かれるのがな!」

「――見苦しいな」

 唐突に掛けられたその低い声に、店長は客の冷やかしかと、否定の言葉を続けようとする。――が、素っ頓狂な声をあげたのは、アルバイターのほうだった。

「わわわ、ワンコっ?!」

「……貴様ら人間の常識では、それを不躾と言わないのか?」

 そう鋭い眼光を伴い、ドッグフードを山盛りにした買い物カゴを、体格のいい男性客――犬上こんは、レジ台へトンと置いた。

「す、すみません……で、でも」

 わずか半日前に殺意を向けてきた相手が、今はフライヤー商品を眺めて迷うように吟味している。二メートル近い体躯はそれこそ昨日の紋様も長い尾もない、ライダースーツに身をつつんでいるが、黒々としたその眼だけは変わらず思慮深い光を湛えている。

「御田、顔見知りか?」と店長に尋ねられても、どう答えてよいか音々は言葉に詰まる。まさか、宙を飛び、嚙みつかれそうになった犬の化身、という訳にもいかない。

 そんな戸惑う音々を見もせず、だが助け船を出したのは超常の存在、夜犬たちを率いる長の言葉だった。「唐揚げパック一つ」と、浅黒い指を立て、

「そちらが勝手に、われらの縄張りに入ったのだ。――案ずるな、小童。いまは、買い物に来ただけだ」

 昨日の約束――今日の夕方までは休戦、ということを犬上は言いたかったのだろう。だからといって、そう易々と信じられるほど音々もウブではない。都会に来て痛感したことだ。

 それに何せ今は、頼みの綱の雷華らいかがいない。逃げ出せる距離を取りつつ、音々は買い物カゴをレジに引き寄せた。

「失礼しました、お客様。当店のスタッフがご無礼を――」

「勘違いしてくれるな、人間。見苦しいのは、貴様だと言ったのだ」

「なっ――」

「誓いは護らねばならぬ。それを夢だの機宜だの、己の都合で曲げるなど、言語道断」

 きっぱりと考えを切り捨てられ、唐揚げを手にした店長は驚きと怒りのあまり、二の句が継げない。

「――」

 犬上の言葉はそのまま、黙々と会計の手を進める音々へ、キャラクター柄の手提げバッグと共に投げ掛けられたものでもあり、否が応でもレジを操作する手が震えた。

「チャンスは何度もあるものじゃないんだぞ! みすみす逃す馬鹿がいるかっ!」

「戯言だ。課した使命は絶対。ましてや己自身が課したのなら、なおのこと。妨げるものは何であれ、排除する。千年空狐だろうとな! そういう誓いを全うせんとする者を、唆す貴様が見苦しいのだ」

「――っ! あんた、なにが言いたいっ!」

「店長っ」

 つかみかかりそうな剣幕の店長の手から、かろうじて唐揚げを救いだし、音々が間に割って入る。その表情から先までの憂いは消え、強い意志の光が犬上を射貫いていた。

「あたしは、夢を諦めたわけじゃありません」

 店長の指摘は、音々の図星に限りなく近かった。

 音々は確かに怖かった。

 ステージに立ち、自分の信じてきた音楽をぶつけて反応を知る。それは夢見た舞台でもあり、同時に審判の場だ。

 ブーイングを浴びるならまだ、いい。それは少なくとも"聞いて"くれた結果だ。

 けれど、聞いてもくれなかったら? 席を立ち、遠隔の客のアバターまで次々、ログアウトしていったら?

