空白のメモリ
三題噺トレーニング
空白のメモリ
尾幌メモリにとっての最初の記憶は孤児院での団欒の風景だ。
メモリの誕生日を孤児院のみんなが祝ってくれて、院長がサプライズだと笑ってポラロイドカメラをくれた。
メモリは過去の何かにより脳にダメージを負っていたから、記憶することがとても苦手だった。プレゼントは写真を見てせめて忘れたことを思い出しやすいように、という院長の親心だった。
その優しさのおかげもあって、この時の記憶と景色だけはメモリの心にしっかりと残っていた。
そして、メモリはどんな時でもポラロイドカメラを首からぶら下げてことあるごとにシャッターを切るようになり、やがて、どんな出来事でも写真を見ると必ず思い出すことができるようになった。
メモリは至ってマイペースだった。
自分のことなら何でも写真を見れば思い出せるから、覚えることが困難でもそんなに悲観的にはならず、将来を不安視することもなかったけれど、ふつうの職につくことは難しかった。
メモリはどんな秘密だって忘れてしまうため、本人の穏やかな性格も相まって、聞き屋兼何でも屋として新宿の片隅で神父のような役割を果たしてひっそりと生きていた。
メモリの元には色んな人間が訪れた。
寂しくてしょうがないから話をしてほしいと言うきらびやかな格好をした夜職の女性や、仕事が辛すぎて仕方がなく、その愚痴を聞いてほしいと言う会社員の若い男性や罪の告白をする者や悔恨の思いを口にする者など、様々な人がメモリの元へ訪れた。
時には、メモリの覚えられない性質を利用して危険なことをさせる人間もいたが、メモリは覚えていないから気にすることもなかった。そんな時は多額の報酬だけが事務所のデスクに残っていた。
逆にメモリの事務所へやってくる人の中には一緒にいるこの時を忘れて欲しくないからと、写真を残すことを希望するものも多くいた。
そうやって、メモリの元には多くの写真が積み上がっていった。
そんな中、メモリが持っていた膨大な写真の中で、見ても出来事を思い出すことができない写真が1枚だけあった。
茶碗と、米が写ったものだった。これがいったい何なのかメモリにはさっぱりわからなかった。
だからメモリはいつしかポラロイドカメラと一緒に、透明なカードにしまったその写真を首からぶら下げては客に質問をして、有益な情報がないかを聞き出すようになった。
そんなある日のことだった。
「その茶碗、見覚えがある」
と言う男性が現れた。男性は新宿ガード下のホームレスで、昔は社長まで上り詰めたこともある男性だった。
なんでも茶碗は著名な陶芸家が作ったものだと言う。
ホームレスは陶芸家と知り合いだった。その住所と情報をメモに書いてもらい、メモリはポラロイドカメラでパシャリと写真を撮る。
メモリはホームレスにお礼を言うと、早速メモの場所へと出かけて行った。
電車を何駅も乗り継いで、ようやく陶芸家が暮らしているという村まで着いた。到着した頃にはもう夕暮れ近かった。
陶芸家の住んでいる山奥の小屋まで歩いて戸を叩くと、陶芸家はのっそりと部屋の奥から出てきた。
「何か用か?」
髭だらけの顔がじっとメモリを見る。
「あ、あの。この写真を見てほしいのですけど、これってあなたが作った作品ですか?」
「ん?」
陶芸家は、こんな山奥まで来たメモリを奇異の目で見ていたが、写真を差し出されると、ハッとなって目を見開いた。
「おおお、これは。お前、これをどこで見つけた? まさしくわたしが作ったものだ」
「分からないんです」
「分からない?」
「ええ。ぼくは写真を見るとどんなことも思い出せるのですが、この写真のことだけはなぜか思い出せないんです」
「なるほどなぁ。これは特に覚えているぞ」
「本当ですか?」
「ん。けれどなあ」
メモリの嬉しそうな様子とは裏腹に、陶芸家は複雑そうな表情をした。しかし、わずかな逡巡の後、咳払いを一つすると、詳細を話し始めた。
「その茶碗は昔な、私が住んでいるあたりの有力な豪農が結婚記念日に買っていったものだ」
「そうだったんですね。場所はわかりますか?」
「お前、あそこへいくのか?」
