22、得体の知れない男と命の危機
神路神社でバイトを初めて1年が過ぎた。俺が働き始めた日には茜さんがお祝いだと言ってケーキをくれたのが嬉しかった。そんなふうに穏やかな日が過ぎていく中で静華さまや白羽さまが警戒した男のことや、静華さまが出てきた夢のことをすっかり忘れていた。
そんなある日、俺はバイトが休みで食料の買い出しに出ていた。スーパーで食料を買ってアパートに向かう。平日の昼下がりということもあって人通りはなかった。気づくと向こうから着物姿の男の人が歩いてくる。それが以前あった男だと気づいたときには、もう男は目の前にいた。
「やあ、こんにちは。今日はひとりなんだね」
「えっ…」
驚いて俺が男の顔を見る。その顔は、夢で見た血だらけで静華さまの前に膝をついていた男と同じだった。それに気づいた瞬間、俺の意識は急に遠退いて、俺はそのまま意識を手放してしまった。
目が覚めると俺は光の繭みたいなものに包まれていた。不思議に思って起き上がると、繭は俺が持っていた白羽さまの羽からできていた。繭に触るとじんわり暖かいが壊れそうはなかった。白羽さまは俺を守ってくれるものだと言っていたが、こんなふうになるんだと呑気に考えながら周りを見た。
俺がいたのは板張りの古い日本家屋みたいな場所だった。暗くてよくわからないが、所々クモの巣が張っていたり、床には埃がたまっていた。少なくとも人が住んでいる感じではなかった。最後に見たのはあの着物姿の男。あの男に拐われたと考えるのが妥当だろうと思ったが、なんで俺が狙われたのかはわからなかった。あの男が夢で見た男と同一人物なら、静華さまと親しくしているから狙われたとも思えるが、俺を拐ってどうしたいのかはわからなかった。
「とりあえず、どうにかここから出ないと」
呟いて立ち上がると繭に俺に合わせて形を変える。数歩歩いてみると繭も一緒に動いてくれた。便利だなと思いながら見つけた戸を開けてみると、そこには真っ暗な廊下があった。いったい今何時なんだと思ってポケットに入っていたスマホを出したが、時計は止まっていたし電波も圏外になっていた。とりあえずスマホのライトを頼りに廊下を歩き出す。どちらに行けばいいかもわからないなか、ゆっくり歩いていると目の前に大きな玄関が現れた。玄関に靴はない。自分の靴は履いたままだったからそのまま玄関におりて戸を開ける。玄関の外には闇が広がっていた。
「なんだここ…」
「ここからは逃げられませんよ」
愕然として呟いた俺の背後で声が聞こえる。驚いてバッと振り返るとそこには俺が意識を失う前に見た、あの着物姿の男が立っていた。
「おっと。そこから先には行かないほうがいい。迷うと永遠に出られなくなりますよ」
後ずさって玄関を出ようとした俺の手を握って男がにこりと笑う。男の手が触れた瞬間、俺を包んでいた繭はパキンッと乾いた音をたてて壊れてしまった。繭があっけなく壊れたこと、永遠に出られないという言葉にゾッとして俺は男の手を振り払えなかった。
「俺に、なんの用だよ。あんた誰?」
「ふふ、そう警戒しないで。別に危害を加えようというのではありませんよ」
尋ねる俺ににこりと笑って男は玄関を閉めた。
「ここは私には心地いいが、きみには少し暗いですかね」
男がそう言うと真っ暗だった廊下にうっすら灯りが灯る。そうするとますますこの家が荒れているのがわかった。
「ここは私の家というわけではありませんよ。あなたを連れてくるのにちょうどいい空き家があったんで借りたんです」
「外のは、あれはなんだ?」
「あれは異界ですね。この家は今、異界に浮いているようなものです。そうでなければすぐにあなたをお気に入りにしている神さまに見つかってしまいますから」
男の言葉でやはり狙いは静華さまなのだと知れた。だが、それがわかったからと言って俺にできることはなかった。
「あんた、何者?」
「私もかつては神と呼ばれるものでした。しかし、今はその地位も力もありません」
そう言って男は俺に手をのばした。男の手が俺の頬に触れる。その手はぞくりとするほど冷たかった。
「あなたは今時珍しく純粋な魂を持っていますね。目も悪くない。あなたを喰らえば、私の力もだいぶ戻りそうです」
「っ!」
ぞわっとして飛び退くと、男はクスクスと笑って「冗談ですよ」と言った。
「静華の守護のせいであなたを傷つけることはできません」
そう言って笑う男に俺は恐怖を感じた。
「さて、静華や白羽はいつになったらここを見つけられるでしょうね」
「見つけられたら、どうするつもりだ?」
自力で逃げる術はないが、静華さまたちがここに来るのもダメな気がした。俺が尋ねると男はそれまでの穏和な笑顔ではなく、暗く陰湿な笑みを浮かべた。