 その光景を前にしてなおも歌い続ける自信が、音々にはなかった。

「だからって押しつけもしません。そんなの、使命じゃなくて、ただの鎖じゃないですか」

 犬上の言い回しはわかりづらいが、要は「約束は守るべし」と言いたかったのだろう。それも、帰郷に迷いのあった音々には突き刺さる言葉だった。

 けれど、その迷いを断ち切る名前も、夜犬の長は言ってくれていた。

「――あたしは、あたしたちのやり方でやります」

「……ふんっ」

 挑戦状を叩きつけるように音々は、犬上のトートバッグを持ち主へと突き返す。そうして受け取り、鼻をならしたライダースーツの客は身を翻すと、

「日の入りまでだ、小童。言っておくが、街を出ても無駄だ。恨むなら、己の不運を嘆くがいい」

「待てよ! それはどういう意味だっ! 脅しか、おい!」

「店長! だいじょうぶです。気にしないでください。あの人、ああ見えて義理堅いですから。ワンちゃんですし」

「――は? 御田、おまえやっぱり何かあったんじゃないのか?」

 眉間にシワを寄せ、音々の身を案じてくれるアルバイト先のコンビニの店長。その店長にはいつか、打ち明けなければならないと、音々は自身の胸に誓う。

 けれど、それは今ではない。

 今はただ、押してくれた背を前に進めることが、その恩返しとなる。伝えるべきは、ただ――。

「――ありがとうございます、店長」

「よし。いまから行けば、近くの精神科に間にあうかもしれん。早退して――」

「じゃ、お言葉に甘えて、今日は上がらせてもらいますね。そうだ! 店長、この期限切れのいなり寿司、いただいていいですか」

「……あとで私が払っておく」

 ペコリと頭を下げるアルバイターへ、もはや店長が入れる突っ込みも、掛ける言葉も見当たらない。ただ、いそいそと、鼻歌を歌いながらやりかけの作業を手早く済ませていくその姿に、強肩の名残を残す自分の肩が下がっていくのを感じる。

「――御田」

「はい?」

「それは、うちの店の前で歌う用の新曲か?」

「――」

 一瞬、声をつまらせたレジ係の顔が、真昼のように明るい笑顔を宿す。

 そうして彼女の止まらない音楽への情熱を浴びせられながら、店長は、店を預かる者としての仕事の手を止めない。

 この店舗の店長は、自分が務めなければならない。

 そうしなければ、いつか彼女がステージを必要としたときに、すぐに許可を出してやれないだろうから。


「――暗くなんの、早くね?」

「――んだな。まだ七月だぜ?」

 電車待ちの、音々と同年代とおぼしい高校生たちが、そう気怠げにカバンを揺らしながらぼやいていた。

 時刻はまだ、ティータイムを過ぎたころだというのに、つられて空へ向けた音々の目には、ほのか茜に染まりはじめた天蓋が映っている。西の摩天楼の合間から降り注ぐ太陽の熱はうだるようだが、空だけが色づき始めていた。

 まるで、青空が徐々にその"青"だけを少しずつ、失っていくようだった。

「青空みてないなー、最近」

 そうつぶやいた音々の声は、ホームへ滑りこんできた銀の長方体――西京外環モノレールの引き連れた風切り音に、さらわれていく。

「――ん」

 ――ふと、どこかで見た淡色の花びらが、視界を横切っていた。

 ついでに、落とした視線の先に立っていた人影に目を奪われて。

「――あれ!?」

 開いた車両のスライドドア。乗客もまばらな目の前のモノレールの一両から、カツっと、下駄の涼しげな音色がホームの硬い地面を打つ。

 出会ったときと同じ、燐光を発する青空の色の浴衣。

 見事としか表現しようのない着こなしを、今の空の色――茜色のケープが肩から覆い隠し、腰まである土色の長髪が午後の間怠い空気を振り払う。

「おかえり音々。迎えにきたわ」

「ら、雷華さんっ?!」

 降り立った人影――羅狐らこ雷華は涼風のようにそう告げると、何の躊躇いもなしに音々の手をつかんで引っ張っていく。

 その、音々より拳ひとつぶん高い背には、むき出しの相棒が斜めに背負われていて。

「あたしのギター!? 雷華さん、どうしたんですか!」

「出番が早まったの。一時間後には、ステージの上よ」

「ええっ‼ またプロデューサーさんが言ってきたんですか?」

 昨晩も、一方的に予定の変更を告げてきた、夏フェス主催者側の責任者。大規模なイベントに予想外の事態がつきものであるくらい、これが初出演の音々にも理解できる。ましてや、音々たちは唯一といっていい、アマチュアのイレギュラーなアーティストだ。

