第一片

 弦に指を添えたとたん、まるで機械のように他の指たちが自然と、演奏開始に備えて勝手に動き始めり。

 ペグを回し、弦それぞれのチューニング具合を、弾いた指と耳で確かめていく。

 何度となく繰り返してきた、演奏前のルーティン。

 それは奏者にとって、楽器と心の準備を兼ねる儀式に近いのかもしれない。もっとも、木目の美しいアコースティックギターをベルト掛けにした、小柄なベージュのパーカー姿の少女――御田音々みたねねは、そう大仰には思っていない。単純に、チューニングを怠ると弦が傷み、切れてしまう可能性があるからだ。半ば意地で実家を飛び出し、大都会に一人、アルバイトで食い扶持をかつがつ稼いでいる身には、替えの弦を買う懐に余裕がないのだ。

「――♪」

 ルージュの痕跡が見られない若葉のような音々の唇から、前座よろしく楽しげな鼻唄がこぼれ落ちる。

 即興で今、作り出したメロディだけの音のつながり。

 時折、挟み込まれる詞が、みずみずしい声音によって命を吹きこまれていく。

 当然かもしれないが、音々は音楽が好きだ。

 歌うことはもちろん、四歳で初めて触った玩具のギターから奏でた音が、十七になった今でも忘れられない。そしてそのときの、嬉しそうな家族の笑顔も。

 そんな音々が音楽を夢に持ち、小遣いとアルバイトを積み重ねて、プラスチックではない本物のギターを手に入れたときの感慨は、ひとしおだった。

 ベルトを掛けることも忘れ、実家のリビングに陣取ってひたすら弾いて歌った。最後は興奮のあまりジャンプして、買ったばかりのギターを落としかけたほどだ。

 だから音々はもっと、上手になりたいと――歌も、演奏も、両方がもっともっと上手くなって、それでみんなを笑顔にしたいと願った。

「――すぅ……うっ」

 短く息を吸いこみ、伴って鼻をつく芳香に、音々の眉根が寄る。空気中に混じった雑多なヒトとモノの匂いで、すぐにでも吐きだしたくなる。そんな胸元を、ピックを持った手で押さえて鎮める。

 ——大都会、西京。文化と経済と、大勢の人の街。

 そこが、音々が地元を発ち、チャンスと上達を求めて一人、乗りこんできた挑戦の舞台だ。

 人がそれだけ居れば、機会も多い。――当然、競争も激しい。

「――」

 音々の閉じたまぶたの向こうで、種々雑多なこの街が、茜色の夕空に街全体を染め上げる。

 その光景を思い浮かべ、脇に抱えたギターをそっと揺らしあげて音々は、角の欠けたピックを立てた。

 奏でるメロディはこの数週間、練習し続けてきたオリジナル曲。

 昼間の日光を浴び続け、その余熱がまだ残るサンダル越しの鉄筋。複層街構造の中空に張り出したステージ、というにはいささか誇張が過ぎる、安アパートの非常階段の踊り場。

 その一人だけのステージに立ち、観客のいない、一面が黄昏に包まれた夕暮れの街へ向けて、音々のメロディは弾けていく。

 アコースティックギターならではの、弾き語り調のバラード。

 夜が訪れる街を鼓舞するような、そんな前向きな歌詞たちが音々の唇から紡がれていく。

 ギターと、自分の歌。

 それだけあれば、充分だと思っていた。

 ――けれど、歌うほどに"足りない"と、うずく胸をないがしろにはできなかった。

 ――が、うずくような想いだけで夢が叶うほど、音々の志す場所は、近くない。

「キーン――」

 下街を挟んだ、斜め向かいの駅のコンコース。入り組んだ各方面からの列車がひっきりなしに発着する交通の要所へ、光沢のある車両が滑り込む。——ちょうど曲のサビにさしかかった、音々のメロディを遮るように。

「――っ」

 車輪とレールのこすれる音。

 モーターエンジンの音。

 開いたドアから吐きだされる人波のざわめき。

 それらすべてが、ただ音楽を奏でているだけの、音々の生み出す音色をかき消していく。

(負けんっちゃ!)