「ふふ、彼らがここに来たら、どうしてくれましょうね」
狂気に満ちた表情に俺は背筋が凍る思いがした。
それからどれだけ時間が過ぎたのか。俺は男とふたり、同じ部屋にいた。ぼんやりと灯りが灯っている部屋の戸の近くには男が座っている。俺はなるべく男から離れたところに座った。何時間経ったかわからないが、不思議と空腹は感じない。だが、疲労は感じる。疲労というには異常な感じだった。だんだん体が重くなってくる。そのうち俺は座ってもいられなくなり埃まみれの床に横たわった。
「辛そうですね。ここは穢れた世界。普段神のそばという清められたところにいるきみには辛いでしょうね」
心配するような言葉を笑みを浮かべて吐く男を俺は睨み付けた。
「おや、まだそんな元気がありましたか」
にこりと笑った男が立ち上がって俺にそばにやってくる。男は横を向いて寝転がっていた俺を仰向けにすると腹に手を当てた。
「何、すんだよ…」
「ちょっとした余興ですよ」
楽しげに笑った男が腹に当てた手に力を入れる。そんなに強い力ではなかったのに、俺は腹に激痛を感じて悲鳴を上げた。
「ああああっ!?」
俺が悲鳴をあげると同時に男が飛び退く。俺にかけられていた守護の力が発動したのか男の手は焼け爛れていた。
手が離れてからも腹の激痛はなくならなかった。まるで腹の中を掻き回されているような痛みと不快感に脂汗が流れた。
「安心してください。すぐには死にませんよ」
男の言葉は言い換えれば時間が経てば死ぬと言っているようなものだったが、それを問いただす余裕は俺にはなかった。
「ああ。お迎えがきたようです。また会いましょうね」
男はそう言ってにこりと笑うとふっと姿を消した。
「おいっ!しっかりしろ!」
男がいなくなってから少しして、聞き慣れた声がして目を開けると、そこには白羽さまと体が半分透けた静華さまがいた。
「ぅ…」
何か言わなければと口を開こうとするが、出てきたのか呻き声だけだった。腹の激痛は少し落ち着いたものの、ズキズキと鈍い痛みが続いている。それに、暑いのに寒いようななんとも言いがたい不快感で震えが止まらなかった。
「まずいな。このままじゃもたんぞ」
「我の神域に連れていく」
「馬鹿を言え。君にはあの神社があるだろう」
「だが…!」
静華さまと白羽さまが何か言い争っている。それはわかるのに内容は全然頭に入ってこなかった。だんだん具合の悪さはひどくなってきて、俺はまた目を閉じた。
目が覚めたのに目蓋が重くて開かない。ふわふわとまるで水に浮いているような感覚だなと思っているとちゃぷっと水の音がしてパシャパシャと近づいてくる音もした。水面が動いて体が揺れる。そこで本当に水の中にいるんだとわかった。
「目が覚めたかい?」
白羽さまの声が聞こえてゆっくり目を開けると、そこにはいつも以上にキラキラしている白羽さまがいた。
「気分はどうだ?」
「大丈夫、です…」
思った以上に掠れた声に自分でも驚く。白羽さまは安心したように笑うと俺を抱き上げて水から上げてくれた。
「ここ、は?」
「ここは私の神域だよ。あのままだと君は死んでいたからな。もう命に別状ないが、しばらくは安静にすることだ」
神域と言われてもピンとこなかったが、白羽さまが俺を抱いたまま水から出ると、視界が開けて周りの景色が見えた。
そこは青々と木が生い茂り、小鳥が囀ずり、花が咲き乱れていた。天国みたいだというのが正直な感想だった。
「何があったか、自分の状況をわかってるかい?」
尋ねられて首を振ると、白羽さまは「まあそうだろうな」と言って苦笑した。
説明するからと言って白羽さまが俺を抱いたまま立派なお屋敷に入る。壁があまりない広い部屋がいくつもあり、白羽さまは布団が敷いてある部屋に入ると俺を布団におろしてくれた。そこで初めて俺は水の中にいたはずなのに濡れていないことに気づいた。
「さっきも言ったがここは私の神域。普段人間を連れてくるような所ではない。きみを拐ったのはあの雨の日に会った男で間違いないか?」
問いかけにうなずいて答えると、白羽さまは険しい表情を浮かべた。
「そうか。先日会ったときは確証が持てなかったが、あの男はかつて神としてあった。とある禁を犯して静華によってその地位から堕とされたんだ。だから静華を恨んでいる。静華はきみを気に入っているからな。だから君が狙われたんだろう」
俺は白羽さまの話を横たわったまま聞いていたが、いまいちピンとこなかった。
「俺なんか拐って、どうするつもりだったんですか?」
「静華が悲しむ姿を見たかったのだろうさ。神の激しい感情は災厄と一緒だ。地上に影響が出る場合もあるし、最悪穢れを招いて神の地位から堕ちることもある。悪趣味なことだ」
