第二片

 さすがに、限界だった。

 体力がつかなければ、夢もへったくれもない、と言っていた母の言葉が思い出される。これでも陸上部だったのだが、進路を歌手シンガーソングライターに切り替えてから怠った運動のツケがこんな形で回ってくると、破裂しそうな胸を押さえる音々ねねは想像もしなかった。

「まっ……て」

「スタミナないのね。たかだか一里も走ってないわ。ライブのときに息が切れてたら、かっこ悪いわよ? 音々」

「一里っていくら、なん……そ? なんで……ライブの、こと……?」

 ようやく止まってくれた相手の、清々しいまでの辛辣な評価をドクドクと脈打つ耳に聞きながら、石畳の地面に音々はヨロヨロと腰を落とした。

 休めるならどこでもよかったが、ひんやりした石の感触が心地いい。見回すと、左手奥に暗闇にひっそり佇む社が目に入った。さわさわと木の葉の擦れる音が耳へ届く。

 一瞬、違う世界に迷い込んでしまった錯覚に襲われたが、手元に目を落とせば、見慣れた横倒しのひょうたんが普段通り、肩へ掛かっている。とっさに弦へ手を掛け、切れていないことを確かめて胸をなで下ろす。明日は本番だ。その前にギターの弦が切れていたら、縁起でもない。

「――それより。一曲、弾いてくれないかしら」

「え」

 ホッと息をつく音々の隣で、そんな頼みが耳を衝いた。

 振り向き、依頼主――自分を助けてくれた不思議なその人を目に捉え、音々は改めてその凛とした佇まいに呆けてしまう。

 月夜に照らされた、細身の浴衣姿。

 先まで自ら光輝いていたと音々が思っていた空色の生地は、今や青白い月光を浴びて、透き通るように光を反射していた。重なるように広がる水紋の柄が、本物の池面のように揺らめいて見える。

 そして流れるような土色の長髪。茶でも、金でもない、ひと目で大地の色だとわかるその髪を見て、まるでギターの弦みたい、と音々は思った。――けれど、そこには何か、足りないような気もして。

「ケモミミ……」

「いまもここにあるわ。ファッションじゃなくて、天然ものよ? あれは夕暮れどきじゃないと、さすがの貴方も"見えない"だろうけど」

「それってどうゆう意味ですか? あ! さっきのワンコたちは、いったい――」

 息をついたとたん、後回しにしていた疑問たちがたちまち頭をもたげてくる。ひと呼吸でそれらを問いただそうとして、ふいに、隣人の笑い声に遮られてしまった。

 思いがけない突然の突き抜けた笑い声に、音々はちょっと馬鹿にされた気がして目をすがめてみせる。

「ごめんごめん。それ、こんが聞いたら真っ赤になるわ。下手したら、怒りすぎて大暴れするかもね。わたしでも、そんなこと言ったことないわ」

「笑えませんよ! そのコン、って、あたしを襲ってきたワン――人?」

「ええ、そう。彼が、夜犬たちの長。夜空を駆ける番犬にして、均衡を保つものたち。群れのリーダーだけが、ヒトの形を取れるのよね。でも、貴方を庇ってくれたのも、その昏よ? じゃなきゃ、今ごろ貴方は……」

 すっと伸びた両手の指で、その不思議な浴衣姿の女性は、何かをつかんで引き裂く仕草をしてみせる。ゴクリと、喉を鳴らした音々へ「冗談よ」といたずらっぽく笑った。その笑顔さえ、見とれてしまうのだからタチが悪い。

「この時代にも、わたしたちが"見える"人がいたのはビックリだけど、だからって取って食ったりしないわ。貴方は、たしかに良い匂いがしたけれどね」

「……ぜんぜん、わからない」

「でしょうね。知らないほうがいいことも、この世にはあるわ」

 ねえ貴方、と月夜を見上げ、女性は音々へ訊く。――その横顔は、まるで寂しさを押し殺したように儚げで。

雷華らいか、に聞き覚え、あるかしら?」

「ええっと……。ない、と思います」

「そう」

 その一言はいっそ清々しく、身に覚えがない音々の心がなぜか、締め付けられるように軋んで痛い。

 この人は、いったい――?