 止まりそうになる指を痛いほどに弦へ叩きつけ、声を張り上げる。そうして、かき消さんとする音の奔流へ抗った。もはや、それは音楽ではなく、ただの叫び声に近い。

 弱気になりそうになる自分を鼓舞する叫び。ここで退くわけにはいかないと、叱咤する叫び。

 それでも構わなかった。

 これくらいの困難を撥ねのけなければ、夢など、手が届くわけがない。

 だから、音々は叫び続ける。

 ――世界へ抗うのではなく、弱い自分に抗うために。

「――ゴラァッ‼ 御田‼」

「ひぃっ⁉」

 と、列車のモーター音よりよっぽど大音量の、それこそ来る夏の雷鳴に似たダミ声が、音々の背中を震え上がらせる。

「お、大家、さん……」

「おめぇ、毎度毎度、帰宅ラッシュの電車にむかって咆えんじゃねぇ‼ 近所迷惑になるぞッ! 咆えんなら、おてんとさんにしな」

「わわわ、すいませんっ!」

 身を翻し、音々は直角に腰を折る。

 そんな音々を、夕陽を反射する禿頭を突き出して、上階の窓から厳つい顔が見下ろしてくる。その毛虫のような眉がさらに寄って。

「だいたいな、おめぇ歌手志望だってのに、のど傷めるマネすんじゃねぇって、何遍いやぁわかんだ! あしたフェスなんだろっ?」

 濃い眉に、泣く子が黙るどころかもっと大泣きしそうな、般若のごとき突き出た双眸。

 親戚の厳つい老面々を見慣れている音々でさえ、生唾を飲み込むような圧巻の迫力を惜しみなく放出する御仁だが、その実、指摘は鋭いから音々の頭は上がらない。頭が上がらない理由は他にもあって、上京した無一文に近い音々をタダ同然で住まわせてもらっているのが、同アパート〈乙雅照荘おとがてるそう〉のオーナー——つまり、かの大家だからだ。

「……はい」

 そう気落ちした声で返事を返す借り主の少女に、大家は、アサガオ柄のうちわを不機嫌そうに揺らし、

「なんだ? やけにしおらしいじゃねぇか。しっくりいかねぇ、ってツラして。いつもんの『歌手じゃない、シンガーソングライターだ』っつう威勢はどした?」

「わははー……聞いたんならちゃんと呼んでくださいよー。あたし、曲づくりもしてるんですから」

「フェスが終わりゃな。で? 湿気たツラの理由は?」

「バリバリのJKにツラツラ言わんでくださいよー。……いやぁ、緊張しちゃって。このまま練習して、うまくいくんかね~、って」

「んだと? おめぇの取り柄は、そのおてんとさんみてぇな陽気と歌、それと負けん気だけだろ? ほかになにがあるってんだ。ワシぁ、駅前で歌うとったおめぇの歌きいて、家賃半分で住まわせてやってんだ。ワシの耳毛を疑うか?」

