余白のアケ(改稿版)

古博かん

「マアちゃん、弟がいいの」

「マアちゃん、弟がいいの」


 無邪気な笑みと舌足らずな言葉で「弟」は、いつも誰彼構わず会う人会う人にそう告げる。そんな「弟」の様子に誰も彼もが「可愛いわね」と微笑んで頭を撫でる——その度に、アケはどうしてかキリキリと胸が痛んだ。


 アケの両親も穏やかな笑みを浮かべて「マアちゃんはどうして弟がいいの?」と尋ねると、「弟」は待っていたかのような満面の笑みを返して「アケちゃん大好だいしゅきなの」と答える。

 その度に、アケの胸中には深いもやが垂れ込めるのだ。


 先天的な発達障害と重い心臓病を抱える「弟」に悪気は一切ない。口から出てくる言葉にも一切の裏表がない。そんな「弟」を大人たちはこぞって「天使のようだ」と言う。だけど、アケと歳の近い子供たちはこぞって「あいつの弟、頭おかしいんだぜ」とわらう。

 その度に、アケの中には晴れることのないもやが垂れ込めるのだ。


「アケ、どこに行くの?」


 画板を片手に肩から画材の入った袋を提げて、アケが玄関へ姿を現したとき、ふと母親が声をかけた。アケが靴を履いている間、何が不満なのか終始眉根を寄せて立っている。


「また絵を描きに行くの?」


 分かりきったことを問いかける声音は、少しばかり低い。その声を聞くたびに、アケのこめかみはキリキリと軋んだ。


「明日からマアちゃん、定期入院するのよ。アケも知ってるでしょ、どうして家に居てくれないの?」


「……」


 ガラガラ、ピシャン。

 アケは少しだけ乱暴に玄関扉を閉めて足早に出ていく。定期的に繰り返されるやり取りだ、正直とっくに飽きていた。


 どうして「弟」のために自分の時間を割かなければならないのか、自分の自由を制限しなければならないのか、それが当然と思われるごとに、アケの心臓は歪な形に変化していく。

「どうして」と聞かれることに「どうして」と思う。

 つい、怒鳴り返してしまいそうになる。


 だから、アケはいつも画板を片手に家を出て、天上川の土手に腰掛けて一心不乱に町の絵を描き続ける。そうして、こめかみのキリキリとする不快感を画板にぶつけて拭うのだ。

 もう何枚描いただろう。先月買ったスケッチブックの余白は、もう数枚も残っていない。


(ああ、また買わなきゃ)


 いつもの土手の同じ場所に腰掛けて、アケは余白に町の絵を描き続ける。


 刻一刻と変化する空と、朱に染まりゆく町の姿を一瞬たりとも逃してなるかと、アケは色鉛筆を走らせる。そうしている時が唯一、心穏やかでいられるのだ。

 川向こうの遠く、青い瓦屋根の波の上、銭湯の煙突からもくもくと黒煙が立ち昇り、ゆっくりと先端から解れて空に溶けていく。

 河口付近の工場地帯では、今日も鉄骨のクレーンが忙しなく働き、一段一段建物の骨組みを積み上げていく。

 無骨な鉄の塊の遥か上空をトンビがヒョロロと飛んでいく。


「……」


 西の空を徐々に朱に染め、たなびく雲を灰色に変えながら町の陰に落ちていく太陽がゆらゆらと揺れる。アケはいつも手元が見えなくなるまで、惜しむように土手に腰掛け鉛筆を走らせ続けるのだ。

 豆腐屋のラッパがパープー鳴りながら土手の小道をやってくる。


「おーい、アケ。そろそろ帰らねえと人攫いがくるぞー」


 通りがけにラッパから口を離して、豆腐売りのおやじさんが声をかけていく。


「おぉー……」


 いつも生返事をしながら、通り過ぎる自転車のキコキコ軋む音と遠ざかるラッパの音を聞き流し、アケは日没のその瞬間まで粘るのだ。


 家に帰るのは億劫だ。

 東から群青に染まる空を見上げ、アケは溜息を漏らしながら重い腰を上げる。無造作に画材を持ち上げた時、袋から鉛筆が転がり落ちた。乏しい灯りでは草むらに沈んだ鉛筆が、どこに行ったか分からない。

 ちっと舌打ちしたアケは、イライラしながら家路を辿る。

 明日は鉛筆を探すところから始めなければと思うと、心のもやは相変わらず深く垂れ込めるのだった。


「アケちゃん、おきゃえりー」


 重たい気分のままガラガラと開いた玄関扉の音に重なるように、舌足らずで間延びした声がする。視線だけ向けると「弟」が玄関框に腰掛けて、嬉々として笑みを浮かべていた。

 何が嬉しいのか、帰宅したアケにまとわりつくように後をついてくる。


「アケ、帰ったの? ただいまくらい言いなさい」


 少し棘のある母親の声が台所から追いかけてくるのを無視して、アケは乱暴に隣の間の襖を開けると、畳の上にバサリと画材を放り出した。


「アケちゃん、これ、アケちゃん描いちゃの?」


 無邪気な様子でキラキラと大きな瞳を輝かせる「弟」は、アケの放り出した画材袋から飛び出したスケッチブックをまじまじと見つめる。

 バサリと開いたページには、今日描いたばかりの夕暮れに沈み行く町の絵が中途半端な下絵半分に覗いていた。


「触るな!」


 畳に両手を付いて、今まさにスケッチブックに触れようとしていた「弟」の手を、アケは咄嗟に弾いて叫んでいた。一瞬きょとんとした「弟」は、それから火が点いたようにわあわあ泣き喚いた。

 母親がすっ飛んで来て、ボロボロと大粒の涙を流して泣き声をあげる「弟」を両腕に庇い、立ち尽くして見ているアケを睨み付けて「どうして弟をぶつの、お兄ちゃんでしょ!」と声を荒げる。


 いつもそうだ。


「お兄ちゃんだから」

「マアちゃんは体が弱いから」

「悪気はないから」


 当たり前のように「弟」が優先され、「兄」は我慢を強いられる。「弟」の体が弱いのは「兄」のせいではないと、何度声を荒げそうになっただろうか。アケはグッと歯を食いしばり、両手の拳を握りしめて押し黙った。


「アケ。先に風呂に入ってきなさい」


 ちょうど風呂から上がった浴衣姿の父親が静かに声をかけた。「あなたからも言ってやってください」と普段より昂る母親の声を背中に受け流して、アケは黙って部屋を出ていく。

 田の字に連なる隣の部屋には、入院用と思われる大きなボストンバッグが、荷造り途中で置かれていた。

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