8月32日 天気は快晴 あなたは死んだ

虹ケバブ

8月32日 天気は快晴 あなたは死んだ

 そんなの、嫌……!

 こんな世界で生きていくなら、いっそ……。

 待って!ねぇ、待ってよ!


 どこまでも落ちていくような感覚とともに、声が遠ざかっていく。


 目が覚めた瞬間、何か違和感を覚えた。いつもとは何か違うけれど、知っている天井だ。

 ……そうか、ここは実家だ。ただ私は、数年前に就職して一人暮らしを始めて以来、実家に戻ってきた記憶はなかった。

 ゆっくりと起き上がりながら、状況を整理する。ついさっきまで何か夢を見ていた気がしたのだけれど、何だったのかよく思い出せない。 

 ただ、恐らく悪い夢だったのだろう。自分がじっとりと汗をかいているのが分かった。

 そもそも昨日、私は残業から帰ってきて化粧も落とさずに倒れこんだはずだった。今日も早朝から仕事で―

 そこまで考えて、カーテンの隙間から射す光に顔をしかめた。明らかに、朝のそれではないことに気が付いて、私は大慌てで枕元に置いてあった時計を手に取る。

 四分の一だ。

 時計の表示を見て、私はそんな詮無いことを思った。

 夏休みという概念が数日のお盆休みに変わってから、昨日と今日の境界線に特別な何かを感じたことはなかった。

 ただ少なくとも今この瞬間、私は久しぶりに夏休みが終わって欲しくないなどと嘯いていたあの頃のことを思い出して、ほんの少し感傷に浸っていた。

 見ていますか、数年前の私。あなたの夢は今さら叶いました。かなり変な形で、だけれど。

 時間の表示は壊れていて、正確な時間を刻まない。

 日付には、あるはずのない数字が書いてある。


 8月32日。


 この馬鹿げた情報を信じるのならば、どうやら私は、夏の続きに迷い込んだらしかった。


 洗面所の鏡を見て、さらに驚く。高校卒業とともにばっさり切った私の髪は、見事に残っていた。一日やそこらで伸びるような量でもない。

 顔もまだ少し幼く、クマはない。心なしか、肌もつやつやしている。

 いよいよ私は、この奇妙な状況を理解しつつあった。そして、残念ながらそれを飲み込まなければならないらしかった。

 リビングに戻って、冷蔵庫を開ける。ひんやりとした空気が頬を撫でた。牛乳をコップに注いで一息に飲み干す。変な味はしない。部屋の明かりも問題なく点く。

 一応、電気は通っているらしい。試しに冷房をつけてみても、しっかりと動いた。

 ただ、テレビはダメだった。モニタに映像が映らない。昔なら砂嵐が波打って通信不良を示したのかもしれないけれど、いまはそんなこともなくひたすらに無音だ。スマホも圏外で、通信はできなそうだった。

 そして、両親が家のどこにもいなかった。


 ……いや、違う。両親どころじゃない。


 生物が、いないんだ。


 いつもなら部屋の外からうるさいくらい響いてくる蝉の声が、今日は全くしなかった。鳥のさえずりも、車の排気音もしない。

 窓の向こうからさんさんと照る太陽だけが、黙って私をにらみつけていた。冷蔵庫の無機質な駆動音と自分が吐いたため息が、痛いくらい耳に刺さった。


 ……これはもう、あの頃の夏に閉じ込められた、と言ったほうが正しいのかもしれなかった。


 家にいてもどうしようもなさそうだったので、私は外に出た。

 正直に言うと、私はこの状況を少し楽しんでいた。多少の不安と恐怖はあるにしろ、どうせ、なんとかなるだろう。そんな楽観的な考えがなんとなくあった。

 鼻歌交じりにスキップする私に合わせて、久々に着てみたセーラー服のタイがのんきに振れている。こんな時だからこそ、久しぶりに着てみてもいいでしょう?

 夏の太陽が、じりじりと私の背を焦がす。陽炎がゆらゆらと揺れていた。電線が切りとる空は、雲一つない快晴だ。街路樹にたてかけられている自転車も、路肩に停めてあるトラックも、持ち主はどこへ行ったのやら。

 行く当てもなく、適当に街を歩いた。じっとりと汗が滲む。ローファーがかつかつと小気味良い音を奏でている。

 途中、涼むことを目当てにコンビニに寄った。店内は誰もいなかったけれど、合宿免許の広告が虚しく響いていて、なんだか不気味だった。入り口からすぐのところには、昨日の夕刊が所狭しと並べられている。