「きしゃな! い、いやぁ、だいじょうぶですー、はい」

 耳元からなにやらを引っこ抜いて、窓からこちらへ差しだしてくる大家。その贈り物を丁重に断り、音々は翻って踊り場の手すりを握る。

 夏が近づき、長くなり始めた夕暮れ時の街を、さまざまな影が行き交っていた。

 上街うえまちの摩天楼の間を電車の長い影の列が貫き、瓦屋根の残る下街したまちを歩く人々の影と交差する。

 そんな夕時は最近、少しずつ長くなっているような気がした。

 昼が長い、というより、そもそも昼間に空を見た記憶が、近ごろの音々にはあまりない。曇り空が長いか、雨が降って気がつけば夜になっている、という具合だ。

 長く感じられるのは、黄昏時だけではない。

 日の出もずいぶんとぼんやり感じられて、大家の言葉を借りるなら「おてんとさんはどっか行っちまったのか」、だ。そのせいか、音々も後ろ向きになることがこの頃は多い。

「――まるで、青空が消えていっているような……」

 つぶやき、音々はふるふると首を振って、突拍子もない考えを頭から振り払った。

 黄昏時の街も嫌いじゃない。

 けれど、陽が昇り、無窮に広がる青い空が、音々は大好きだった。

 青空の下で歌うとメロディが、詞が、どこまでも遠く、高く昇っていく。

 それは歌が持つ素晴らしい力のひとつで、自分が――自分の歌がみんなに届いていく感じがして、音々は嬉しかった。

 そうやって歌はきっと、届けたい人の元へ届いてくれると、音々は信じているから。

 ――自分の背を押してくれた、かけがえのないあの人の元にも、きっと。

「それにだ。練習は肝心だぞ? むかし、ワシも声楽を目指してたんがなぁ。そりゃあ、もう何時間だって喉を――」

「――え」

 一陣の風が吹き上げて、大家の武勇伝と音々の視線をさらっていく。

 上昇気流は、幾つもの街層が擂り鉢状に折り重なったこの〈西京〉で物珍しい現象ではない。

 ――音々の目を奪ったのは、吹き上げる風に舞った、青い"欠けら"のほうだった。

「青、空……? なつかしい香り……」

 花びらのように舞う無数の、薄く色づいた雫の形のそれ。

 風に乗り、無機質な街を駆け上り、深く色づいた夕空へ破片を散らす。

 その風には不思議と、むせ返るような街の匂いはなかった。

 ――ただただ澄み切った、どこまでも気高い、胸を高鳴らせる青空の匂いがした。

「なにあれ……ワン、コ?」

 その空色の欠けらが舞い散る中を、音々の見開く目の先で、駆ける者たちがいた。

 空を、下街の瓦屋根を、アーチ型の橋架を、十数の屈強な四本足の何かが獲物を追って走る。

 その姿を音々が『犬』に見たのも無理はない。

 漆黒の流れるような引きしまった体躯に、矢尻型をした頭部の両サイドから眼光を光らせる鋭い目。流線形の体の最後から、体毛と同じ色の鞭のような尾が伸び、物理法則を逸脱した駆動性にバランスを与える。

 その姿は、古来より人間の忠実な友として現代まで生活を共にしてきた、イヌ科の哺乳類そのものだ。幼い頃、犬種こそ柴犬と違えど、音々の実家では家族の一員としてその存在があった。そして戦や狩りなどで活躍する彼らのような大型犬を、音々も、テレビで見たことがある。

 だが、躍りかかるように獲物を追い詰める犬たち――『夜犬』たちから感じるのは、人に撫でてほしいというような穏やかなものではなかった。使命感にも似た、張りつめた意志だ。

『――羅狐らこっ!』

 その意志は、彼らの目が向かう先、改修中の無人のコンコースで激しい乱舞を繰り広げる二人の片方、リーダーらしき朱色の紋様を黒檀の肌に宿した、体つきの良い武人に結集している。

『もうよさぬかっ!』

 禍々しい外見から放たれる、意外にも、低く耳心地のいい制止の言葉。

 ――が、同時に繰りだされるのは、風を伴い、不可視のスピードで迫る無慈悲な拳だ。

『――ムリよ』

 豪速の突きを、けれどひらりと袖を振って、相対する華奢な細身――羅狐、と呼ばれた女性は悠々と躱す。

 そうして置かれた建材の上に軽々、羅狐は跳び乗ると、

『そっちから追いかけ回しておいて、その言い草は筋違いじゃない、こん?』

 と、からかうような、聞き分けない幼子に言って聞かせるような声音でそう言って、彼女は首をかしげた。

『非を改めぬ、おぬしこそ笑止!』

 挑発を返す羅狐に、夜犬のリーダー・昏は、傍観する音々にもわかるほどあからさまにいきり立ち、さらに猛然と躍りかかる。

「――きれい」

 殺風景な工事現場で対峙する、青と黒。

 その両者の、戦闘とは思えない鮮やかな身のこなしに、音々の口から自然と感嘆がこぼれていた。

 その吐息の対象は主に、羅狐のほうにあって。

「浴衣が光って、る……?」

 それは、控えめに称しても美しいと、見るものすべての視線を奪う、そんな浴衣姿だった。

 冴えるような青空色の地の、光り輝く衣。

 夕陽が摩天楼の海へ沈みかけたこの時間に、その鮮やかさはまるで、夜の海で探し当てた一番星の輝きだ。垂れた袖がひらりひらり揺れるたび、辺りを舞う空色の欠けらは数を増やし、ゆったりと弧を描いて浴衣へ吸い込まれていく。

