赤手児の鈴

深雪 圭

明治41年の晩夏・秋

 東北の八戸はちのへという町に、ある男女がいた。

 男は丁稚奉公の正三しょうぞうであり、女は商家の千代ちよである。


 彼女は武蔵野に生家を置いていたが、日清戦争を機に東北へ居を移した。

 そのような女と、朴訥ぼくとつとした男が出会うのは、一つの運命だろうか。


 もう十五になったというのに、正三は意気地のない男で、千代に泣かされてばかりいた。彼女はまだ十三歳だが、ようやく膨らんできた胸といっしょに、正三に対する加虐もますます増していったのである。


「ねえ、ちぃちゃんはどうして正三さんをいじめるの?」


 千代の姉は、そっと訊いたことがある。

 彼女もまた、妹の千代に怯えていたのだ。


「どうしても何もないじゃない。楽しいからよ」


 そう言って笑う彼女に、姉は絶句した。


 そのときの千代ったら、まん丸な瞳に、幼さ故の分別のつかない残虐性が珠のように光って、一種、年増としまのごとく妖艶な色をたたえていたものだ。


 他人を、とりわけ男を弄ぶ女は、往々にして少女のうちにその片鱗を見せるものだ。

 ある女はそれを封じ込めて真っ当に嫁ぎ、ある女は自覚を得ないまま生涯を終える。


 千代に関しては、言葉を覚えるよりも頭角を現すのが早かった。

 乳母の乳首を、歯も生えていない歯茎で噛み切ろうとしたのだ。

 

 集中するあまり御乳おちを飲み損ね、何度も嘔吐えずいたものである。

 そのくせ、彼女はまるで乳母が悪いとでも言うように、獣のごとく唸るばかりだった。


 千代は美しかった。

 その美貌は残虐性を助長し、その残酷な言動が、ますます彼女の艶色を濃いものにした。 


 麗しい黒髪に、絹のような肌。

 声音は涼しくて、浮世離れした響きを持っている。


 そんな千代と正三の間には、一つの約束事があった。


 それは女が鈴を鳴らしたら、すぐに男は駆けつけなくてはならない、というものだ。


 呼び出したあとの千代の命令は、千差万別である。

 はじめは肩を揉めだの、爪を切れだの、大人しいものだった。


 正三も丁稚の身分であるから、当然のように従事したのだ。

 しかし、男があまりに従順だったため、それが次第に平手打ちをしたり、四つん這いにさせて馬乗りになったりと、日に日に過激になっていったのだ。


 鈴の可愛らしいが、二人にとって特別な意味を持つようになったのは当然である。


 流行の玩具おもちゃであるおはじきを用意して、正三に食べさせたこともあった。彼が苦しめば苦しむほど、千代は明るく笑った。


 四畳半のお座敷には、いつだって千代の笑顔と正三の泣き顔が、障子に影を落としていたのだ。


 姉も姉で、妹と同じ血が通っているとは思えないほど弱気な娘だったので、千代の奴隷として心身をやつした。

 正三と違って、姉は被虐を悦びに変える性質たちではなかったのだ。


「千代さん、お母様が琴の練習をするように言っていましたよ」


 ある日、正三が縁側をほうきで掃いているときに言った。

 それは決して、忠告ではなかった。

 正三もそう聞こえないよう、言葉を穏やかにしたのである。


 しかし、結局は千代のおぼしが絶対だ。

 彼女は水を得た魚のようにニンマリと笑って、座敷に背を向けている正三の背後に寄った。


 そうして、肩を掴んで彼を振り向かせると、その鼻っ面を思い切り摘まみ上げたのである。


「いたい、いたい」


 箒を取りこぼすも、正三は千代に触れない。

 その規則を破れば、もっと痛い目を見ることをそれこそ痛いほど知っているのである。


「離してください、お願いですから」


 魚は、水の中で悠然と泳いだ。

 餌を食らって腹を膨らませるように、正三の悲鳴が千代の心を満たすのである。


 チリン、チリン。

 左手に持った鈴が、僅かな振動で音を立てる。


 それから彼女は摘まみ上げた鼻を、米粒を指先で丸めるがごとく動かした。


 縁側にいる彼女は地べたにいる正三より頭二つ分、高い位置にいる。

 正三はどうしても上を仰がずにはいられないので、より惨めな格好となった。


 千代からは彼の前歯がよく見える。

 一本だけ欠けているのは、彼女が寝転がるように指示した正三の顔を、革靴で踏んづけたときにできた怪我である。


 しまいには彼の塞がれた鼻の穴からは血が流れてきた。

 そう、言葉は要らないのだ。

 脅迫も罵倒も、千代の桃色の唇からは流れない。


 ただ一つの暴力が、正三を委縮させるのである。


 雨戸のない縁側を「濡れ縁」というが、この家のそれは雨ではなく血に濡れた。

 それと、千代の抑えきれない法悦の色で。


 また、ある晩、正三の布団にもぐりこんだ千代は、彼の陰部をまさぐったこともある。

 それはこれまでとは違い、痛みを伴うものではない。

 どうしてか女は鈴を持ち運んできたのか、聞き覚えのある音が響く。


 はなから無抵抗な正三は、一切の動きを見せなかった。

 手を振り払うことも、寝返りを打って彼女に背を向けることも。


 千代の残虐な行いに、はじめこそいきどおりや苦痛を覚えた彼だけれど、今ではすっかりよろこんでいた。


 それに今度は一路いちろの快感である。

 勃起した陰茎をもったいぶるように指先で舐め回し、裏筋を爪で刺激して、しまいには亀頭を弄ぶ。


 音もなく濡れてゆく男性器を、そのぬめりを利用してさらに撫で回した。

 すぐに生殖器どころか睾丸にまで艶を塗り広げて、正三は声を抑えるのに必死だ。


 千代の笑い声もまた、闇夜に沁みて溶けていく。


 くすくす。


 誰がこの幼気いたいけみ声を、男を虐める愉悦だと分かるだろう?


