【後編】彼女が可愛いってことを知っているのは俺だけだ。これからも未来永劫、俺だけでいい。



 

 異動初日。

 環境課のオフィスが置かれている分庁舎の階段。

 連日の引き継ぎ準備のための残業で疲れていたのだろう。

 うっかり、足を踏み外した。


 ──あ、落ちる。


 身構えたが、いつまで経っても予想した衝撃はこなかった。


「大丈夫ですか?」


 そろっと目を開けると、彼女がいた。

 俺の腰を抱いて、顔を覗き込んでいる。


「怪我してませんか?」


「……」


「……」


 古めかしい分庁舎の、古めかしい階段。

 その途中で見つめ合う、俺と彼女。

 前髪の隙間から見える、メガネの向こうの瞳。

 背景に薔薇の花とキラキラしたエフェクトが広がったのは、たぶん気のせいじゃない。


 ──これが、俺と運命の女性との出会いだ。




 * * *




 俺の名前は江崎えさき和樹かずき

 35歳、独身。

 市役所で働く、ごくごく普通の男だ。


 ……。


 普通と言うには、少し語弊がある。

 周囲からは『クール』だとか『イケメン』だとか持て囃されている。

 自慢じゃない。事実だ。

 正直、あまり嬉しくはない。

 なぜなら、そのせいで普通の恋愛から遠ざかってしまったからだ。


 俺に近づいてくるのは、俺の見た目に寄せられる、なんだかチャラチャラした女性ばかりなのだ。


 俺だって、普通の恋がしたい。


 そう思っていた俺に、転機が訪れた。

 異動だ。

 新しく配属された『環境課』で、俺は運命の女性と出会ったのだ──。




 * * *






「原田です。よろしくお願いします」


 ボソボソとした話し方。

 前髪が長い上に、ずっと俯いているので表情が見えない。

 顔を上げたところで太い縁のメガネのせいで、やはり表情はよく見えないだろうが。


「よろしく」


「はい」


 身長は俺よりも小さい。160cmもないだろう。

 萎縮しているのか、キュッと縮こまっている細い肩。華奢な腰。白い肌。

 身長180cm超の俺が階段から転がり落ちるのを片手で受け止められるようには、到底見えない。


「……さっきは、どうも」


 とは言え、助けてもらったのは事実だ。

 先ほどは呆然として言えなかった礼を述べれば、小さかった彼女の肩がさらに小さくなった。


「あ、はい。ここの階段、途中に1段だけ段差が低いところがあって。踏み外す人多いんです」


「そうなのか」


「そうなんです」


 異動初日。

 午前中は前任者からの引き継ぎ書を確認した。

 午後からは部下となる課員から業務について説明を受ける。

 それを彼女が担当してくれることになったわけだが。


「……」


「……」


 おかしい。

 普段ならもっと話が盛り上がるのに。


「……」


「……」


 ああ、そうか。

 いつもなら、相手の女性が喋ってくれるから。

 彼女には、そういうつもり・・・・・・・がないのだ。

 他の女性のように、湿っぽい瞳でこちらを見つめてこない。

 そもそも、俺の顔を見ていない。


 彼女が手元の書類の角を爪で弾く。


 ──ピンッ、ピンッ。


 早く終わらせてくれと言わんばかりだ。


「……じゃあ、早速だけど頼む」


「では、まずは動物に関する業務、狂犬病予防接種から」


 ボソボソと小さな声で淡々とした説明が続く。

 数分聞けば、彼女の有能さを知るには十分だった。

 過不足なく、確実な説明。

 完璧だ。

 思わず舌を巻いた。


「以上です。ご質問は?」


「今はいい。追い追い質問させてくれ」


「わかりました。では」


 ──コッ、コッ、コッ。


 彼女が履いているのは踵が低くもなく高くもない靴で。

 その音がやけに心地よいので、思わずその後ろ姿を見つめてしまった。


「悪いな、江崎くん」


「何がですか?」


 課長の問いかけに首を傾げる。

 悪いことなど何一つない。


「つまらん女だろう?」


「それは」


 彼女のことを言っているのか?


