「……」

「……」


 湯おけに満々と汲んだ湯を頭から被りながら、アケのこめかみはキリキリと軋む。胸中のもやは、変わらず晴れることを知らない。


 乱雑に体を洗い、どぶんと頭まで湯船に潜ってブクブクと息を漏らしながら丸まっていると、聞こえてくるのは自分の内から響く鼓動だけだ。健やかに脈打つ自分の心臓の音を聞きながら、アケは息の続く限り湯船に潜り続けた。


「弟」の心臓は、体に見合わず肥大化しているのだという。このままでは、そう長くは生きられないらしい。

 その事実に絶望した母親が泣き崩れたのは、「弟」が生まれてすぐのことだった。


「……」


 母親が「弟」に対して過保護になるのも無理はない。

 だが、それがどうして「兄」の我慢と結びつくのかアケには理解できない。


 特段、アケはわがままを言うわけではない。

 高価なものを強請ねだるわけでもない。

 ただ、絵が描きたい——それだけでいいのに、なぜそれも我慢しなければならないのだろう。


「ぶは……っ」


 とうとう息が苦しくなって湯船に顔を出せば、いつの間にか「弟」の泣き声はしなくなっていた。


 風呂から上がり、頭に手ぬぐいを被ったまま田の字の部屋に戻ると、「弟」は嬉々として、スケッチブックの余白にグリグリとコンテで何かを描いていた。


「アケちゃん。これ、マアちゃん。これ、アケちゃん!」


 小さな鼻頭は赤いままだが、満面の笑みでグリグリと描いたモンスター二体をアケに見せる。その瞬間、アケの全身を沸騰する怒りが駆け巡った。


「何でだよ、触るなって言っただろ!」


 感情のままに怒鳴りつけ、取り上げたスケッチブックの残りの余白は、ほぼモンスターで埋め尽くされていた。

 怒りが沸点を越え、もはや言葉すら出てこない。ただ全身が打ち震えるばかりだった。


「アケ、いい加減にしてちょうだい! どうしてマアちゃんに酷いことばかりするの!」


 悲鳴に近い金切声を上げる母親の掌が、ぱぁんとアケの頬を打つと、それを見た「弟」が、またわあわあ泣き始めた。


「うるさい、うるさい、うるさい!」


 抑えの効かない怒りのまま、アケはスケッチブックを引き裂いてぐしゃぐしゃに丸めると母親と「弟」に向かって投げつけた。その直後、アケの視界はグラグラと揺れて脳天を突くような音を立てた。


「え……」


 気が付くと、アケは全てが崩れ去った瓦礫がれきの中で一人佇んでいた。

 家族の姿も家もない。

 自分の周囲を避けるように、辺り一面にゴロゴロとひっくり返っている壊れた家具、傾いて辛うじて突き刺さっている柱、土煙に混じる鼻を突く臭いに呆然としながら、何とか瓦礫の山からもがき出たアケは、人工的な灯りと人の気配が消えた世界を彷徨い歩く。