 とは言え、前日に出演を断られるような、そんなイレギュラーは身に堪える。

 悪夢のようなプロデューサーとのやり取りが思い出され、音々は思わず、思いっきりしかめっ面をしてしまった。

「いいえ――」

 意外にも、駅内をスイスイと行く雷華の整った顔は横に振られた。その顔の後ろに担がれた音々のギターもまた、案外、和装とよくマッチしていて違和感がない。

 それは音々だけでなく、構内にいた人々の目も確実に集めていて、「あのふたりって今日のフェスの?」という声まで音々の耳に届く。

 何やら目的地を探しているらしい当の雷華は、キョロキョロと辺りを見回しながら、次の言葉を紡いで。

「今日は、わたしがお願いしたの。……勝手にごめんなさい、音々。バイト中に連絡するのはよくないとおもって」

「……待ってもらえませんか」

 やや強く、雷華の手を振り払うと、パチクリした目が音々を振り返った。

「どうしたの?」

「雷華さん、説明してください。なんでここにギターを持った雷華さんがいるんですか。出番を早くしたって、どういうことですか!」

 まるで責めるように問いただす自分が間違っていると、音々にもわかる。

 そもそも、折良くこの新しいパートナーの雷華に出会っていなければ、音々の手からこぼれ落ちていたチャンスだ。礼を言うべきはこちらで、頭を下げられる筋合いも責められる謂れも、雷華のどこにもない。

 それでも、雷華に背負われた相棒――自分があくせくと働いて買ったアコースティックギターを見たとき、何かモヤモヤしたものが音々の胸を衝いて。

「――あらあら。わたし、年甲斐もなく、はしゃいでいたようね」

「え――」

 ――が、強い音々の語気に雷華は傷つくどころか、上等な紙袋を持った左手をおかしそうに口元へ当てて笑いを転がしていて。

「――ぐぅ~」

「ふふっ。とりあえず、ベンチで腹ごしらえ、しない?」

「……はい」

 口より正直な腹の音に、頰を赤らめてとりあえず音々はうなずいた。


 雷華の差し入れは、西京でも屈指の焼き肉専門店が誇る特上ステーキ弁当だった。

 並んでも買えないとウワサされる超人気店の逸品を、パートナーが如何な手段で手に入れたのか、音々には見当もつかない。が、とにもかくにも、朝にバイト先の店長から無理やり食わされたおむすび二個以来となるジューシーな肉は、大変に旨かった。

「おいひぃ~!」

「喜んでもらえてよかったわ。これで、ゴキゲンも直してくれるといいんだけど」

 言って、雪白の指を伸ばし、音々の頬についた米粒を取り攫っていく雷華。その姿は大変に衆目を集める麗しい光景だったものの、されている本人――音々は、チクリと痛む胸に軽い咳払いを重ね、殊勝にこうべを垂れた。

「すみません、雷華さん……。あたしが勝手に勘違いして、怒鳴っちゃって」

「いいのよ。元々、巻きこんだこっちが悪いんだから」

 雷華が『ネネ&ライライ』のタイムテーブルを早めてくれたのは、他ならない音々のためだった。

 昨夕、恐るべき夜犬たちに八つ裂きにされかけた音々を庇ってくれたのは、颯爽と割って入ったその雷華だ。彼女が作ってくれた猶予は、一日。つまり、今日の日没まで。そのために、日没ギリギリだった出演予定を繰り上げるよう、あのプロデューサーに雷華が掛けあってくれたのだ。

