胎動

 玄関のドアを開けると、私がただいまを言うより先に母の快活な声が聞こえてきた。

「おかえり〜、真奈」

「ただいま、お母さん」

 私も朗々と答える。挨拶というものは単純でありながらとても合理的だ。その言葉をかけるものは相手に双方の距離感を提示し、相手が型通りに反応すればそれが受け入れられたことになる。互いの関係性を明らかにして、時には親しみあふれる仲間を、時には警戒を怠るべきでない他者を設定する。人間以外の動物すら行うのも肯えるというものだ。

 その判断基準でいけば、今日の母はこう言っている。

『あなたと少し距離を取ることにしたんだけど』

 心当たりなら、ある。

 先週、先々週と二週間続けて、私は週末に隣町へ出かけている。それは母にとり、いや父にとっても、本来二人の間で緩衝材となるはずのこどもが役割を放棄したと看做すべきある種の裏切りだった。それは私自身認識していて、むしろこれまでのような振る舞いを見せる気力が萎えてしまったことが我がことながら意外だった。しかし何度胸中を探ろうとも、かつてのような義務感は死期を悟った老猫のように気づいた時には消え失せていた。恐らく母は、明日辺りにもまた私が責務を怠けると思っているのだろう。

 そこまで考えても、私は週末の予定を変えるつもりはなかった。理由は単純、あの人と約束したからだ。“また来週”と。

 ランドセルを部屋に置きリビングに戻る。食卓を一瞥すると、そこにいつもはおやつとして置かれている小皿に乗った菓子類が見当たらないことに気が付いた。

 私の表情に疑問を読み取ったらしい母は、「あら」とわざとらしく驚いてみせた。

 振り返った私に母は口だけで笑う。

「だって、今朝は真奈ちょっと悪い子だったじゃない。分かってるでしょ?おやつは良い子にって昔から言ってるもの」

 最初は何のことを話しているのか理解できなかったが、今日の朝食の席での会話を苦労しながらひとつひとつ辿ってみるとようやく思い至った。

 我が家では朝晩の食事は家族揃ってとる。父と母が直接会話をしなくなってからもそれは変わらない不文律だった。そして今朝、いつものように私が両親それぞれと話している時、父が週末に一緒に出かけないかと言ったのだ。

 いつもの私は、少なくとも記憶の限りではこういった類の提案をやんわりと断っていた。あるいは、家族全員でなければいけない理由をでっち上げていた。そうでなくては、私はどちらかに偏りすぎているとしてもう一方にとっての裏切り者になるから。見栄と世間体と孤立への恐怖で保たれたこの家のバランスを狂わせるから。

 ところが、今朝の私は確かこう答えた。

『日曜日なら大丈夫だよ』

 土曜日はあの人のところへ行くのだ。そればかり考えていた。そしてそのまま嬉しそうに言葉を続ける父は母に見せつけるようにテキパキと予定を組み立て、結局私は日曜日に父と買い物に行くことになった。

 母の怒りはそこにあった。今私に向けられているその瞳に浮かぶ不快感は、間違いなく敵意と呼べるものだ。それで合点がいった。あのおかえりは、厳密にはこう言っていたのだ。

『あなた、わたしの味方じゃないの?』




 午後八時を過ぎ、帰宅して部屋着に着替えた父が食卓につく。私たちも黙って座る。

 父は母から滲む微妙な不快感を感じ取ってか、平日の終わりだというのにいつものような口数がない。恐らく本当は今朝の約束のことを話したいのだろうが、以前食事中に母が癇癪を起こして夕食が十分に食べられなかった経験があるので、あえて母を挑発する気はないということだろう。

 テレビから聞こえる芸人の笑い声がリビングに満ち、場違いな明るいジングルに母が痺れを切らして音量を下げた。食器に箸が触れる音が代わりによく響く。

 早々に食事を終えた父が椅子から立ち上がる。そして何げない風を装って私のそばに寄ると、頭に優しく手を置いて囁いた。

「日曜日、楽しみだな」

 父の顔をちらりと見上げると口元には笑みが浮かんでいた。いつか家族で行った魚釣りでそれなりの大きさのスズキを釣り上げた時も、父は確かこんな顔をしていたとぼんやり考えて、すぐに今の状況と大差ないことに気が付いた。

 続いて、そのまずさにも。私はどちらかのものになってはならない。帰って母の異変を感じ取った時にはまだ漠然とした危惧に過ぎなかった懸念が、突然に悪寒として背中を微かに震わせた。

 思わず身をこわばらせた私のことも知らぬげに父は自分の部屋へ上がっていった。母と私、二人だけになった食卓ではしばらく互いが箸を動かす音だけがしていたが、その間にも重低音のように母から発される怒りと非難は私の芯を揺さぶり続けた。

 さっき父が私に今朝の約束のことを話した時、私はそれを取り消さねばならなかった。しかし私はしくじった。もう取り返しはつかない。すでに導火線に火は点いていて、私はそれに備えるしかない。

