黒御簾

 この頃何かおかしい。

 別に寝坊して必須科目の単位が危うくなっていることでも、ふと古本屋で見つけてまとめ買いしたひと昔前のマンガが面白すぎてそればかり考えていることでも、そんなことを繰り返して気付けば貯金がかなり危うくなっていることでもない。もちろん下宿の共同トイレの壁に僕の携帯の番号が勝手に書いてあったのは異常だし急いで消したが、この違和感とは別の問題である。

 端的に言えば、見られている。

 例えば大学の階段を昇る時、商店街で揚げ物を包んでもらうのを待っている時、そして夜の鴨川で自分を追い抜くランナーの背中を見送る時、後頭部にぞわりと毛の逆立つような不快な感覚が走ることがある。とっさに振り返るが当然そこにあるのは日常の風景で、視線の主を探してみても「何見てんだ」とばかりに睨み返すヒト科生物以外に容疑者はない。

 最初のうちはよくあることだと深く考えていなかった。考えまいとしていたのだろう。似た経験は今までもあったし、それらは全て気のせいだった。まるで大病の初期症状とやっちゃった系慢心患者のストーリーだが、悲しいかな人間だもの。自分の健康と安全の数値変動は多少の凹凸こそあれプラマイゼロだと勘違いしてしまうものなのである。それは僕とて例外ではなく。




 いよいよただごとではないと気付いたのは、部屋に入り浸っている二匹の猫もとい二柱の神に何の気なしにこのことを漏らした時だった。

「なんか最近やたら視線を感じるんだけどさ。神様たちみたいな感じで幽霊でもいるのかねぇ」

 僕のこの呟きに、三毛猫の巴さんは甘えるような鳴き声で答えた。一方の白猫の神様は、

「な……んだろうなぁ。うん。そうなんじゃないか。そうだろうな、きっと」

「ん?」

「え?」

 反応のぎごちなさを訝しんで顔を覗き込むと、あからさまに鼻先を明後日の方向に向ける。それでも執拗に神様の周りを匍匐しながら目を見つめ続けていると、終いには神様は壁を至近距離で睨みつけ始めた。

「……まさかとは思うけどさ。神様、僕になんかしてる?」

 すると神様は心外とばかりにくるりと振り返り、軽く毛を逆立てた。

「そんなはずがないだろう。なぜ私がお前なぞを呪うというのだ。相手を選ぶ権利くらい主張させてもらうぞ」

「何だと……いや、ほんとに今なんて言った?」

 思わず我が耳を疑った。呪う?神様もしまったと思ったのだろう、元々丸い目をさらに丸くして、またもぎごちない動きで壁に視線を戻した。

 しばしの沈黙。僕は黙って胡坐をかき、神様の言い訳の続きを待ってその背中に眼差しで訴えかけた。しかし待てども次の言葉はなく、僕の視線を知ってか知らずか純白のお尻がもぞもぞするばかりである。

「ねえ」

「……」

「ねえってば」

「……」

「お?寝たか?座ったまま寝たのか?じゃあ耳触るよ。フニフニしたかったんだよね」

 すると神様は慌てて振り返り、

「やめんか!今必死に弁明を図っているのだから少し待て!」

「やっぱりさっき口が滑ったな!僕に何してんだこの穀潰し!」

「何を!猫なんぞどこの家でも食って寝るだけの穀潰しだ!喋るだけマシだろう!」

「じゃあ本当のこと一切合切喋れよ!楽になれよ!あともうちょっと世間の猫並みに可愛い子ぶれよ!」

 神様は重ねて何か言い返そうと勢いよく口を開いたが、次の瞬間弾かれたように僕の斜め後ろに顔を向けた。つられて僕も視線を転じる。そこには、先ほどまで寝転びながら僕の靴下を両手両足で伸ばしていた、しかし今はまるで陶器の置物の如き美しい姿勢で座りこちらを眺める——

「巴さん?」

 神様はおずおずと「しかし、いいのか?」と問いかける。巴さんが何か喋った様子はないので、僕には聞こえないがどうやらこの二者の間では今まさに会話が行われているらしい。またも巴さんが何か話したのだろう、神様は「うぐ」といがらでも絡んだかと思わせる情けない声を出した。多分叱られている。

 神様はそれから何度か詫びらしき言葉をもにょもにょと呟くと、僕の顔を見上げてくたびれたような溜め息を吐いた。

「あー……真実を話そう」

 何だその怪しい動画配信者みたいな切り出し方は。本当に真実を話す気があるのかととっさに突っ込みたくなったが、しかし耐えて続きを待つ。そっと巴さんを伺うと、菩薩のような佇まいでじっと神様を見つめていた。