 正直、その後に自分がどうなるのか、音々はなるべく考えないようにしている。夜犬の黒い体躯を思い出すと恐怖で体がまだ、震えていた。

 雷華に訊いても「だいじょうぶよ」とはぐらかされるばかりで、一向に教えてくれる気配がないが、不思議と、音々はその言葉を信じられた。出会って一日も経っていない相手にどうして、と音々にも理由が説明できないが、とにかく雷華がそう言うならきっと、問題ないのだろう。

 その、頼もしく美しいパートナーは今、音々の渡した賞味期限切れのいなり寿司を頬張っていて。

「……あの、雷華さん。やっぱりお弁当、半分こしませんか。このままだとあたし、罪悪感で死にそうです」

「嫌よ。このとこ、食が細ってるんでしょ? 大家さんに聞いたわ。しっかり食べないと、持たないわよ。それと、軽々しく"死ぬ"なんて言ったらだめ、音々」

「え……。どうしてですか」

「ヒトってね、逝くときはあっさりなの。どんなに大切で、生きていてほしいっておもってても、そんなのお構いなし。だから、生きているうちは、それを否定するようなこと言っちゃだめ」

 雷華のロジックは正直、よくわからなかった。

 そもそも、うら若い花の女子高生の音々が、"死"を真剣に考える機会はそうそうない。実家で飼っていた愛犬が天寿を全うしたときくらいだ。――わからないが、その言葉には不思議な重さが伴っていて、音々は素直に顎を引く。

「はい、そうします。じゃ、雷華さん、お弁当――」

「わたし、ベジタリアンだからいらない。おいなりさん、美味しかったわ。ごちそうさま、音々。音々も残さずに食べて。食べ物を粗末にしたら、死ぬよりひどいバチに当たるから」

「いま、言っちゃダメ、って言ったばかりじゃないですか雷華さん……」

 頰を膨らます音々を軽く聞き流し、雷華はベンチに立てかけた音々の相棒――ウッドの美しいギターを膝に乗せる。そのままコードに指は掛けず、慈しむように白木のボディを撫でると、照れ隠しのように頬を緩めて言った。

「音って不思議ね。わたし、音が匂いでわかるんだけど、おなじ匂いのする音って案外ないの」

「においっ?! それって、どんな感じなんですか?」

「う~ん。そうね……」

 きれいに弁当を平らげ、合掌した音々が興味津々に身を乗り出して訊いてくる。

 顎に指を添えてしばし考えていた雷華が、その指をつーっと、正面へ向けると、

「たとえば。あのモノレールのモーター音は、風の匂いがするわ。そよ風じゃなくて、木枯らしのね。ほら、ずっと同じところを走ってるじゃない? それにヒトを連れ去ってしまうし」

「でも、電車だってそうじゃないですか? ガタンゴトンも、風のにおいがするんですか?」

「いいえ。ぜんぜん違うわ。電車の音は、山の匂い。この辺に山なんてないけれど、たぶん、造られた場所が山に近かったのね。路線で匂いが変わるから」

 そうして雷華は次々、指さすものたちの香りを挙げていく。

 駅の自動案内音声は、調整が施されていて、下流の石の匂い。

 モノレールが去っていくときの風は、入道雲の香りがし、逆に、滑りこんでくる風は、波の匂いがする。

 人々の話し声は、合わさるとミカンっぽい香りがするが、そこに怒りやネガティブな感情が混ざると、饐えた――言葉にしたくないような香りになる。

 雷華の説明のほとんどはとてつもない比喩のようで、音々は実感が湧かない。冗談のようにも聞こえるが、その夕陽を浴びる横顔は真剣だ。

 ――だから自然と、音々は問いかけていて。

「じゃあ、あたしは? あたしの音楽は、なんのにおいがするんですか?」

「――青空よ」

 いっさいの躊躇いも、考える時間さえも作らずに、そう雷華が即答した。

 音々の瞳に映ったその真っ直ぐな目は、言葉に詰まった音々の背を押すようにうなずいて繰り返す。

「空はね、願いの匂いがするの。不思議と甘くて、でも鼻をつく。クサいのは青い証拠ね。音々のギターも青いし」

「く、クサいんですか? あたしのギター?」

「伸びしろがある、という意味で。もともと、青い匂いはすごく珍しいのよ。そして貴方の声は、高く伸びて澄んで、空の匂いがする。合わさると青空の匂いになるのは、わかりやすいんじゃないかしら」