「原田は、ほれ、あの見た目だろう? 彼氏いない歴イコール年齢ってやつだ」


 それがなんだと言うのか。


「あれの相手は退屈だろうが、ひとつ頼むよ」


「……」


 タバコ休憩のために立ち去る課長に、反論することはできなかった。




 * * *




 歓迎会という名の、ただの飲み会。


「原田〜! 処女卒業はまだか〜!」


 飲んだくれた課長のセクハラの嵐。湧き起こる笑い声。

 周囲の女性職員はなぜか楽しそうだ。

 まあ、そういうコミュニケーションなんだろう。

 槍玉に上がっているのが自分でなければ、機嫌良く喋る課長に合わせていれば、とりあえず楽しいからそれでいいのだろう。


「ははは〜まだですよ〜」


 乾いた笑いで、とりあえずといった具合に返事をする彼女。

 ここ数日、彼女を見ていて分かったことがある。

 とにかく、目立ちたくないらしい。

 何を言われても、何をされても、とにかく黙って返事をする。

 昔ながらの市役所女性職員の、お手本のような態度を崩さないのだ。


「江崎係長〜」


 酔ったふりをしてしなだれかかってくる、名前も知らない女性職員。

 最悪の気分だ。


「すみません。ちょっと」


 トイレに立つふりをして外へ出た。

 雑居ビルの屋外階段に、思わず座り込む。


「飲み過ぎましたか?」


 彼女の声。

 酔っ払って都合の良い幻聴でも聞こえてきたか。


 ……。


 ばっと勢いよく振り返る。


「お」


 彼女が、驚いて声を上げた。

 俺を、心配して来てくれたのだろうか?


「……飲み過ぎた」


「大丈夫ですか?」


「……気持ち悪い」


 息をするように嘘をついた。

 彼女に、心配されたかった。


「それは、いかんですね」


 さっと身を翻した彼女は、戻ってきたときにはミネラルウォーターのペットボトルを持っていた。


「どうぞ」


「ありがとう」


 彼女が隣に座る。

 一人分の隙間が、少し寂しい。


「……」


「……」


 沈黙。

 二人で業務にあたることも多いが、基本的には黙々と仕事をするタイプの二人だ。

 この沈黙は、それほど嫌ではない。むしろ心地いい。俺は。

 酔ったふりをして、俯いた。

 そのまま、隣に座った彼女を盗み見る。


 ──メガネを、外している。


 疲れているのか、眉間を揉みながらうんうん唸っている。

 前髪の隙間から、彼女の瞳がチラチラと見える。


 ──チョコレート色だ。


 ふうと息を吐く。

 少し酔っているのか、頬が上気している。


 ──桃色だ。


 何かを思い出して機嫌を損ねたのか、唇の形が少し歪む。


 ──柔らかそうだ。


 ……。


 …………。


 まずい、まずい、まずい、まずい。

 これはまずい。

 俯いたまま、頭を抱えた。

 これが恋?

 これが恋なのか?

 こんな煩悩を抱えて、彼女と接しろと?

 無理だ。

 無理だろ。

 顔に出る。ニヤける。ニヤけてしまう。

 どうすればいいんだ、俺は⁉︎


「ひょっ!」


 ひょ?

 急に聞こえた声に顔をあげると、隣に座っていたはずの彼女が立ち上がっている。

 元通りにメガネをかけている。残念だ。


「どうした」


「私、急用を思い出したので帰ります!」


「急用?」


 まさか男か?