 ややあって神様が口を開いた。

「そのだな、単刀直入に言うと、私たちはお前を監視していた。主に巴君の能力だが」

「な……巴さんまで……?」

 思わず巴さんを振り返る。すると神様は「まずは話を聞け」と前足で畳をペチリと叩いた。

「恐らく視線というのは巴君のものだろう。だが、それをしていたのにも理由がある。お前、先に本棚を持ち帰って以来何か違和感はないか?」

「え、あれ以来?……特にはない、かな」

「そうか……まあ予想はしていた。私でさえ認めえぬものをお前が直感であっても把握するのは至難の業だ」

「ちょっと待って。それって、さっき言ってた呪い云々のこと?僕、本当に呪われてるの?」

 生唾を飲み込んだ僕を見て、神様は「ははあ」と何か腑に落ちたような声を漏らす。

「何だよ」

「いや。お前、存外何でもすぐに信じるのだなと。それは憑く側も憑きやすかったろうなぁ」

「憑く?」

「ああ」

 神様は頷くと、険しい目で僕の顔を見上げた。心なしか、その視線は僕よりも遥か後ろのどこかに据えられているようである。

 そして神様は少し寂しげに息を吐くと、

「お前は憑かれている。良くないものにだ。それを上手く祓わねば、遠からずお前の身は危険に、いや……破滅と言っても過言ではあるまいて」

「は……?」

「巴君とも話し合った。恐らく、そこらの寺社では根を断てまい。そうと決まったわけではないが、場合によっては神代の神にも及びうるほどの怪異なのだ。この時代どこにそんな大物が生きる余地があったのかは分からんし、それがこれほど気配を漏らさんのも薄気味悪いが、ともかく祓うならばお前がそれを貰ったところから解かねばならん。お前があの日出かけた先の、そのどこかからな。で、当面は取り敢えずお前に異常がないか見てもらっていたのだ」

「……マジ?」

「どうやら私は嘘が下手らしいが……私が大立者に見えるか?」

 それには答えず、僕はゆっくりと巴さんの方へ体を向けた。巴さんは相変わらず微動だにせず神様に視線を注いでいる。もはや不気味と言った方がいい。普段触れているはずのふわふわとした毛皮も今は手を伸ばしづらく、つい逃げるようにして神様に向き直った。分かる。今、ここに嘘はない。二柱の神が宣言しているのだ。「そこに魔がいる」と。

「まったくなぁ……」

 非科学はもう目の前の白猫のお陰で日常の隣人と化していたが、まさか非科学でこの身まで危うくなるとは。当の神様は同情しているつもりなのか黙って目を伏している。

 こうなっては視線など気にしてはいられないのだろう。憑かれていると聞いてしまうと、途端に腹の辺りに妙な異物感があるような気がしてくる。どうせ気のせいである、さっきまで無かったのだから。しかしこれからはいつ体に異変が起こってもおかしくはない。何なら、それは医者に罹ったところで治るものではないに違いない。

「……ここでは悲劇ばかり流行る、ってかね。そんなもんきょうび誰が喜ぶんだこんちきしょう」

「大丈夫か?お前は言うことがおかしいからいつも通りか判別しかねる」

「心配は嬉しいけど、にしても歯に衣着せないなぁ……でも今はそれがありがたいか」

 そうだ。どうすべきかは既に示されている。何かが僕の中に入ったとかいう場所に行く。そしてどうにかして祓う。単純化すれば常識では測れない異常が起きていて、それをこれから解決するわけである。なら、きっと問題ない。似たようなことは何度かやってきた。大体三刀屋に巻き込まれて。

 膝を叩いて立ち上がる。

「よし。行くか、また」

「うむ。今回は私も同行しよう」

「それは頼もしい」

 見下ろすと、どこか誇らしげにこちらを仰ぐ神様と目が合った。その胸中は神のみぞ知るが、少なくともその言葉に僕の心は幾分か軽くなった。そう、打つ手はあるのだ。

「ああ、そう言えば」

 聞くべきことに思い至って尋ねる。

「何だ?」

「まだ聞いてなかったけど、僕に憑いてるのって具体的にどんな奴なの?」

「分からん」

「……え?」

「……」

「じゃあ……あとどれくらいで手遅れになるの?」

「……分からん」

 巴さんに救いを求めて目で訴えかけたが、とっくに彼女なりに伝えるべきことは伝えたのだろう、今度は座布団に四つ足でレスリングをかましている。今ばかりはあんまり可愛くない。

「ハァ……」

 盛大に溜息をつく僕に、神様は「まあ今は何も出来ないからな」と慰めるようなことを言う。窓の外から犬が何かに吠え掛かる声が聞こえた。

「……今、そいつについて分かってることは?」

 半ば投げやりに問いかける。いつの間にか首にじっとりと汗をかいていた。そういえば七月は目前、そろそろエアコンを点けてもいいかもしれない。神様の不釣り合いに温かい声が聞こえる。

「尋常ではない隠匿の妖術を扱う。それも異様な精度で。それで隠れているから全容が掴めん。何をしているかも分からない。ただ害をなすことは分かる」

「成る程……そりゃ、なんともミステリーだよ」

 僕はとぼとぼと冷蔵庫に歩み寄り、よく冷えたペットボトルの麦茶を取り出した。キャップを開け、傾ける。喉を下っていく冷たい液体は胸の辺りまでははっきりとその位置を認識できたが、そこを過ぎると奈落に消えたように杳として行方が知れなかった。

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