 そして目にも綾な青空をまとう、その人物もまた、音々の目を釘付けにして離さない。

 細身の肩から羽織った夕色のケープを翻し、腰より長く垂らした、大地の茶色の長髪が、舞闘で吹き巻く風に踊っている。音々からは遠くてよく見えないが、その頭にはちょこんと三角耳が、忙しなくレーダーの役割を果たしていた。

「なんだなんだぁ? 御田ぁ、ボケッとしちまって。ワシの武勇伝きいてたのか? ったくよぉ、いい風が吹いてるからって」

「大家さんは見えないそ?!」

 不思議と、駅周辺の乗降客や街を歩く者たちにも、舞い狂う超人の両者が撒き散らす風圧に、気づいている素振りはない。包囲する夜犬たちも、ジリジリと輪を狭めつつ、他の人間には全く興味を示さない。

「はぁ? さてはおめぇ、寝てねぇな! じき大一番だからってよ、寝ねぇと倒れっぞ」

「ちゃんと寝てるっちゃ!」

 厳つい手で顔を覆うアパートの大家へ、思わず、愛着ある地元の言葉でそう叫び返す音々。

 直前、その目の前では、身軽さを最大限に利用した浴衣姿の羅狐の強烈な蹴りが、下駄の清々しい打撃音を伴い、炸裂。頬に、もろに受けた形となった昏の、一回りも大きな体躯が吹っ飛んだ。

 未使用の建材の小山を蹴散らし、下街の上空へ張り出した工事現場の足場から、そのパイプ類らと夜闇の体が落下しかけ――。

『――ぬ』

 ――片手で悠々と、足場の縁をつかんだその目が合う。

 ――ヒトのそれと、大差のない丸い眼。思慮深いその黒瞳が、刹那だけ見開かれて。

「ひ――」

 音々は動けなかった。

 悲鳴すら、ちょっとした自慢のはずの喉に詰まって出てこない。

『兄長! われがやるッ』

『――耀あける、待て!』

 とうに、体を振り上げていたリーダーの男、昏。

 暮れた濃紺の空を鋭く貫いたその号令が、真っ先に音々へ鼻面を向けた群れの一頭を制する。

 ――が、耀と呼ばれたその夜犬は、音々を怒りの眼に映し、黒い弾丸となって迫った。


 ――逃げる、という姑息な手段は、最初から羅狐雷華らいかの頭にはなかった。

 自分を棚に上げておいて、と自嘲が脳裏をかすめても、羅狐としての在り方が卑怯を――自分のせいで身の危険に陥った"彼女"を見捨てる、という選択肢を許さない。

『――青空の匂いがしていたの、あの子だったのね……それならもしかして』

 気にはなっていた。というより、いつものように夜犬たちと戯れていたら自然と、彼女の“音色匂い”に惹かれていた。

 それはまだ、大昔の、懐かしい匂い。

 その匂いをに伝えたくて、雷華は大罪に手を染めた。結果、空から青は失われ、永久の夜闇へ向かって世界は沈み続けている。

 人々が、見えていると思い込んでいる蒼穹。

 それは、受け継がれた記憶の残り香に過ぎない。

 世界はとうに青を無くし、じき闇がすべてを覆う。

 ——が、雷華は世界がどうなろうと、知ったことではなかった。雷華が願うことはただ一つ。

『あの子が唄ってくれれば、こんどこそ青空の匂いをに届けられるかもしれない!』

 ゆえに、雷華の決断は速かった。

『探しものはこっち、でしょ――っ‼』

 自慢の——否、己の命そのものとも言える、青空を編みこんだ浴衣。

 天界の宝物殿から盗み出した秘糸〈天穹の織糸〉で編んだ生地は、もはやそれ自体が青空といってもいい。だから直接地上へ干渉することを自らに禁じていた天界の主は、織り糸を取り返すべく、夜犬を遣わした。