「――名前よ」

「え?」

羅狐らこ雷華。それが、わたしの名前。ただの野狐に〈彼〉がつけてくれた名前。おかげで、こんなに生きてしまったけれど」

「あなたは、何者なんですか――」

 という音々の質問は続かない。その問いは、ズボンのポケットに差しこんであった、携帯スマホの着信音に遮られてしまったからだ。

「ごめんなさいっ。大家さんってば、心配しすぎっちゃ。――え」

 勝手にいなくなった音々のほうが悪い。そう自覚しつつも、予想通りの相手なら一言謝って一方的に切ろうと音々は考えていた。

 ――が、表示された名前に、気づけば「はい」と端末に耳を当てていた。

『ああ、御田さん?』

 その声は明日、音々が出演の機会を幸運にもつかんだ夏フェスの、プロデューサーのものだった。

「はい。御田ですけど」

『うん、悪いんだけど、あした来なくていいから』

「――へ?」

『出演交渉してた大物アーティストがさぁ、ドタキャンしてねぇ。まったく。んで、穴を埋めるのにべつのアーティスト探してるわけよ。んで、お試しでやろうと思ってたアマチュア出番枠、尺が消えちゃってさ』

「ま、待ってくださいっ。どうしてそうなるんですか!」

『ついでに、メジャーじゃないけどそこそこ売れてる新人にも声かけたら、けっこう集まったわけ。うん、直前で申し訳ないとは思うけどね。そうそう、お詫びってのもなんだけど、チケットあげるからさ……』

 息が苦しかった。

 西京へ上京して初めてつかんだチャンス。これでブーイングでも食らったら、潔く諦めようと、その覚悟を決めた舞台。

 それが、そもそもステージにすら上がれないなんて――。

「ねえ音々、だいじょうぶ?」

 よっぽど青い顔でもしていたのだろうか。優しく問いかけてきた彼女――雷華の表情がひどく、心配げだった。心から、音々の異変を憂いている、羅狐雷華と名乗った女性。

「あの、羅狐さん」

 その心を利用するような己の閃きに、音々の良心が小さくうずく。そんな天秤の揺れる音々の心を読み取ったように、雷華は小さく確かに顎を引いて、

「雷華、って呼んでくれたらうれしいわ」

「雷華さん。お願いがあるんです! あたしと――」

「――いいわよ。音々の頼みなら」

 ――そのとき肩に置かれた優しさを、音々は一生、忘れられないだろう。

「――聞いてくださいプロデューサーさん」

 並々ならない音々の響きに気圧されたのか、電話口から『う、うん?』と戸惑いが返る。構わず、携帯をビデオ通話に切り替え、音々は自分と浴衣姿の雷華をフレームに収めた。

「このかた……ええっと、ライライさんはダンスのプロなんです! ぶち上手なんです!」

『は、はあ。それで?』

「あたしとパフォーマンスしてくれますっ!」

『……いや、だからって』

「お願いします! 見るだけ見てください!」

『今?』と上ずった声を上げながらも、画面に映ったプロデューサーの目は雷華を見つめて離さない。

 同性の音々から見ても見目麗しい雷華だ。そんな月白に照らされた彼女がキョトンと小首をかしげ、美しい黒瞳をパチクリさせている。その姿から目を逸らすだけでも、それこそ相当な努力が必要に違いない。

 このチャンスを音々は絶対に、逃したくなかった。

「あたしと……じゃなくて、あたしのために躍ってください! あしたのフェスでいっしょに」

「わたし、踊れないわよ?」

 一転、あっけないまでの拒絶に、今度こそ音々は言葉が出てこなかった。するりと手から携帯が滑り落ちて、石畳に固い音を立てる。

 当然の答えだった。

 いくら、助けてくれたとはいえ、見ず知らずの音々に、そこまでしてくれる義理が彼女にはないのだ。事情も告げず、ただ躍ってほしいなど、虫のよすぎる話。

「……そう、ですよね。変なこと言ってごめんなさい――」

「――ダンスはムリだけど」

 境内の石畳に、叩きつけられたはずの音々の携帯端末。

 華麗な所作で拾い上げてくれたヒマワリ色のそれは、奇跡的にまだ通話がつながっていて、色白の手がさっと拭った画面には、呆けたプロデューサーの顔ときれいな月夜を鏡映しにしていた。

「雷華さん――」

「――ライライ、なんでしょ?」

 そう訂正し、彼女の手が音々の頬へ触れる。ひんやりした、柔らかい手だった。

「舞いなら、音々の役に立ってくれるかしら」

「――はいっ!」

 よかった、と微笑んだその表情を見つめる熱い頬に、ひんやりした手が心地よかった。


 ――結果、極めて特例ながら、音々たちの夏フェス出演が決定した。

 音々の情熱が伝わった、というべきだろう。けっして、月夜に舞うパートナーを呆然と眺め、パフォーマンスが終わるなり「ブラボーっ‼」と高らかに自身の携帯端末を放り投げたプロデューサーのおかげだけではない。