「誰か、いますか~……」

 申し訳程度に声を出す。当然というべきか、反応はない。

 汗が引くまで、数分涼んでから水を手に取った。レジの前にその分の代金を置いて、来た道を引き返す。この世界に誰もいないのなら、多分意味はないのだろう。

 再び炎天下に身を投じる。日焼け止め塗っておけば良かったとか、日傘差せば良かったとか、どうでもいいことが頭の中をぐるぐると回っている。

 せっかくなので、今はもうない、かつて私が愛した景色を回った。

 今はドラックストアに変わってしまったレンタルビデオ店。徹夜したカラオケ。学校をさぼって朝から本を読んでいたカフェ。深夜に補導されかかった公園のベンチ。とっくに撤去された路上喫煙所。毎週通っていた図書館。

 色々な場所の前を通るたび、そこでのなんでもなかった日常がぼんやりと思い出された。


「懐かしい」


 ふと、そんな言葉がまろび出た。

 懐かしいと思うのは、私がそんな日々のことを既に思い出だと感じているということなのだろう。「思い出」という言葉には、今とは断絶した過去であるような意味が含まれている気がする。記憶が思い出となってしまえば、私に取れる行動はアルバムのように眺めることだけだ。

 そんな感傷を許してくれるのは夢の中ゆえ、なのだろうか。それにしては感覚が明瞭すぎる気もするけど。

 最も見覚えのある風景が目に映って私は立ち止った。無意識のうちに、結局ここに来てしまったのは、果たして今の精神状態がなせる業か。

 卒業以来一度も来た記憶がない、私の母校。

 門は開け放たれている。今日くらいは、きっと踏み入れても許されるだろう。誰もいないんだし。私は深呼吸してから、中に踏み入った。


 あの頃と何も変わっていない。

 そりゃまぁ、自分が高校生に戻ってるんだし、変わるはずもないか。

 誰もいない校舎を歩く。私の足音だけが響いている。廊下の窓は開け放たれていて、申し訳程度のぬるいそよ風が吹き込んでいる。

 あの頃が楽しかったかといえば、私は素直に首を縦に振れない。決して優等生ではなかった。たくさん悪いことをした。辛かったこともあった。一般的に言われる「青春」とはほど遠いものだったと自負している。

 けれど、とても充実していたことは確かだった。

 あれから数年が経ち、私はそういうことを全部ひっくるめて、胸を張って良い青春だったと言えるようになった。後悔はない。まぁ、もう一度同じ青春が送りたいかと聞かれれば、素直に首肯はできないけれど。きっと記憶の美化や、感情の風化が少なからずあるのだろう。

 あ、そうだ。屋上に行こう。

 ふらふらと校舎を巡っている時にそう思い立つのは、道理だった。私は、しばしば屋上で授業をさぼっていた。おそらく、この学校で最も長くいたのはあの場所だっただろう。そんな人間がどうやって卒業したのかは、自分でもよくわかっていない。

 あの頃は漫然と死にたいと思って。けれど明確に死ぬ理由も、衝動もなかった。

 だから私は、のうのうと日々を過ごしていた。その感情がきっと誰もが感じたことのある不安である、ということを知ることが怖くて、逃げるように屋上に通った。

 今となっては、思春期特有の病気だったな、なんて苦笑してしまうけれど。

 階段を登り切って、ドアノブに手をかけた。私の記憶では、こちら側の扉は鍵が壊れているはずだ。ゆっくりと回して、押し開いた。熱気が勢いよく押し寄せる。スカートを抑えると、代わりに私の髪がふわりと宙を舞った。