『千年かかってやっと見つけた唄い手よ! 邪魔させないわっ!』

 ほんわか温かく、陽の光に香る袖をつかみ、肩から引きちぎる。多少の〈糸〉は失われてしまうが、雷華の願いを叶えてくれるかもしれない人材の喪失よりはマシだ。

「――」

 妖力もなにも、あったものではない雷華の力任せの破壊行為に、音にならない残滓がほとばしる。

『ふごっ⁉』

 案の定、彼――夜犬の一頭・耀の、〈織糸〉を嗅ぎ分ける能力に特化した鋭い鼻が鳴り、その体に急制動をかける。

 そうしてアパートらしき階段の、踊り場で恐怖の匂いをぷんぷんと漂わせ、まぶたを固く閉じた微動だにしない少女を目前にして、耀は手すりを蹴ってほぼ直角なターンを決めると本来の探し物へと狙いを変えた。

『ザ・ブルースカァァイ!』

 もちろん、浴衣の切れ端は囮だ。現に、耀を追って群れの夜犬たちが、風に舞う生地を求めて駆けだしていく。

 夜犬たちはその在り方からして、〈織糸〉を無視できない。たとえ、糸くずに成り果てたとしても追いかけずにはいられないのだ。

 それができるのは、幾度となく雷華に辛酸をなめさせられてきた、彼らのおさくらいだった。

『姑息なマネを!』

 一頭だけ、群れを追いかけずに長――昏が、弟分たちのやり損なった計画を挽回すべく、踊り場の少女へ吶喊する。

『我が、相手っ‼』

『残念でしたっ!』

 それをあらかじめ読んでいた雷華は、その横っ腹へ、長い長い年月の暇つぶしにと習得した秘技の掌底を叩きこんでやった。

 当然、彼を滅却させる意図など微塵もないから、かなり手加減したつもりだった。――はるか下方、人間たちの下街情緒あふれる瓦屋根へ、矢のように突っこんでいったのは、想定外だったが。

『貴方たちの相手は、わたしがしてあげてるでしょ!』

『盗っ人の分際でよくもぬけぬけとっ‼ 我らを"見る"力を持った人間を野放しにはできぬ。貴様はよく承知しているはずだ、羅狐! 己が欲のため、天より貴き〈天穹の織糸〉を盗み、あまつさえ千年も己が身にまとっておる貴様にはなっ‼』

『それを言うなら、貴方たちの仕事ぶりのほうに問題があるんじゃない? いくら天界の主でも、千年も待たされたら〈夜翁〉だってジジイに——』

『だまれっ‼ 深淵の翁は、貴様の奪った世の均衡を取り戻そうとしておられるのだっ‼』

『そんなに偉いんなら、あのとき〈糸〉の一本くらい、貸してくれたってよかったじゃないっ!』

『ほざけ‼ そも、己が身しか顧みない貴様に、が救えたとでも?』

『――っ』

 空間をも振るわせ、上下左右に跳躍し、雷華と昏は互角に拳を突き合わせる。

 そんな激烈な舞闘の最中に昏が放った言葉。軽口を叩き合っていたはずが、瞬刻、雷華の人間離れした美貌が苦々しげに歪められた。

『隙ありっ‼』

 そこへ昏の拳がストレートに下方から突き刺さり、雷華の痩躯が木っ端のように弾け飛んでいく。

 超常の存在たる雷華に痛む身体はない。——が、人間でいうところの心臓の辺りに疼く痛みをひとしおに感じ、雷華の記憶が時間を遡る——。

 