白羽さまはそう言うと表情を和らげて間に合ってよかったと俺の頭を撫でた。
「俺、何をされたんですか?」
「腹に種を植え込まれたのさ。穢れを取り込んで成長する種だ。あのままでは体内から腐り落ちて死んでいた。だから元の場所には戻してやれなくてな。神域なら穢れはないし、種を取り除いて癒すこともできる。だからここに連れてきた。あちらでは静華がちゃんと君のことを伝えているはずだからあまり心配するな。あと数日ここで過ごしたら戻してやろう」
「すみません。ありがとうございます」
危うく死ぬところだったと聞いて俺は血の気が引くのを感じた。
「怖い思いをさせてすまなかったな。加護があったとはいえ、手遅れになるところだった」
白羽さまがそう言って頭を下げる。俺は驚いて首を振った。
「頭を上げてください。白羽さまの羽や静華さまのお守りがなかったら俺はたぶんとっくに死んでました。今生きてるのはふたりのおかげです」
「だが、そもそも私たちと関わることがなければこんなことに巻き込まれることはなかったろう?」
「それは今さらどうにもならないことです。それに、俺は静華さまや白羽さまに出会えて色々助けられました。ふたりに出会えたことを感謝してます」
そう言って俺が頭を下げると、白羽さまは一瞬きょとんとしたあと、クスクスと笑った。
「君は本当に良い子だな。さて、少し眠るといい。まだ体力は戻っていないだろう」
「はい」
言われて大人しく横になる。眠くはないと思っていたが、すぐに眠気が訪れた。
それから数日、俺は白羽さまの神域でお世話になった。不思議なもので、そこで口にしたのは水だけだったのに空腹を感じることはなかった。白羽さまは「もっと色々食べさせてやりたいが、神域のものはあまり口にしないほうがいい」と言っていた。
体の怠さもすっかり治って動けるようになると、白羽さまは俺を元の世界に返してくれた。白羽さまに目を閉じているよう言われて大人しく目を閉じる。すると、目を閉じていてもわかるほどの光に包まれ、開けてもいいと言われて目を開けると、そこは神路神社の境内だった。
『戻ったか』
上から声が聞こえて見上げると、静華さまがふわりと俺の前に降りてきた。
「えっと、ただいまです」
『怖い思いをさせたな。すまない』
「静華さまが謝ることじゃないですよ。助けてくれてありがとうございました」
そう言って笑うと、静華さまはくしゃりと顔を歪めて俺を抱き締めるようにふわりと包み込んでくれた。
『神主が心配している。行ってやるといい』
そう言われて俺はうなずいて社務所に向かった。戸を開けていつも隆幸さんがいる部屋を覗くと、そこには目の下にクマを作った隆幸さんがいた。
「あの、隆幸さん…」
「冬馬くんっ!!」
俺を見た隆幸さんは駆け寄ってくると勢いよく抱きついてきた。
「無事でよかった!おかえり!大丈夫?怪我はない?」
「えっと、ただいまです。怪我はないし、大丈夫です。心配かけてすみません」
隆幸さんの勢いに驚きながら大丈夫なことを伝えると、隆幸さんはほうっと息を吐いて「よかった」と呟いた。
「ここの神さまが夢枕に立たれてね。冬馬くんを一時的に預かった、数日したら返すって言われてね。驚いて姉さんに連絡したら冬馬くんが帰ってきてないようだって言われて、バイトにも来ないし連絡もつかないしで生きた心地がしなかったよ」
「えっと、すみません…」
白羽さまは静華さまが伝えたはずだから大丈夫と言っていたが、静華さまは恐らく心配をかけないようにとかなり簡単に伝えたらしい。結果としてそれは逆効果で、隆幸さんにかなり心配をかけてしまっていた。
「詳しくは言えないんですけど、神さまに助けてもらって、もう大丈夫です」
「本当によかったよ。神さまに気に入られすぎて隠されてしまったのかと思ったんだからね」
力の抜けた笑顔を浮かべた隆幸さんは「本当によかったよ」と言ってくれた。
「色々大変だったろう?今日はアパートに戻って休んでいいよ?」
「あ、それが、今日は神社の敷地内にいるようにって神さまに言われてるんで、無断で休んだ分もあるし仕事していいですか?」
数日とはいえ勝手にバイトを休んで行方不明になっていたのだ。心配をかけてしまったのも申し訳なくて、仕事をさせてもらおうと思ったが、隆幸さんは「それならここで休んでて!」と言って仕事をさせてもらえなかった。
結局その日は社務所の部屋で座っているうちに戻ってきたという安心感もあって眠ってしまっていた。ひとりにするのは心配だからという隆幸さんの言葉にうなずいて夜は隆幸さんの住居に泊まらせてもらった。
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