「ええ。近いんですか?」
「歩いていけないことはないが、しかし……」
「いいんですよ、とりあえず行ってみれば何かわかるかもしれないし。情報ありがとうございます!」
メモリは嬉しそうに頭を下げると、陶芸家にメモを書いてもらって、それを頼りに告げられた住所へと向かった。
着いた場所は廃墟だった。
廃墟まで向かう道すがら、メモリの胸に何かが去来していたが、廃墟まで辿り着き、鬱蒼とした庭や、朽ちた壁や、割れた窓や、その上にたかるカラスを見て、メモリは完全に思い出した。
そうだ。間違いない。
ここは、かつてのメモリの家だった場所だ。
※※※
ここで何があったかメモリの記憶が鮮明に蘇る。
メモリの父親は酔っ払うとよく家族へ暴力を振るった。年の離れた兄はそれに反発していたから、2人はしょっちゅう喧嘩をしていた。母親はいつも泣いていた。
全てのきっかけは食事の時間だった。
その日は父親と母親で口論になった。理由は確か炊いた米が固かったとか、そんな理由だった。
そしてそのまま父が母を殴った。母を庇ったメモリも殴られた。
家の大きな柱に頭をぶつけたメモリを見た母親は我慢の限界に達した。包丁を持ち出して父親を刺そうとした。
父に包丁の刃先が刺さるまさにその時、いつも父と喧嘩をしていた兄が割り込んできた。胸元を刺されて、兄はそのままビクンビクンと2、3回体を上下させると、そのまま動かなくなった。
発狂した母は自分で自分を刺そうとして、止めようとした父を刺して、そしてそのまま自分の首元に包丁を刺して自死した。
地獄だった。
メモリはぼんやりとそれを見ていた。全てを見ていた。
そして、そのあまりの光景に脳にダメージを負ってしまっていた。これがことの全容だった。
メモリは自分の出生の秘密を思い出す。
そしてなぜ、茶碗と米の写真を手元に残していたのかに気付く。
過去を忘れないためにと思っていたメモリだったが、結局はあまりの辛さに自分で自分の心に蓋をしていただけだった。
ただ、この事実を知ったところで現在は変わらず過去は消えない。
「ぼくにはまだ待ってくれている人たちがいる」
震える声を無理やり絞り出す。
しばらく呆然と立ち尽くしていたメモリだったが、思いを新たに廃墟から一歩を踏み出した。
自分の街へ帰るために。
メモリは今日もまた、新宿のビルの片隅で、辛い人、困った人のために聞き屋を続ける。
相変わらず色んな人がひっきりなしに訪れては、メモリに様々な話をする。
きついことや嫌なこと。本当は聞いて欲しかったこと、届けられなかった思いや懺悔など。
メモリはそれをうんうんと聞いてあげている。
ただ、これまでと変わったことがあった。それは、メモリのデスクの上に置かれるようになった美しい陶芸の皿だけではない。
メモリが茶碗と米の写真を見て、過去が思い出せるようになったことだ。
メモリにとってはこれだけでも大きな前進だった。
心の傷を一つ、乗りこえる事ができたのだから。
陶芸家と一緒に撮った写真を手に取って眺めながら、メモリはふふっと笑った。
※※※
「お前、あそこへ行ってきたのか」
真っ暗闇の夜、陶芸家の小屋に戻ってきたメモリを見て、陶芸家は心配そうに声をかける。
その表情を見て、メモリはにっこりと笑う。
「ええ。全部思い出しました。ありがとうございました」
「悪かった。嫌なことだったろうに。すまない」
陶芸家はメモリがいなくなってからずっと、眠れずに起きていたようだった。
その不安を柔らかく包むようにメモリは微笑む。
「いいんですよ」
「しかし、わたしが余計なことを言わなければ、お前は過去を思い出すことはなかった。それなのに……」
「大丈夫です」
人は自分の過去を分断できない。嫌なことだけ忘れて、いいところだけを抜き出して、つぎはぎの人生を生きていくことはできないから。
だから、メモリは最後に一言、陶芸家に言った。
「––––変えられるのは、未来だけですから」
空白のメモリ 三題噺トレーニング @sandai-training
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