「——」

 手を伸ばせば届く、至近距離の鉄骨。

 そこへ青い人型が矢のように突っ込んできて、音々はとっさに目をつぶっていた。が、気づくと腕が頭ではなく、ギターのほうを抱きしめていた。

「あっ、弦はっ⁈ じゃなかった!」

 習慣から真っ先にギターのほうを気にしかけ、音々は慌てて首を横へ振る。気にしていたのは直前、音々の眼前、駅ターミナルで衝突し合っていた青と黒だ。

 速すぎて音々の目には残像しか捉えられなかったが、遠目にも激しい乱闘の気配は伝わってきていた。特に、青の人型の動きは流れるように美しく、まるで踊っているように見えた。

 そんな乱舞を呆けて見ていた音々の真横へ、当の“青”が突っ込んできたのだ。それも、痛いくらいでは済まされないだろうアパートの階段に直撃して。

「だ、だいじょうぶですかっ⁈」

 驚いたことに、階段へ倒れ伏せた人影には目立った怪我が見当たらず、色白なまぶたを閉じている様子から失神しているらしい。桃色の唇が「彦さん……」とこぼしていた。

「きれいなひと……都会には、こげな美人さんもおるんやねえ」

 先までの怪奇現象を忘れ、端正すぎるその顔立ちに思わず、 同性の音々も見とれて吐息がもれてしまう。

 透き通った肌を、いっそう際立たせているのがやや着崩れた空色の浴衣だ。模様のない単色の生地だが、なぜか見ているとさまざまな“青”が見えてくる。それは音々がメロディを奏でているときの、あのたまらなく胸躍る瞬間を感じさせる“青”だった。

 つい、触れてみたくなって、無意識に音々は手を伸ばしていて——。

『——人間が触れてよい品ではないぞ』

「ひぃっ⁈ ヒトわんちゃん⁈」

『貴様らとおなじ括りにしてくれるなよ、人間? 我らは、均衡を司る深淵の翁のしもべ〈夜犬〉だ』

「しゃ、しゃべるわんちゃん……?」

『馴れ馴れしいぞ、人間。命はめぐるが、翁は不用意な殺生を好まぬ。寛容な翁の御心に感謝することだ』

 微妙なミスコミュニケーションを気にするふうでもなく、振り返った音々の目の前、錆びた鉄色の欄干に長身の“黒”が仁王立ちしていた。周囲を同じ朱色の紋様が走る大型犬が取り囲み、今にも音々へ跳びかからんばかりの覇気をまとっている。

 そんな状況を見取ってごくりと、音々が喉を鳴らしたとき——。

「——御田! 大丈夫か? のら犬でもいたか?」

 と、盛大に下駄を鳴らして大家が階段を降りてくる。音々の素っ頓狂な叫び声を聞き付けて様子を見にきたのだろう。

「わわっ! えぇっと……」

 どう説明したものかと、音々がわたわたしているうちに「パチンっ」と音が弾けて突如、大家が前のめりに突っ伏した。

「大家さん⁈ なにをしたの、ワンワン⁉」

『聞いていれば喧しく兄長をっ……!』

『よい、耀。我らは本質的にそちらにちかいのだからな』

「答えてっ! あなた、大家さんを——」

『命は取っておらぬ。言ったはずだ。殺生は、翁が好まぬと。あの者は眠らせておる。かしましかったのでな。……それより』

 軽々と欄干を飛び降り、黒い人型——昏がぬっと、やはり大型犬を思わす大ぶりの目で見下ろしてくる。

『その化け狐を如何とする、人間? 容姿は雅びでも、それの執念は深いぞ』

『何を悠長に語っておるのです、兄長っ! ただちに衣を取り返し、〈夜翁〉さまのもとへ——』

 詰め寄ったやや小柄な夜犬の横っ面を、気づけば音々の手が張っていた。人間に頬を張られるなど、考えもしなかったのだろう。リーダーを含めた場が一瞬の空白を得て、静寂に包まれる。