「すみません、すみません!」


 あっという間だった。

 すみませんと繰り返し叫びながら、階段を駆け降りていった。


 はや。




 * * *




「でかいっすね」


 悶々としたまま終わりを迎えた飲み会の翌日には、『怪物』の後始末が待っていた。


「でかいな」


 河川敷のグランドゴルフ場。

 そのど真ん中に、怪物の骸が横たわっている。


「回収業社は?」


「まもなく到着します」


 隣で携帯を操作していた彼女が答える。

 仕事が早い。


「これ、本当に人間が倒したのか?」


「そうっすよ」


 部下のチャラ男が答える。

 俺は彼女に聞いたのに。


「我が街の謎のヒーロー! めっちゃかっこいいっすよね!」


 夜な夜な現れる怪物を、夜な夜な退治する謎の女性。

 環境課我々の仕事は、その後片付けだ。


「名前も名乗らず、地道に怪物退治。マジ頭上がんないっす」


 チャラいくせに、こういうところはちゃんとしている。

 チャラくても公務員か。


「こういうの、憧れるっす」


 ただ地道に自分の仕事をこなし。

 ただ地道に人のために尽くす。


 まるで敬虔けいけんな公務員だ。


「焼却処分許可証の決裁下りました」


 無駄話をするチャラ男と違って、淡々と仕事をこなす彼女。

 そう。まるで、彼女みたいだ。



「……何か?」


「いや」


 そうだ。

 俺もそうすればいい。

 淡々と、ちゃんと仕事をする。

 淡々と、だが確実に。

 そうして、彼女との距離を縮めていけばいい。


 それでいい。




 * * *




「言い訳は?」


「ありません」


 運命の女性と出会って3ヶ月。

 彼女が、初めて遅刻してきた。


 この3ヶ月間で、二人の距離はさっぱり縮まっていない。

 別に、それでいい。

 それでいいが、それでいいのか?


 ──おさまれ、煩悩!


 毎日唱え過ぎて、もはや呪文の言葉だ。

 二人きりで人気のない非常階段というシチュエーションも良くない。


 ──おさまれ、煩悩!


「連絡もなく1時間超の遅刻はよくない」


「おっしゃる通りです」


 叱責すると萎縮して細くなる肩。

 どうして、もっと優しくできないんだ、俺。

 優しくしようとすると、煩悩が溢れてしまいそうになるからだよ!


 とは言え、今日の彼女はいつもと様子が違う。


 なんというか、くたびれている。

 髪に艶がない。

 いつもは最低限の化粧をしているようだが、今日はそれすらもしていないように見える。


「……疲れてるなら、無理するなよ」


 思わず、言ってしまった。

 彼女も驚いている。


「なんだ、その顔は」


 あー!

 どうしてそういうこと言ってしまうんだ、俺!

 ただ心配してるって言えばいいだけじゃないか!


「いえ」


 彼女も困ってるじゃないか。

 最悪だ。


「課長には調子悪くて病院行ったって言ってあるから。合わせとけよ」


「え」


「なんだ」


「優しいのが意外で」


「意外?」


 意外?

 そりゃあ、そうだ。

 この3ヶ月、俺が彼女に優しい声をかけたことがあったか?

 ない!

 煩悩が溢れ出しそうになるからだ。

 ヘタレかよ!


「すみません! ありがとうございます!」


 走り去る彼女。

 大失敗だ。

 もう少し、こう、スマートに優しくできないのか、俺。


 それにしても、疲れて隙だらけの彼女は……。


 ……。


 …………。


 ──おさまれ、煩悩!




 * * *




 いつもなら彼女だけを残して会議室を出るところだが、いつもと違う彼女のことが気になって、こっそり会議室に戻った。

 こっそり彼女を覗き見る。

 布巾を扱う手つきが雑だし、ぷんぷん怒っているのが伝わってくる。

 いつもならそんなことはない。

 ただ、淡々と仕事をこなすだけなのに。

 やさぐれている……?


 疲れて、隙だらけで、ちょっとやさぐれている小さな後ろ姿。


 ──可愛い。


 ──眩しい。


 まずい、まずい、まずい、まずい。

 これはまずい。

 落ち着け、俺。

 いつもと違う様子だから、気になるだけだ。

 そうだ。


 こそっと、もう一度彼女を見た。


 小さくため息を吐く。

 長い前髪から、ぽたりと汗が落ちる。

 慌てて落ちた汗を拭く。

 布巾を置いて、手の甲で額を拭う。

 もう一度、小さなため息を吐く。


 ……。


 …………。

 

 ──おさまれ、煩悩!


 ……いや。

 抑えている場合か?

 否。

 抑えている場合じゃないぞ、俺の煩悩。

 こんなに可愛くて隙だらけなのだ。

 他の男どもが、彼女の可愛さに気づいてしまうのも時間の問題。

 このままでは、まずい。


 どうする、俺⁉︎


 どうするもこうするもない!

 彼女が可愛いってことを知っているのは俺だけだ。

 これからも未来永劫、俺だけでいい。


 それなら、やることは一つ!


「何か、ご用ですか?」


 食事に誘って、告白する!