「わからないですよっ……! でも、なんか、くすぐったいです」

「そうね。だけど、これは忘れないで。――歌い続けて、音々」

 心を見透かしたような、雷華のその嘆願。その願いを宿した真摯な視線を受け止めて、音々はとっさに肯定できない。

 そのことが、振り払ったはずの自分の迷いをあらわしている気がして音々を焦がす。

「貴方の歌には、力があるわ。ヒトビトの心に届くだけじゃない。いずれ、愚かな野狐が冒した間違いを、貴方の歌が救って――」

 ――刹那、音々の視界を"青"が覆い隠した。

 続く体の浮遊感に聴覚が、耳鳴りと獣の咆哮を伝えて。

「――耀あけるっ! どういうつもり? 昏の差し金かしら」

「兄長の名を軽々しく口にするな――化け狐ッ‼」

 夜の闇を、そのまま切り抜いたかのような深い黒の四肢。細いながら人外の力を発するその四本足が霞み、直後、緋色の舌をちらつかせた大顎が音々の眼前に迫る。

 漆黒に、銀の光沢を返す鋭い牙の羅列が、やけに映えて美しささえまとっていた。

 その、夜犬の顎を、すらっとした脚が無理やり、閉じさせて――。

「行って、音々!」

 真下からの強力な上段蹴りを夜犬――曜の顎へ華麗にヒットさせ、引かれた音々の手を雷華が押し返す。立ちあがり、ようやくそこで周囲を見回す余裕が生まれた音々は、衝撃のあまりに言葉が出ない。

 雷華と、今しがたまで腰掛けていた金属製のベンチが、溶けていた。

 高温で熱されたような跡はないまま、まるで意図を持ったように溶けた金属がせり上がり、鉄の牢獄を作り上げている。とっさの雷華の回避行動がなければ、二人とも囚われていただろう。

「雷華さんっ、腕?!」

 そんなまたしても助けられた形となった音々は、硬いパートナーの声に横を見やって、今度こそ顔から血の気が失せる。

「だいじょうぶ。ちょっと浴衣が破れちゃったけれど」

 だらりと垂れた雷華の左腕。肩から裂けた青い生地の下で、雪白の肌を鮮やかな赤が筋を描いていた。その力が抜けた手にはしっかりと、音々のギターが握られ、上がった息のまま雷華が楽器を突き返してくる。

「……あたしのギターのために」

「大切なものから目を離しちゃだめ。さ、行って! 出番までには追いつくわ」

 正面、二人から十メートルと離れていないところで、夜の色をした大型犬がむっくと体を起こし始めていた。周囲にはやはりその禍々しい姿が見えていないのか、大きな混乱はない。が、形状を大きく変えてしまったベンチへ視線を移し、首をかしげる観衆も見受けられる。

「……これ以上、貴様に好き勝手はさせんっ。改心せんというなら、力づくで滅するのみッ!」

「貴方ではどう足掻いてもわたしには敵わない、耀。夜になったら、また追いかけさせてあげるから――」

「――ほざけッ‼」

 咆え、再び夜犬が跳躍する。――が、その狙いは立ちはだかる浴衣姿ではなく。

「手間が省けたぞッ、人間!」

 先に行けと、雷華には言われた。――けれど。

「そんなこと――」

 怖かった。迫る黒い影と獰猛な無数の牙。――けれど。

 彼女が傷つくほうが、もっと怖かった。知り合ったばかりの不思議な人――雷華。

 彼女はきっと、生きる世界も見ている世界も、音々とは違う。――それでも。

 雷華のいない世界なんて、嫌だ。――だから。

「――しないそ‼」

 それは無意識の行動だった。雷華が命がけで守ってくれた大切なギター。

 その弦に指が掛かり、ポン、とひとつの音色が弾かれる。それはいつも、音々が演奏前におこなっていたルーティーンだ。特段、意味はないが、これから音楽と――自分と向きあうときの合図にしている。