 やがて、母が箸を置いた。

「ねえ、真奈」

 来た。

「ねえ」

「……ごめんなさい」

 思わず謝ってしまい、痛感する。私はまだ、おやに心から逆らえない。

 母は慌てるふりをして私のそばに歩いてきた。

「あらあら、そんなつもりじゃないのよ?真奈は好きなようにすればいいの。あなたが悪いと思うことじゃないんだから」

 あまりの演技臭さに体が覚えず縮こまった。何を言えばいい。何を言えば、私はまた二人と同じだけの距離を取れる。

 私の横にしゃがみ込んだ母は、畳み掛けるように「でも」と続ける。

「真奈、最近ちょっと考えごとしてない?」

「……!!」

「でしょ?やっぱり調子悪そうだもの。お母さん、何かできないかなぁ?」

「そ……れは……」

 直感で分かる。これは母からの最後通告だ。お前の手綱をこちらに明け渡せと母は命じている。それを以て、私の父との接近を帳消しにしてやると仄めかしている。

 だが、言うわけにはいかない。言えば確実に隣町へは行けなくなる。あの人に会えない。それだけは何があろうと受け入れられないのだ。

 母は私を見つめている。長くは待たせられないだろう。この機会を逃せば、我が家での私の居場所は大きく揺るがされる。普段帰りの遅い父のことだ、平日の母と私の関係性など想像できるはずもない。せいぜい週末に見せびらかすように私に構うだけ。いや、それも母がその状況を放置すればこそ、下手をすれば母は父と私を引き剥がすために何かするかもしれない。そんなことはないと信じることすらできないほどに、この家は壊れかけている。

 だが。私は思い出してしまった。夢に見たあの人を。そして実際に目の前で身を捩るあの人の横顔を。

「やだ」

「え?」

「い……言えない!」

 乾いた音がした。母の方を向いたはずなのに、いつの間にかまた前を向いている。何が起こったのかはすぐに分かった。だが、これまで母に手を挙げられたことはなかった。

「真奈、やっぱり悪い子になっちゃったね。どうして?きっとあなた、良くないところに出入りしてるのよ。もう行くのはやめ——」

「いやだ!」

 這い上がってくる恐怖を押し除け、それだけはと拒絶した。予想外に動揺していることが自覚されて意識的に呼吸をすると、喉が痙攣を起こしたように震え、それで自分の視界も滲んでぼやけていることに気が付いた。

 母がまた手のひらを持ち上げる。咄嗟に俯いた顔を両手で隠し、やがて来るはずの衝撃に備えた。だが、いくら待ってもそれは訪れない。恐る恐る顔を挙げると、母はいつの間にか自分の席に戻って食事を再開していた。

 自らに向けられた視線に母もまた眼差しを返す。一瞬見えたその瞳に浮かぶ感情を見て、頬の痛みが気のせいではないことが分かった。

 母の目が宿していたのは、怒りでも非難でもなかった。

 憎しみだった。




 真っ暗な自分の部屋の片隅で、私は膝を抱えて座っている。幾分冷静になった頭で、これからのことを考える。

 結局、あの後母が再び私をぶつことはなかった。私の食器も黙って洗ってくれた。しかし、それは父に対しても同じこと。すでに私に対する母の認識はかつてのものでないはずだ。家族の均衡は崩れた。

 悲しいのは当然だった。これまで、こうなることだけは避けようと努力してきたのだ。落ち着いてきたとはいえ、もう私は家ですら安心できないと確定してしまったのはやはり堪える。そして何よりも、頬の痛みとあの母の目。もうかつての母は永遠に戻らない。まだ諦めきれていなかったことが自覚されて、自分がどうしようもなく惨めに思えた。

 それでも感情の整理は以前からある程度つけていたので、来る時が来たと自らに繰り返し言い聞かせてしまえば随分ましになった。それどころか、こうなってようやく、私は今まで自分が費やしていた努力の目的がむしろ楽をすることにあったと理解できた。父と母の反吐の出るような冷戦に付き合うのが面倒くさくて中立を保とうとしていたが、ことここに至ってはもう両親ともに付かず離れずという訳にはいかない。少なくとも、母とは。隣町へも少し行きにくくなるかもしれない。

 だが、父につくのもいただけない。それこそ我が家の崩壊を加速させるだけだ。

 であれば。すべきことは明らかだ。

 双方を遠ざける。父との約束は守らねばならないが、それ以降はどちらに偏ることもなく新たに私の立ち位置を作る。可能ならばもう一つの勢力として、均衡を作り直す。たとえ母の反応が激しかろうと、そこは時薬を頼るほかない。その上で、私には彼らが必要なのだと改めて認めさせるのだ。私はまだ、この場所がなくては生きていけないのだから。そして……いや、それはもういい。

 まだほんのりと熱い頬を触り、ふとあることを思い付いて笑ってしまう。そうだ。ひとつはっきりしたことがある。私にとって、あの人はこの家よりも大事なもの。後悔はない。なら、私はあの人のためにこれを使うのだって躊躇わない。

「かわいそうなちっちゃな私……明日はきっと、いつもより長く……」

 笑うと少し頬が痛んだが、それでも緩んでしまう口元を抑えることはできなかった。笑うことしかできなかった。

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掌上見聞録 雨野榴 @tellurium

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