 視界が開けて、青空が広がった。思わず一瞬だけ外の光に目が眩む。

 奥のほうで、誰か手を振っている。

 私は、その人影に向かってゆっくりと歩きだした。

 徐々におぼろげだった輪郭が、はっきりと線を描く。きっちり校則通りに着られている制服。そこから見える、白い肌。肩くらいに切り揃えられた、亜麻色の髪。

「よっ」

 私が彼女の表情がわかるくらいに近づくと、彼女はそうおどけてから、はにかんで笑った。


 ああ。


 自分の高校生活が忘れられない思い出だなんて言ったさっきの自分を、私は強烈に呪う。

 なんで、今まで忘れていたのだろう。

 その顔を見た瞬間、記憶が流れ込んでくる。

 「彼女」は紛れもなく私の親友で、今はもう会えない人だった。

 いつも私の肩に頭をのせて、どうでもいいことを話していた。

 冬は少し暖かくて。

 夏は少し暑くて。

 一緒に苦しいねって嘆いて。

 一緒に空虚だねって笑って。

 そして最後に、一人でいなくなってしまった。

「あな、たは」

 感情の糸は、言葉に織ることができず、吐息とともにぽろぽろと零れ落ちていった。

 彼女はそんな私を見て、優しく微笑んだ。


「来てくれてありがとう。おかえりなさい」


 屋上にできるほんの少しの日陰に座り込んで、私はすっかりぬるくなってしまった水をくぴりと飲んだ。飲みこむまでにひどく時間がかかってまだるっこしい。

「落ち着いた?」

 その問いかけに、私はあいまいに微笑む。

 「彼女」のことは、見た瞬間に思い出した。むしろ、今まで失念していたことが不思議でならなかった。

 何もしたくなかった高校生のある日、私は彼女に出会ったのだった。

 彼女は私と同じだった。何もしたくないし、何もできない。そうして、逃げた。

 逃げた場所すら同じだった彼女に親近感を抱かずにはいられなかった。

 だから、私たちは傷を舐めあった。

 触れたくないことは互いに触れなかった。ただ寄り添って、二人でぬるま湯に浸かっていた。

 それがどうにも心地よかったのは確かだ。だからいつまでも一緒にいたいと思っていた。

彼女とは、くだらない約束や、叶うはずのない夢の話をした。つまらない授業や受けたくないテストの話もした。時には喧嘩もしたし、その度に互いに謝らないまま、なあなあにして次の日にはいつも通りに戻った。