 その合図が、普段より強い響きとなって、夜犬の動きを鈍らせる。


「――青空の、匂い?!」

 一音だけ紡がれたギターの音。一日前に聴いたその単音が、奏者の強い想いに共鳴し、空の欠けらをひらりと顕現させる。

 距離の空いた音々へ届けるべく、再び雷華は自らが織り成した空色の生地へ手をかけていた。

 千年にわたる妖力を編みこんだこの生地は、雷華の体の一部も同然だ。

 だから雷華の意図によって、浴衣は鞭のように伸びて、長の指示に逆らった夜犬の一匹を絡め取る。が、そうなれば必然的に雷華の正体――三角耳と尾を持つ、その人外の姿がさらされることになる。これまで、人目に触れないよう留意し続けてきた努力は、すべて雫に帰するだろう。

 それでも構わないと、雷華は腹を決めた。

 ――今、ここで彼女を失うくらいなら。

 あの日、〈彼〉を救えなかったように、もう、大切なものを失うわけにはいかなかった。

 ――たとえ、彼女の記憶にその日々が刻まれていなくても。

 ――三人で過ごしたあの日々は、雷華にはかけがえがない。

 ――けれど、固い雷華の決意が実行に移されることはなく。

「――ブルー……スカイ……」

 一直線に突っ込んでいた耀の体躯がピクリと跳ね、照準をわずかに逸らせて音々の傍をかすめていく。駅のホームの床に鋭利な爪が傷跡を残し、身を翻した夜犬が、今度は背後から飛びかかるべく背を屈め――、

「――」

 また、音色が弾けた。

 今度はひとつの音が連なり、流れるようにメロディが駆ける。

 夕空に響く、そのメロディへ澄んだ歌声が、載る。


 音々の喉が自然と奏でたのは、このあとのフェスティバルで披露するはずだった一曲。時間から考えてもう、これからステージに立つのは難しいだろう。

 上京し、アルバイトと音楽活動を掛け持ちし、やっとの思いでつかんだステージ。終われば音々は故郷へもどり、自分の道を――現実と、突きあわせて考える場面に否が応でも立ち会うことになる。

 けれど、不思議と、後悔の念が湧き上がることはなかった。

 コードを指が弾き続け、自分の紡いだ音が、詞が声を震わせる。――それだけで、音々は楽しかった。


「蒼穹の……青き……」

 その香りを、人間はおろかあらゆる生物より――イヌ科を含めて――鋭敏な嗅覚に感じ取ったとき、耀の意識も体も、刹那の空白を得ていた。

 宵の番犬たる夜犬にとって、その香りは猛毒だ。鍛え、研ぎ澄ましてきた意志を問答無用に奪い去り、香しいその芳香をただ追い求める傀儡に成り下がる。

 だが同時に、その香りは、保たなければならない世界のバランスを調節する秘薬でもあった。

 光と闇。昼と夜。蒼穹と辰宿。

 均衡によって成り立つ世界のバランスを維持する。その一翼を担うのが、夜犬の使命だった。

 ――が、いつしか自分たちのその使命は、失われつつある均衡を取りもどす、秘薬の追跡に、独占し、手放そうとしない盗っ人の追跡に、追われるようになった。鼻が利くからと、誇り高き夜の守護を外れ、地を這いつくばる、それこそ野犬の如き日々を幾星霜と重ねた。