 折り鶴を作ったり、野山で駆け回る夢を見て笑うだなんて、千代はとっくにしていない。


 薄紅色の襦袢じゅばんの袖口は規則的に波を打ち、それに合わせて正三の口から熱い息が漏れた。


 聞こえるのは鈴虫の鳴き声と、女の微笑、男の苦悩、そして衣擦れだった。

 男女の悦楽がさざ波になって、蚊帳かやの薄いあみは、静かに揺れている……。


 当然、千代は絶頂を許さない。

 正三が射精を予期して、またそれを懇願したとき、あっけなく彼女は手を離すのである。そうして彼の寝間着から取り出して指先を月明りに照らし、その光沢を嬉しそうに眺めた。


 寸前まで登ってきた快楽は、決して彼女の手では解消されない。


 このめ事は、ある晩を境に何度も繰り返された。

 だから陽が高いうちに一人で射精をしたときには、今まで以上に激しく折檻せっかんをしたものである。


 彼女は和装もすれば、洋服に身を包むこともあって、時には下駄で、時には草履ぞうりで、また時には編み上げのブーツで正三の身体を踏みつけた。


 彼が彼女の意に反する快楽を得た際には、最も靴底の固いブーツで顔も腹も太ももさえも、蹂躙するように踏んだのである。


 そういう時もまた、彼女は鈴をぶら下げていた。

 千代が足を上下させるたびに、小気味良い音が鳴る。


 土埃や雑草の緑が、正三の全身に靴跡とともに烙印された。

 そうして散々、正三をボロ雑巾のごとく痛めつけあと、千代は必ず、最後に指先で陰部を撫でるのだ。薄い布に、じわりと染みができる。


 さらにある晩、いつものように正三の上で手指てゆびを滑らしていた千代は、彼の耳元で囁いた。


「もう、明日からはしてやらない」


 その吐息は何よりも甘く、そして激烈な傷を男に植え付けた。

 さらに、この時ばかりはつい絶頂に達してしまった正三を、一切責めなかった。


 まるで中々寝付けない幼児をあやすように、汚れていない方の左手で、正三の頭を撫でたのである。


 もちろん、あくる日から正三は悶々とした時間を過ごすようになった。

 皆が寝静まった頃合いを見て、あれだけ連日連夜、訪れていた千代がぱったりと来なくなったのだ。正三はそれでもふすまが開くことを待ち焦がれて、眠れない夜を繰り返した。


「千代さん、お願いです」


 彼女の耳には届かない。するりと髪をなびかせて去っていく千代の背中を、正三は困り果てたように見つめる他ない。

 そんな二人のやり取りを眺めて、姉さんは小首を傾げたものだ。

 そこにはただ、鈴が残滓ざんしとなって廊下に停滞した。


 男の凶行に、前触れはなかった。

 少なくとも鋭敏えいびんな千代でさえ、その前兆には気付かなかったのである。


 正三は夏も終わろうかとしている秋口の夜に、千代と姉が寝ている座敷の襖を開けた。姉妹は目を覚ます気配もない。


 男は息を殺して千代に忍び寄る。足裏から滲み出る汗が、畳を湿らせた。

 そうして懐から丸めた風呂敷を取り出す。

 それをゆっくりと解いていくと、一本の出刃包丁が現れた。


 それは千代の横顔を思わせるような涼しさを持っており、まるで星の瞬きにも見える。


 正三は一度だけ喉仏を上下させてから、千代の左腕を掴んだ。

 彼女はすぐに覚醒するが、もう遅い。


 彼は女の左手首を、のこぎりのように何度も往復させた。容易に肌は裂かれ、白い脂肪が露出する。そして刃はいよいよ骨に達し、それすらも絶った。


 千代の叫び声が轟いた。

 姉も雷に打たれたように飛び起きるが、事態を吞み込めない。


 家族の者が血相を変えて飛び込んできた時には、既に正三と手首の姿はなかった。

 当人も気付いていないことだけれど、あの鈴も見えない。


 千代は聡明だった。たしかに利口で、正三を見透かしていたのだ。

 では、何が足りなかったのか。

 何が彼女に油断をさせ、その左手を喪失させたのか。


 被虐的な人間は、加虐する人間よりも我儘わがままであることを、ただそれだけのことを、彼女は知らなかったのだ。


 右手は男を堕落させ、しかし左手は何をした?

 あろうことか、正三を甘やかしたのである。

 それは彼が最も望んでいないことで、より強調すれば嫌悪していることだった。


 男はいつしか女の暴力をこいねがい、それを生きがいとした。

 あざができない夜には、傷口が湯水にみない夜には、瘡蓋かさぶたかゆくならない夜には、いつだって千代を恨んだ。


 二度と陰部に触れない右手よりも、一度でも自分を受けれた左手に、虫唾むしずが走った。


 陸奥国むつのくにが青森県と改称された現在でも、ある学校の木にぶらさがっている血に濡れた手首が、赤手児あかてこという妖怪の一種として伝わっている。


 その木の根元には小さな鈴といっしょに、年頃の少女が現れるという言説げんせつがあるけれども、それが千代かどうかは誰も知らない。


 


 

 

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赤手児の鈴 深雪 圭 @keiichi0509

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