 そんな日々が、私は大好きなはずだった。

 けれどある日、彼女は突然いなくなってしまったのだった。どうやっていなくなったのかも、彼女の名前も、何故だか思い出せない。

 目の前にいる彼女を知っているはずなのに知らない。なんだかふわふわしているような、よくわからない感覚だった。

「あなたの名前は?」

「ヒミツ」

 彼女はいたずらっぽく片目を瞑る。

「久しぶり、だね」

「あぁ、うん……」

 多分、そうなのだろう。確信が持てない。生返事をしながら、私は上の空だった。

「これはね、神様があなたにくれた泡沫の幻なの」

 彼女はとろんとした瞳で私にそう告げた。

「私と出逢える、夢の中」

 名前も、記憶も削ぎ落された後に残った彼女の存在だけが存在しているセカイ。

 彼女が言うのなら、多分そうなのだろう。本当かどうかは知らないし、どうでもいい。

「だから、難しいことは、考えないで。あなたのその、曖昧な記憶で、私に接して」

「う、うん……」

 気圧された風に私がうなずくと、彼女は顔をほころばせた。

「ね、せっかくだし遊ぼうよ」

「まぁ、いいけど……遊ぶって、何して?」

「ずっといろいろ妄想してたじゃん!あれ、叶えちゃおうよ」

「え、あ、ちょっと……」

 彼女は私の手を取ると、半ば強引に立たせて、歩き出した。


 それから私たちは、疲れるまで遊んだ。


 軽音部室でギターをかき鳴らした。コードなんか知らなかったから、でたらめな音だった。


 校庭に白線で絵を描いた。猫を書いたはずなのに、残念ながら完成したものはとても猫には見えなかった。


 コーヒーを片手に煙草を吸った。夢の世界でなら、きっと許してくれるだろう。暑い上に苦いわ不味いわで、結局すぐにやめた。


 ホットプレートを使ってたこ焼きを作った。彼女はびっくりするくらいたこ焼きをうまく作った。コツを聞いたら、長年の努力と言っていた。


 制服のままプールサイドで遊んだ。私も彼女も、最後にはプールに落ちて盛大に笑った。水を含んでぴっちりと張り付いた制服が、今は心地よかった。


 最後に私たちはあの頃と同じように、屋上で寄り添ってとりとめのない話をした。

 いつの間にか、すっかり夕方になっていた。


 私は、肩に触れた彼女の髪を優しく梳きながらそれを見ていた。

「私、どうしてあなたのこと忘れてたのかな」

 果たしてそれは懺悔だったのか。自分でもよくわからない。

「いいんだよ、それで。過ぎたことなんて、忘れるべきなんだよ」

 彼女は、私の手を愛おしそうに包みながら、言った。

「でも、」

「いいの」

 私の言葉を強く遮ってから、彼女はまたゆっくりと話し始めた。

「それで、たまに思い出すくらいが、ちょうどいいんだよ」

 そう言って、私の手をぎゅっと握った。

 昔と同じように、彼女の甘い香りがふわりと漂う。

「ねぇ、楽しかった?」

 心配そうに、彼女が黙りこくった私をのぞき込んだ。

「うん。あの頃に戻ったみたいで、本当に楽しかった」

「そっか」

 楽しい時間だった。変わらず、私たちは笑いあった。


 ただ一つ違ったのは、私はもう「楽しかったあの頃」を楽しんでいるということだった。


 時は巻き戻せない。一度離れたら、同じところには帰れない。だからきっと、私はもう、ここにいることはできない。

「あの頃さ、私、あなたといるのが楽だったんだ」

「……うん」

「来る日も来る日も死にたーいなんて言って。結局そんな勇気なくてさ」

「……うん」

「それで、いつもこうしてた」

「……うん」

「あなたは、楽しかった?」

「当たり前だよ……!」

 彼女の瞳が、不安定に揺らめいた。

「私は、あなただけいればそれで……」

「……そっか」

 彼女の切実な言葉に、私ははっきりとした返答ができなかった。

 だって、もういない人に言っても、仕方がないのだから。

 気づけば夕日もすっかり沈んでいて、残照が地平線に広がっていた。雲に照り返った夕日の橙色と、濃紺の夜空が得も言われぬほど綺麗だった。

 この夢も、もうすぐおしまい。私はこのセカイを抜けて、またあの退屈でちょっぴり楽しい日々に戻らないといけない。

「ふう、なんか久しぶりにあなたと話せて、なんだか嬉しかった」

 私は多分生者だから、彼女とずっと一緒にはいられない。

「そろそろ行かなきゃ、だよね」

 私は立ち上がってから軽く伸びをする。ぬるい夜風が、なんだか心地よかった。

「そんなこと、ないんだよ」

 私のスカートの端をきゅっと掴んで、彼女は震える声で呟いた。

 昔と同じ。あなたは嘘をつくのが下手だった。だって、いつも困ったように笑うんだもの。

「ここにずっといられないのは、わかってる」

 彼女の指を、ゆっくりと解きほぐしていく。触れた指先は夏なのにひんやりと冷たくて、私とは違うのだな、と実感した。

「でもきっと、また来られるんでしょう?きっと来年の8月32日とか!」

 だから、せめてもの餞として。いつの日か言えなかたっのであろう、「またね」を、私は精一杯の明るい声で言った。

「……うん、そう。そうだよ。私たちはきっと、また出会えるから。だから、何度でも迷いこんで来てね」

「私、それまできっと忘れないから!だから来年もこの場所で、待っててくれる?」

「わかった。きっと待ってるから」

 そう言った彼女の表情は、寂寥の混じった今にも泣きだしそうな笑顔で。

 けれどやっぱり、私にはどうすることもできなかった。


「本当に帰れるんだよね……」

「大丈夫、信じて」

「まぁ、信じてはいるけどさ……」

 そうは言っても、帰るために一度死ぬ、というのはなんだか物騒な話だった。

 まぁ、言っていても仕方がない。私は柵をひょいっと乗り越えた。

 こうも簡単に越えられる柵に、何の意味があるのだろう。その柵を乗り越えられなかったのがあの頃の私で、その私が言う権利はないと思うけれど。

 眼下にはグラウンドが見えた。花壇が思ったより小さく見えて、足がすくむ。流石に屋外の、建物のへりでは少なからず風がある。ひゅうっと私の脚の合間を風が通り抜けた。

 けれど不思議と恐怖はなかった。


「それじゃあ、またね」

 彼女のほうを最後に一瞥する。彼女はもう何も喋らず、じっと私を見ていた。

 その姿を、目に焼き付けて、大きく息を吸い込んだ。熱帯夜特有の、なめらかな空気が肺を満たす。その瞬間、どこかで人の生きている音が聞こえた気がして、あのうざったい喧噪が、この瞬間だけは狂おしいほど好きだと思えた。

 またここに戻ってこよう。来年の8月32日まで、過去は、あの頃は、振り返らない。思い出を胸に抱いて、この夏から抜け出そう。


 そうして、私は屋上から飛び降りた。


「それじゃあ、またね」


 そう言ってあなたは屋上から消えていった。あなたの身体はトマトのようにぐしゃりとつぶれてしまうこともなく、地面に落ちる直前に柔らかな光に包まれて、綺麗さっぱりなくなってしまう。