 それもこれも、すべては――。

「――盗っ狐めッ‼」

 惚けていきそうな意識を奮い立たせ、耀は、自分たち夜犬の在り方を根本から変えてしまった存在――羅狐雷華へ、その沸き立つ怒りの眼を向けた。

 自分の中で何かがぐにゃりと崩れ、急速に冷え固まっていく。

「――ホ……ロベ‼」

 意識の隅で、かすかに残る意志が過ちを正さんと叫んでいたが、それも新たに形成された目的――破壊衝動へ、容易く塗り替えられていった。あとに残されたのは、夜犬としての誇りも、慕う兄長の制止を聞き入れなかった罪悪感の片鱗もない――異形のモノだった。


 夜犬と羅狐――雷華は、人の位相を超える存在だ。

 ゆえに、その姿を目に捉えられる人間は少ない。

 雷華の特徴的な三角耳や毛並みのいい尾が、感情の昂ぶりに呼応し、出現するように、漆黒をまとう夜犬もまた、静々と人目につかないことを好む。

 それは、感情が、世界のバランスへ影響を及ぼしかねないからだ。

「――グォオオオオッ‼」

 ゆえに、忠実な人間の友としての姿形を崩し、赤黒い巨体を膨らませていく夜犬――耀の怒気は、すでに現実世界を侵食し、気づきはじめた周囲の人々の混乱が伝わってきていた。

「耀……。貴方を、そこまで追いつめていたというの……っ」

 自我をなくし、憎しみに満ちた怒りの塊と化した耀へ、雷華の言葉は届かない。

 今や、駅ホームの天井へ迫る勢いで巨大化する負の塊は、無数の醜悪な犬の頭部を生やし、その倍の数の緋色に光る眼で雷華を睨めていた。

 このままでは、たかが外れた耀の力が弾け、周囲もろとも消滅しかねない。純粋な怒りのパワーはそれだけ、危険だった。

「――っ」

 と、異形と化した耀の頭部の一つが、砲門さながらに大顎を開ける。吐きだされるは、物理法則さえねじ曲げる破壊の音色だ。不可視の波状攻撃は拡大しながら一直線に雷華を押しつぶさんと――。

 ――だが、別の音色が、その恐ろしい音の攻撃を打ち消す。

 ――それはまるで、雨雲を貫く光の矢のような音色だった。

「音々っ!?」

 逃げまどう人々の中、アコースティックギターを抱えた一人の少女――音々が、己の音楽を紡いでいた。

 昨夕、初めて雷華が耳にし、たとえようもなく惹き寄せられた、あの語りかけるような、曲。

 途切れさすまいと、終奏アウトロを詰め、次に彼女が弾き始めたのは、夜の神社で舞った、あの曲だ。

 リズムの心地いいそのパフォーマンスは数を増やし、宙を舞う空色の欠けらを引き連れ、四方へ破壊をまき散らかさんと咆える無数の犬頭を押し返していく。

 それは、力比べなどというような不粋なものではなかった。

 それは、鳴り狂う音階を己の音で調律し、新しいメロディを生み出すセッションだった。

 まぶたを閉じ、耳をすませば聞こえてくる、音楽の対話だった。

「貴方を――ひとりで戦わせは、しないっ!」

 雷華に迷いはない。青空の浴衣を覆い隠す夕色のケープに指を掛け、一気に引き剥がす。

 黄昏時にひときわ強く、青く輝く雷華の浴衣が燐光を発し、下駄を小気味よく鳴らして跳躍する髪が、膨れ上がった尾が、風になびいた。

 そうして舞い上がった雷華は、自分が笑っていることに気づく。

 恐怖から気が振れたのではない。

 奇妙な出会いが、可笑しかったのでもない。

 ただこの音色に合わせ、舞うことが楽しかった。

 彼女の、青空の匂いのする音色の元で舞えるのが、ただ楽しかった。


 ――そして、千年空狐の"舞闘"は始まる。

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