 しかし、行けども行けども荒廃した光景が広がるばかりだった。


「なんで……」


 飽きるほどに見慣れたはずの景色はどこにもない。それでも、体は通い慣れた道程を寸分違わずに覚えていた。


 いつもの土手を駆け上がると、遠くに波打っていた青い瓦屋根の風景はどこにも見当たらず、銭湯の高い煙突が途中からポッキリ折れていた。

 橋桁だけがポツンポツンと、押し寄せる瓦礫にき止められた河川の間に取り残された河口付近、工場地帯の広がる辺りが、もうもうと世界を塗り潰すような黒煙を上げていた。


「そんな……」


 変わり果てた町の様子に愕然とし、その場に崩れ落ちて土手に両手をついたアケの手のひらに、何か細長くて硬い棒のようなものの感触がした。

 無意識に握って取り上げると、それは一本の鉛筆だった。

 明日探そうと諦めた、落としたアケの鉛筆だった。


「なんで、こんな時に……、こんなもの!」


 衝動的に振りかぶって投げ捨ててやりたかったのに、アケの固い握り拳は決して鉛筆を手放そうとはしなかった。

 ぶつけようのない怒りにまなじりを釣り上げて振り仰いだ瞬間、アケは瞠目して言葉を失った。


 握りしめた鉛筆の先、虚空に一本の線が引かれていた。


「……」


 恐る恐る震える拳を引き上げると、辿々たどたどしく震える線が伸びていく。

 全てが壊れて消え去った土煙ばかりが立ち上る世界に、アケの拳が握りしめる鉛筆の線が新たに加えられていく。


「ああ、ああ……!」


 恐怖と感嘆が入り混じった嗚咽に似た呼気が、じっと宙に浮かぶ線を凝視するアケの細く締まった喉の奥から漏れ出てくる。

 そして、脳裏に閃いた一縷いちるの望みを反芻する間も無く、力の抜けた膝を無理やり押し上げるように、草むらを鷲掴んでいた片手の力だけで立ち上がった。


(描かなきゃ——)


 そこからは、我を忘れて一心不乱に描き続けた。

 何枚も何枚も描き続けた町の様子を脳内に思い起こして、荒廃した世界に描き連ねる。

 瓦屋根の波、銭湯の煙突、河川の工事現場、空を舞うトンビ、暮れゆく太陽、土手の小道、豆腐屋のおやじさん、ご近所さん、悪童たち——。

 一つ一つ細かに描写するアケの周囲に、少しずつ町の景色が戻ってくる。


 アケは飲み食いも忘れて描き続けた。

 丸まった鉛筆の先を歯で削り、爪でささくれを割りながら、余白の隙間という隙間を埋めるように描き続けた。


 通い慣れた道順を追いながら、原型を留めない我が家に取り掛かろうとして、ふっと手が止まる。俄かに震える指先にぐっと力を入れて歯を食いしばると、アケは脳内に家族の姿を思い描いた。

 物静かな父親、過保護な母親、無邪気な「弟」——ちゃんと思い出せる安堵と共に家族と家を描き加えていると、血走る眦からポロリと一粒、涙が溢れた。


「ごめん……。ごめん、父ちゃん、母ちゃん、マアちゃん——」


 視界が滲み続きが描けない。

 あとはここに、自分自身を描きこめば全ては元通りになるはずだ。


 目元をぐいと拭い、嗚咽を堪えて描き続けるアケは気力のみで立っていた。両目がかすみ、何度も目をしばたかせながら、すっかりとちびて丸まった震える鉛筆の先が、と虚空を突いた時だった。


 ぐらりと世界がひずみ、全身の力が抜けたアケの手のひらからポロリと鉛筆が転がり落ちた。


「あ……」


 待ってくれ、まだ描いてない。


 慌てて鉛筆を拾い上げようとしたアケは、そのままがっくりと膝から崩れ落ちた。鉛筆は、すぐそこに転がっているのに体のどこもかしこも強張って思うように動かない。


(あと、少しなんだ……!)


 そのまま成す術もなく倒れ伏したアケのすぐ鼻の先に転がっている鉛筆が、目の前でするすると余白の世界へ消えていく。


(待ってくれ……!)


 アケは僅かに残った力を振り絞って、ちびた鉛筆に噛み付いた。

 しかしそれ以上は、しゃがかかる視界に全てが埋もれ、するすると幕を下ろした意識の向こう、アケは結局自分自身を描けないまま、だけ残して静かに解れて余白の世界に溶けていった。


 アケの存在だけが消えた町は、平常を取り戻して静かに時が流れていく。


「マアちゃん、弟がいいの」


 無邪気に笑みを浮かべる我が子の頭を、母親は優しく撫でていた。


「もうすぐお兄ちゃんになるのよ、楽しみね」


 大きなお腹と我が子の頭を撫でながら、母親は穏やかに微笑んでいた。傍には物静かな父親の姿がある。


「アケちゃん、もうしゅぐね」

「そうね、赤ちゃんもうすぐね」


「ちがうの、アケちゃんなの」


「え……?」


 待っていたかのような満面の笑みで、「アケちゃん大好だいしゅきなの」と「弟」は、そう両親に告げた。

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余白のアケ(改稿版) 古博かん @Planet-Eyes_03623

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