 私は、それを黙って見ていた。

 あなたが初めてその言葉を呟いてから、何度目の邂逅だっただろうか。私はもう、それを数えることすら止めてしまった。

 屋上の柵に背を預け、ずるずるとその場に座り込む。


 また、行っちゃったね。


 そう、誰もいなくなった世界で呟いた。 

 いつものように、私とあなたが初めてここに迷い込んだあの日のことを追想する。

 よくある学校の七不思議。私たちの学校にあるうちの一つが「8月32日」だった。

 8月31日深夜の学校である手順を踏むと、夏休みに閉じ込められる。そんな内容。

 私とあなたは、それを実行して、本当に閉じ込められてしまったのだった。

 あなたはきっと死にたかったんじゃなくて、つまらない日常に飽き飽きしていたんだと思う。

 だから本当にここに来られてしまったとき、あなたは錯乱した。ここに一生いるくらいなら死んだほうがましだって言って、屋上から飛び降りてしまった。


 でもね。


 私は、本当に、死にたかった。


 何をしていても空虚で。誰の話にも共感できなくて。毎日無為に過ぎていく時間が虚しくて。どうにかしたくても、どうしようもなくて。

 分かり合えなくても、飽きもせずに黙って私に寄り添ってくれる、あなただけが救いだった。

 空虚を貪っていても、共感はされなくても、虚しく毎日を過ごしても、どうにもならなくても、あなたが、私とセカイを繋ぎとめてくれていた。

 だからあなたが飛び降りた後、私も本当は飛び降りたんだよ。


 でも、ダメだった。

 地面にぶつかる直前に途切れた意識が再び戻った時、私は832にいた。

 何回試しても、私は全く音がしなくて、鬱になってしまいそうなほど青々しい青空が広がるセカイに放り込まれた。

 それは心のどこかで戻りたくないと自分で望んでいるのか、はたまた能動的に迷い込んでしまったことへの天罰なのか、もう私にはわからない。

 ただ、「元の世界」に戻れなくてほっとしたのは確かだった。

 戻れていたら、あなたとどんな顔して会えばいいかわからない。今まで通りに接してくれるか、不安で不安で仕方がなかった。

 あなたと疎遠になるとしたら、私は本当に屋上から飛び降りていただろう。

 

 ここの時間と元の世界の時間がどう繋がっているのかは、私にはよくわからない。

 数少ない分かっていることは、あなたが完全にここから抜け出せていないこと。

 あなたはここに来るたびに私のことも、この世界に来たことも忘れているし、あなたの姿は変わらないのに、実際の年齢は増えていく。けれど必ず、あなたはこのセカイにやってくる。

 そして変わってしまった精神を曝け出して、私のことを絶望させるのだった。

 私たち、出会った頃はお互い17歳だったのに、一体どこで差がついちゃったんだろうね?

 あなたはどんどん先に進んでいくけれど、私はここで生きている。何度も何度も、同じ時間を生きている。中身の違うあなたとギターを弾いたし、校庭に絵を描いたし、煙草を吸ったし、たこ焼きを作ったし、プールで遊んだ。

 あなたは、来るたびに変わっていった。昔はもっと薄く笑っていた。わざとらしいその笑みが大好きだった。心の奥にわだかまる恐怖を覆い隠すその笑顔を、心底愛していた。

 けれどもう、あなたはそんな風には笑わない。

 多分それは、あなたが持てあましていた恐怖を赦してしまえるくらい大人になったということで、そんな風に笑えるようになれることは、世間ではとても素晴らしいことなのだろう。


 そんな風に笑うのならずっとここにいた方がよっぽどマシだと思うけれどね。


 彼女の後を追うように、柵の向こう側へ。

 無駄な足掻きだ。きっと次目が覚めた時、私は同じように832屋上で無邪気に笑っているだろう。

 人のいない町は、深い暗闇に塗りたくられている。私はその闇に身を投じた。浮遊感。地面にぶつかる衝撃は当然ながら無く、私はまた死ねなかったのだな、と思いながら漂っていた。

 あなたは、私のことを死んだと思っているんだろうけど。

 死んだのは私じゃなくてあなた。そうじゃない?

 だって生きるって、心臓が鳴っていることでも、「元の世界」にいることでもないでしょう?

 死にたいほど苦しくて、辛いなかでもがき続けることが生きるってことでしょう?

 それをやめて、つまんない日常を過ごすのは、自然に笑えてしまうのは、死んでいるのと同じだと思わない?


 けれど、それが正しいんだと、私も思う。

 だから、私はまた待ってるよ。

 ずっとここにいてくれなんて、高望みはしない。

 きっと次来た時、あなたはまた忘れてしまっているだろうけど。

 来年もまた、ここに来てほしい。

 私の事なんか、覚えてなくてもいい。

 あなたが「生きていた」ことを、今日だけでいいから思い出してほしい。

 思い出としてあなたの中にあるだけでも、私は嬉しいから。

 あなたのために、私はまた832屋上で笑っているから。


 永遠に夏に取り残された私は。


 いつでも、いつまでも、ここで待っているから。

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