 折り返し、異なる番号でかけ直してきて「で、出演名は?」と訊いてきた挙げ句、連絡先を執拗に尋ねてきたそのプロデューサーに、あっさり電話番号を教えた新しいパートナー――雷華の功績も大きい。

 いずれにしても、一度は手からこぼれ落ちたチャンスを、音々たちは再度勝ち取った。

 もう手から離さまいと、諸々の細かい打ち合わせを済ませ、出演の確約をしつこいほど念押しし、そのまま新生デュオ『ネネ&ライライ』の少なすぎる楽曲あわせの時間が、夜通し続いた。

 ――そして凝縮した夜は過ぎゆき、翌日早朝。

「――御田ぁ‼ おめぇ、連絡もよこさねぇで……ちゃんと帰ったんだろうな!」

 音漏れ対策だけは完璧に施してあるアパート〈乙雅照荘〉の一室。その防音壁を貫いてなお響くダミ声が、ドアを手荒く叩く重低音と不協和音を奏でる。

 暁色の朝陽を盛大に頭頂部に反射させた、大家である。

「近ごろの夜は物騒なんだ。なんだか知らん女子おなごと走ってったのまでは見たが、女子ふたりだけじゃあ――」

「――おはよう。貴方が大家さん、ね?」

「おう?!」

 度が過ぎて驚くと、人間は固まって動けなくなる。

 まさにそのことを体現するように、振り上げた戸を叩く拳を彫刻さながらピタリと止め、大家の男性は、ドアを開けて慇懃に腰を折った浴衣姿の女性――雷華の姿に裏返った声をもらした。

 はらりと流れた土色の長髪を耳元まで――三角耳は見当たらない――かき上げ、雷華は小さく微笑むと、

「申し遅れたわね。わたしは、ライライと申します。音々の、御田音々のパートナーよ。昨晩からだけど」

「ら……パー、トナー……?」

 清廉そうな女性の口から次々に飛び出す自己紹介に、大家の思考が追いつかない。この際、明らかに偽名とわかるその名前は、もういい。

 問題は、その"ライライ"とやらが名乗った、借り主の少女との関係だ。

「ええ。あの子なら、バイトに行ったわ。駅ビル五階のコンビニよ。タフよね。夕方にはフェスがあるというのに、きのうはあんなに興奮して。歳なんて無縁だけど、一途なところは昔を思い出しちゃうわ」

「ちょいと待っとくれ、嬢さん――」

「――ライライよ」

 一転、反論を許さない鋭利な空気を雷華がまとう。数々の武勇譚を誇る大家さえ、生唾を飲み込んで「お、おう、ライライさんよ」と訂正するほどの迫力だ。

「なにかしら、大家さん」

「うちの門限は二十一時って約束だ。御田もそいつはわかってるし、これまで破ったこともねぇ。客っちゅう立場じゃあるが、ワシは子を預かっとる心づもりだ。御田に何かあっちゃあ、親御さんに合わせる顔がねぇ。ひとりで生きてるつもりだが、あいつはまだ、子どもだ」

「まるで父親ね」と、感想をこぼす雷華に、「そのつもりだ」と今度は大家も豪腕を組んで怯まない。

「これなら信じてくれるかしら」

 そう言い、雷華が襟前へ手を入れると、取り出したのはデフォルメされた犬のキャラクターが描かれた携帯端末だ。ケースの上部には小さく三角耳が突出していて、手慣れた仕草で操作し終えた雷華が、画面を大家のほうへ向ける。

「ん? ん。コホンッ、そうか。強がっちゃいるが、やっぱりさびしかったんだな、御田のやつ」

 映っていたのは、自撮りらしき薄暗い室内の写真だ。

 宵闇の中でも映える、澄んだ空色の浴衣。寝そべるその胸元に、まるで母親にしがみつく幼子のように丸まる、パーカー姿のままの音々。

 その表情は穏やかだが、閉じたまぶたから滴った涙の軌跡が、高感度なカメラのおかげで闇に浮かぶ。

「さすが父親ね。娘の寝姿は、見慣れていると?」

 からかう口調の雷華に、大家は大まじめな顔のまま、「ワシにもいたからな」と意外な経歴を明かしてくれる。

 その言葉の端々に隠せない寂寞を察し、外見からは及びもつかない年月を経てきた羅狐の雷華は、それ以上の詮索を選択しない。

 代わりに再度、携帯端末のディスプレイへ繊細な指を滑らせて、今度は別の写真を――満面の笑みでVサインを掲げる音々と、しとやかに微笑む雷華のツーショットを提示した。

「……『ネネ&ライライ』? んっ。御田らしいネーミングじゃねぇか」

「ええ。わたしも気に入っているの。ミュージックデュオ『ネネ&ライライ』、よろしくね大家さん。タイムテーブルは多少、前後するだろうから早めにチェックしてくれると嬉しいわ」

