雑聞その二

 疎開してきた人々があらかた帰ってしまうと、上巻川かみまきかわ村はすぐさま以前の閑散とした様相を取り戻した。空襲の標的にならないという利点を失ってしまえばこの山村は暮らすに不都合なことばかりで、市街から出戻ったこの地の出身者さえ留まる者はなかった。二人ほど長く親の便りの聞こえない子供がいたが、それも先日ついに遠方の親族に引き取られていった。

 こうして戦後一年で上巻川は十年前の姿に逆戻りした。




 高台の元庄屋の屋敷の奥、人目を避けるように襖を閉じ切った一室に白装束の女が座っていた。歳の頃は二十かそこら。行灯一つでぼんやりと浮かび上がる顔は俯いて正気がない。虚ろな目の中には、白い手に握られた手鏡とそこに映る女の首が反転していた。

 すいと襖が細く開いた。

「あと一人です」

 帯留のような隙間からそう囁いたのは、女とよく似た面持ちの年端もいかぬ少女。二人は姉妹だった。

「分かっています」

 抑揚を欠いた声で女が答えた。いつの間にか、手鏡の中心にひびが一本、鏡を縦に二分するようにして走っていた。

 女は機械的な動きで手鏡を膝の左側、同じく割れた十数の手鏡の山のてっぺんにそっと置くと、体を反対に捻り右手に置かれた三宝から手鏡の最後の一本を取り上げた。そうして再び動かぬ影法師となった女を見届けると、少女は深く頭を下げて襖を閉じた。

 それから数時間が過ぎ、すでに町が闇にとっぷり沈んだ頃になって女はようやく部屋を出た。行灯の火の落とされた無人の部屋では、三宝に一つ置かれた真っ赤な手鏡が天井の漆黒を映していた。その夜、屋敷には女しかいなかった。

 翌朝、戻ってきた家人によって井戸の底で冷たくなっていた女が引き上げられた。女の葬式は身内のみでひっそりと行われ、先祖代々の墓に丁重に弔われた。

 女の妹である少女はその一切を歯を食いしばって見つめていた。その手にはまだ新しい真紅の手鏡が光っていた。

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