「——サイテー。あんたたちの目的は知らんけど、寄ってたかって女の子をいじめて恥ずかしくないんかねっ!」

『き、均衡を崩しておるのは妖狐の所業だぞ! 貴様ら人間から蒼穹を奪ったのも——』

「だまりんしゃいっ!」

 張った鼻面にビシッと指を突き付け、音々は夜犬の二の句を継げさせない。理由がなんであれ、泣きっ面に蜂をけしかけるような真似を音々の正義感は見過ごせなかった。

 そのような正義感が、時として自分を不利にするのは音々も短い都会生活で思い知っている。が、だからといって見て見ぬ振りのできる音々でもない。——と。

『——ハハハッ! 一本とられたな、耀』

『兄長っ⁈』

 場違いに快活な笑い声が耳朶を打って、音々と耀のリアクションがシンクロした。

『我らにそのような根性を見せる人間は久しい。ならば問おう、人間。此奴を何と見る?』

「なに、って……獣耳の、浴衣の女の子……?」

『そんな人間がおるか!』

『此奴は、妖狐だ。もとは名すらない狐だったのだが、己が欲に走り、大罪を冒した』

「大罪……?」という音々の疑問には答えず、夜犬の長は暮れなずむ空を見上げた。その横顔に一瞬、怒りが灯り、静かに引いていく。

『此奴の衣の糸は特別なものでな。小賢しい奴め、力付くで取り返せんよう織物にしおった。奴自身の意志でなければ、解いて天に返せぬ』

『兄長っ! 人間に仰ることでは——』

『——人間よ、此奴の説得を承けてくれぬか?』

「いややけん! あんたたちには渡さんけ! あたしが守るけん!」

『護る、か。懐かしい響きだ。だが人間』

 声を低くさせた夜犬の言葉には、迫る夜気のような冷淡さがあった。

『妖狐は人間をまどわす。そやつが幾人も滅ぼしてきた様を、我らは目の当たりにしてきた』

「でも……」

『貴様の記憶は消さねばならぬ、人間。それが我らを“見た”者の定め。むろん、妖狐の織り糸も在るべきところへ返されねばならん。さもなくば、世の均衡は永劫に失われ、闇が万物を覆い尽くすだろう。この光景もろともな』

 昏の言葉に促され、音々は自然と夕暮れの街を見下ろしていた。

 種々雑多な人々が行き交う街を、茜色が包み込んでいた。情緒豊かな下街の瓦屋根を猫が駆け、通りを老若男女の喧騒が満たしている。

 頭上では高層ビルが夕空を突いて、


 夜犬も、雷華も、ヒトの住まう位相に留まらない。

 同時に、完全に位相を外れることもできない、異端のものたちだ。譲れぬ目的を持ち、相対しながら長いときを戦ってきた。

 だがそれは、自然の摂理を外れた赦されざる行いに他ならない。

 知る者が増えれば、いっそう理は軋み、精巧に保たれた世界に歪みが生じてしまう。

『わたしが――』

 だから、相対する雷華と昏ら夜犬は取り決めを交わした。

 世界のため、自分たちを知る者を、己の手で消し去ると。

『――やるわ。だから、ここは退いて』

 真っ直ぐに視線を上げ、いまだ体を強張らせたままの、居合わせてしまっただけの少女を雷華は見やる。

 どこにでもいる、ごく普通の少女。

 歳は十六、七そこらかで、短く切りそろえた栗色の前髪を瑠璃のクリップで留めている。怖くて目も開けられないというのに、腕に抱いたギターだけは離そうとしない。

 まるで、それだけは命に代えてでも――否、それこそが自分の命の輝きだと、信じて疑わないように。

 ――〈彼〉も、けっしてその手から、縦笛を手放そうとはしなかった。

(まちがいないわ……。あの子のほうは、覚えていないようだけど)

 共に、奏でる音色は澄みわたり、載せる声音には確かな"青空の匂い"を漂わす。

 つい、惹き寄せられてしまった。千年空狐の雷華の耳は、青空の音色に弱い。

 ――これが運命の再会だというなら、雷華の決意が変わるはずは、皆目ない。

『兄長っ!』

 一度は離脱した昏の弟分――耀が、他の夜犬たちを伴い、崩れた家屋から這い出る昏へ駆けよる。すぐ横では、何事かと様子を見に集まった近隣住民が、しきりに首をかしげていた。幸い、家屋の家人は不在だったらしい。しばらくは突然に屋根が崩れた理由に頭を悩ませ続けるに違いない。