「抜かりねぇな。わかってる。チケットも取ってある。ここの連中と昼過ぎには出る」

 厚い胸板をポンと叩いて、大家は誇らしげにその上背を反らす。

「まあ、とにかく安心した」

 ――続いた安堵と心配げな声に、雷華はつい、耳を傾けてしまっていて。

「ここんとこ、あいつも硬い顔してたからな。一生懸命なんは大事だが、張りすぎた弦は、切れちまうと怖い」

「――ねえ大家さん」

 知れば、後戻りできなくなる。なぜ、音々が雷華を覚えていないのか、その理由がわかるのが怖い。

 そうして失ったときの痛みを二度と、雷華は味わいたくなかった。だからそうやってずっと、雷華は心を閉ざしてきた。

 けれど昨日、変わらない戯れを昏たちと繰り広げていたとき、雷華は、懐かしい音色に誘われてしまった。

 そうして〈彼女〉と目が合ってしまった。

 見間違いようのない、意志の強い茶黒の瞳。弾かれる音は初耳だったけれど、声音は聞き違えようもなかった青空の匂い。

 あるいは、長い長い、長すぎる年月を経てなお雷華の目が、鼻が、心が彼女を知っていたからのかもしれない。――否、知ってはいるのだ。ただ、それを見ないように背けていただけで。

 だって、知らなければあんなに楽しく舞えない。

 昨晩に舞ったあれは、雷華の基準でいえばとても人様に見せられない代物だ。音々の頼みがあったから体を動かした、その程度のもの。結果として役に立てたのは素直に嬉しいのだが、あの程度の舞いを披露するために雷華は悠久を――千年以上も、鍛錬を重ねたのではない。

 すべては、最高の舞いを舞うため。

 あの日、届けられなかった舞いを、もう一度。

 ――にもかかわらず、音々の音色に合わせて舞うのは、愛おしいほどに楽しくて。

「――音々」

〈彼〉と同じ、青空の匂いの音色を奏でる少女。

 音々のため舞うことは、叶わない〈彼〉への贖罪にはなり得ない。

 それでも音々と舞いたいと、雷華の心はどうしようもなく強く疼いている。

 ――だから雷華は、別れる定めと知って、それでも彼女と舞う決意をする。

「あの子のこと、もっと聞かせてくれる? 昨晩は合わせるのが精いっぱいで、話なんてできなかったから」

「ワシが話すことじゃねぇ。ワシに言えるのは、あいつの想いを大事にしてやってほしいってだけだ」

 雷華の求めに、一度は首を横に振った大家。貸し主として以前に、人の決意を易々と大っぴらにするものではない。

 だから大家は、音々の新しい友人としての雷華に対し、せめて彼女の思いを尊重するよう頼んだ。――けれど、挑戦的に見返してきたその友人は、受け入れるどころか、似た決意を黒瞳に映して。

「あの子、きょうのフェスにぜんぶ賭けてるって顔してたわ。その覚悟、パートナーのわたしには背負えないとでもいうの?」

「言ってくれるじゃねぇか……あいつが選んだくらいだから変わってるとはおもっとったが、ずいぶんはっきりした嬢さんだな」

「ライライよ」

 繰り返される名前の訂正に、今度は諦めのため息が大家の口を衝いて出る。

「――わかったよ、ライライさんよ」

 根負けしたように極太の首をさする大家。その仕草とは裏腹に、年輪の刻まれた口元はどこか娘を思う父のように嬉々としていた。

「じゃ、事務所に来てくれるか。あいつが言ってたことをもういっぺん、聞かせてやるしかできねぇが」

「それでじゅうぶん。ありがとう」

 歩きだした大家の背へ続く雷華。

 その目が玄関を閉める前に一度、少し散らかり気味の室内を見回す。

「――貴方が覚えていなくてもいい。わたしは味方だから」

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