 * * *




 告白は、見事に幻聴扱いされた。

 分かっていたことだ。

 こんなに唐突に、いきなり積極的にアプローチされたら、誰でもそうなる。

 だが。


「好きになる要素、なくないですか?」


 それだけは同意しかねる。

 好きになる要素しかないのに。

 彼女は、何も分かっていない。

 彼女にとっては唐突なことかもしれない。

 でも、俺にとっては唐突でもなんでもない。

 この3ヶ月、ずっと彼女を見つめてきたのだから。


「でも、かわいい」


 ──ドォン!!!


「きゃー!」


 思わず口をついて出たセリフに対する、彼女の反応を見ることはできなかった。

 店の外から轟音と悲鳴が鳴り響いたからだ。


「怪物だ!」


「こんな昼間に!」


「警察呼べ!」


 何事かと周囲を見回している間に、彼女が転がるように店から飛び出した。


「何やってるんだ!」


 追いかけて腕を引く。

 本当に何をやっているんだ。

 とにかく、逃げないと。


「逃げてください」


 何言ってるんだ。


「一緒に逃げるぞ!」


 腕を引く。

 動かない。

 え、動かない?

 けっこう強く引いているのに、微動だにしない。

 あれ?


「私、行きます」


 そういえば。

 思い出すのは、彼女と出会ったあの日。

 階段から転がり落ちそうになる俺を、平然と受け止めた彼女。


 ──嫌な予感がする。


 怪物騒動の翌日に、遅刻してきた彼女。

 そもそも、怪物騒動が起こった夜、飲み会を『急用』と言ってエスケープした彼女。


 腕を、振り切られた。


「原田!」


 叫んでも、彼女は振り返らない。


 女性らしさのかけらもない、後ろ姿。

 少しも怯むことなく怪物に向かっていく。

 看板が飛んで、刀が降ってきて、なんか爆発が起こって……。

 次の瞬間には、怪物が真っ二つになっていた。


 ──チンッ。


「原田?」


 呼びかけると、ぎこちなく振り返った彼女。


「あの、その、私」


 その顔に、血がついている。


「怪我は!」


「へあ!?」


 彼女の驚く声を無視して、思わず駆け寄った。

 腕を握って、顔を見る。腕を、腹を、背中を、足を見る。


「大丈夫です」


 全て返り血みたいだ。

 

「本当に?」


「はい。丈夫なんで、私」


 深い、ため息が漏れた。

 これは、どういうことだ。

 問いかけるまでもない。

 彼女が、名無しのヒーローいつもの女性だったのだ。


「……驚いた」


 本当に。


「すみません」


 謝る必要なんかない。


「原田だったんだな」


「はい」


 よくよく考えれば、納得だ。

 名無しのヒーローいつもの女性の働きぶりは、彼女の働きぶりと瓜二つじゃないか。


「だから、今朝は遅刻したのか」


「まあ、そうです」


「……なんで、黙ってたんだ?」


「一応、正体は隠すように言われてまして」


 正体を隠して、たった一人で戦ってきたのか、彼女は。


「あの、手。汚れちゃいます」


「そんなこと……」


 そんなこと、どうでもいいのに。

 彼女自身が、こんなに汚れているのに。

 危険に身を晒して、俺のことを守ってくれたのに。


 思わず、彼女を抱きしめた。


 もう、煩悩を抑えることなんかできない。

 俺は、この子を抱きしめたいんだ。


「今度から、隠さないで欲しい」


「……ひゃい」


 また噛んだ。


 ──可愛い。


「あと、さっきの返事、欲しいんだけど」


「へ、返事?」


「好きなんだ。付き合ってくれ」


 抱き込んだ胸の中で、声にならない悲鳴を上げている。


 驚くと変な声を出すし、キャパを超えた出来事が起こると語彙を失う。

 そんな可愛らしさもあるってことを、今日初めて知った。


 ──可愛い。


 俺だけの人になってほしい。


「返事は?」


 ──ぎゅっ。


 返事の代わりだろう。

 彼女は俺のワイシャツを掴んで、胸に顔を押し付けた。


 ──可愛い。


 もう、煩悩を抑える必要はない。






 

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干物女と係長の怪物退治日誌 鈴木 桜 @Sakurahogehoge

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