 そこへ、青い切れ端を咥えたままブルブルっと、耀は頭を振り、『化け狐の戯れ言を信じてはなりませぬ』と、雷華へその黒光りする怒りの瞳を向け、糾弾の言葉を重ねる。

『この狐は、母なる自然を逸脱したのみならず、あろうことか妖薬〈天穹の麝香じゃこう〉を独占している! 麝香は、母なる自然が生みだす奇跡。解き放ち、天穹へ還してこそ、均衡は保たれるのです。それを独り占めするとは、盗人同然! 誇り高きわれら夜の番犬は、地を這う犬のように此奴を追い――』

『言うようになったわね、耀。自然の身を捨てたのはお互いさま。それに、貴方なら、昏の判断ができるというの? まがりなりにも永遠の友情を誓いあった相手を、手にかけることが』

『くっ――』

 ギリギリと、噛み締める耀の牙の音が伝わってくる。実戦でも舌戦でも、雷華を上回れるものはそういない。

 見届け、雷華は、足へ力を込めると工事中のコンコースから飛び上がり、三十メートルはありそうな下街の上空を跳び越え、反対側の踊り場へ――少女の立つ真横へと軽々と着地した。

「――ふえっ⁉」

 そうして華奢な、けれど意外にも触れた肉付きのいい腕をつかむと、駆け出しざまに振り返り、見下ろす夜犬の長へと宣言した。

『あすの夕刻。陽が暮れるまでこの子は、わたしが預かる。それまで手出しは無用よ』

『そののちは?』

『……楽しい追いかけっこに付きあってあげるわ。邪魔者のいなくなったあとで』

『賢しい狐め――』

 詰め寄る耀を払った腕で制し、兄長の夜犬が雷華の目を見返す。

 深い闇しかないその眼。そこからは何も感じられなかったが、永久の暗闇など、雷華の臆するところではなかった。

『――よかろう』

『兄長っ?!』

 ただし、と武骨な禍々しい紋様の腕を伸ばし、いっさいの感情を感じさせない低い声で、夜犬を統べる長は、手を引く羅狐と交互に見やっていた少女へ――雷華へと最後の通告を告げる。

『その誓い、破られたときは貴様も道連れと思え』

『ふんっ。上等じゃない。一度だってわたしに触れたことないくせに。それでわたしの香りが気になるのね』

 昏、と名を呼んでやると、その手でつかんでいた青い生地の切れ端にシワが寄った。たちまち凛々しい顔立ちに朱が差す。

 そうやっていつまでも相手をしてやりたいところだが、あいにく、背後の夕空は明るさが失せ、妖力を溜め込んだ尾の毛並みは毛羽立つ一方だ。

 夜の主導権は、夜犬たちにある。か弱い仔狐の出て行く時間ではない。

「えっ⁉ 道連れ? どういうことなん?!」

 それに、今の雷華はこれまでのように、鼻の利く夜犬たちをやり過ごすため青空の浴衣に一人、縮こまっていなくていい。

 隣には、訳もわからず、雷華に手を引かれている彼女がいて。

 震えているけれど、じんわり温かいその手は離れようとせず。

 ――たとえ、陽炎のようなひとときだったとしても、一人はもうたくさんだった。

「――だいじょうぶ。貴方、名前は?」

「わっ⁉」

 解けるように消えていく耳と尾。反して、体を包む、輝きを増した青い空色の浴衣。

 ヒトの目を惹きすぎるそれを紫紺の夕色のケープで隠すようにしながら、連行し、手を引く彼女の返答を待たず、雷華は下駄を余熱が残る階段へ打ちつける。乾いた金属の、普段の雷華なら形のいい眉をひそめる嫌いな類いの音。

 ――それが今は、耳心地のいい弾んだ声音と共にあって。

「待って! はぁっ……あたし、音々! 御田音々!」

 ――間違いなかった。

(ぜったい、手出しさせない)

 千年空狐のすべてを賭してでも。

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