18、門出
雪が解け、少しずつ暖かくなってきた頃、俺は母親から交際している男がいることを告げられた。誕生日の時に持ってきたバラの花束を見たときからなんとなくそんな気はしていたが、いざ打ち明けられると何とも複雑な気持ちになった。ずっとひとりで苦労してきた母親に幸せになってもらいたいという思いはもちろんあるが、どこか寂しいという気持ちもあった。
結婚を申し込まれたと言う母親に、俺は幸せになったらいいと言った。会ったことはないが、バラを持ってきたときの母親の表情を見るに、母親を大切にしてくれているのだろう。それなら俺に言えることはそれだけだった。
翌週、俺のバイトと母親の仕事が休みのときに母親の交際相手と初めて会った。歳は母親と同じくらい。優しそうな、誠実そうな人だった。この人なら大丈夫だろうと思って、「母をよろしくお願いします」と言うとふたりは感極まったように俺に頭を下げてくれた。
母親の再婚が決まってひとつだけ問題が出た。それは住む場所だ。今母親と住んでいるアパートは台所と居間、風呂とトイレとあとは一間しかなかった。その一間は母親が使っている。俺の荷物は居間の箪笥に入れており、寝起きも居間でしていた。再婚相手は俺も一緒に家にきたらいいと言ってくれたが、せっかくの新婚に俺のような大きな子どもがいたら新婚気分を味わえないだろうし、母親と暮らしていたこのアパートにひとりで住むのもなんだか嫌だった。
「隆幸さん、相談があるんですけど」
独り暮らしなんかしたことがない俺は、母親に相談する前に隆幸さんに相談することにした。あわよくば新しく俺が住むところを探してから母親には独り立ちを言いたかった。
「何かな?」
首をかしげる隆幸さんに俺は母親が再婚すること、これを機に独り暮らしをしたいことを話した。
「ここのそばに安いアパートとはないですか?」
「そういうことなら心当たりがあるから聞いておいてあげるよ。お母さんたちは結婚したら住むところはどうするつもりなの?」
「再婚相手が住んでる家に行くみたいです。一戸建てで前は親と住んでたらしいけど、今は親も亡くなって独り暮らしだからって。俺も一緒にって誘われてるけど、さすがに新婚のふたりの邪魔はしたくないんで」
俺がそう言うと隆幸さんは「確かに気持ちはわかるよ」と言ってくれた。
「すぐに見つからないようなら僕の家に一時的においでよ。独り暮らしで部屋は余ってるから」
「ありがとうございます。もしもの時はよろしくお願いします」
隆幸さんの有り難い申し出に俺は礼を言って頭を下げた。
その日の夕方、隆幸さんがちょうど一部屋空いていたとアパートを紹介してくれることになった。
「ここだよ。と言っても実は僕の姉夫婦がやってるアパートなんだけどね」
そこは神社から歩いて5分ほどの距離にある1階と2階の3部屋ずつある小さいが綺麗なアパートだった。
「あなたが冬馬くんね。隆幸から話は聞いてるわ。ちょうど2階の角のお部屋が空いててね。中を見てみる?」
隆幸さんの姉は茜さんといって、隆幸さんに似た雰囲気の優しそうな人だった。部屋を見せてもらったが、1DKでひとりで住むにはちょうどよかった。家賃も隆幸さんの知り合いだからと少し安くしてくれるとのことだった。
「ここに決めたいです。よろしくお願いします」
「ありがとう。隆幸のお弟子さんが住んでくれるなんて嬉しいわ」
そう言って茜さんが微笑むと、隆幸さんが「弟子じゃないよ」と慌てた様子で言った。
「冬馬くんはバイトだけど、僕なんかよりずっと素質があるんだよ。むしろ僕が弟子になりたいくらいなんだから」
隆幸さんの言葉に今度は俺が慌てる。俺はたまたま神様が見えただけで神主とかの素質なんてないんだから。
「お母さんにはもうお話したの?」
「いえ、ある程度目処がたってから話そうと思っていたんで」
「じゃあお母さんとお話して、きちんと決まったら知らせてちょうだい。それまでこの部屋は空けておくから」
そう言ってにこりと笑う茜さんに俺は「ありがとうございます」と頭を下げた。
母親に独り暮らしをしたいことを話すと、寂しそうにしながらも了承してくれたし、再婚相手もいつでも遊びにきていいからと言ってくれた。
結婚式はあげないが、せっかく俺が神社でバイトをしているのだからお参りに行きたいと言われ、日取りを選んでお参りすることになった。
3月の大安吉日、母親と再婚相手が神社にお参りにきた。俺はバイト中だったが、手を止めてふたりを迎えた。社殿の屋根の上では事情を聞いた静華さまと白羽さまが穏やかに微笑みながら見守ってくれていた。
「隆幸さんがご祈祷してくれるって」
「まあ、そうなの?嬉しいわ」
ふたりがお参りにくると言ったら、ちょうど祈祷などの予約もないからと隆幸さんが申し出てくれた。ふたりを社殿の中に案内して、俺もふたりの後ろに座る。祈祷の時の正装に着替えた隆幸さんは社殿に入ってくると母親と再婚相手に一礼した。
「このたびはおめでとうございます」
「ありがとうございます」
「冬馬がいつもお世話になっております」
母親の言葉を少しむず痒く思いながら俺も頭を下げる。隆幸さんは家内安全や健康祈願の祈祷をしてくれた。祝詞を読み上げる隆幸さんが時々眩しそうに目を細める。隆幸さんには光の塊に見えるのだろうが、俺の目には静華さまが隆幸さんの目の前に立って穏やかに微笑んでいるのが見えた。
婚姻届の提出も終わり、アパートの退去期日までになんとか荷造りも終わらせた。母親の荷物は再婚相手の家に。俺の荷物は新しく住むアパートに。場所を知っておいたほうがいいからと3人でお互いの住まいに荷物を運んだ。母親は名残惜しそうにしていたが、それでも晴れやかな表情で新しい家に帰っていった。
俺は簡単に荷解きをすると神社に行った。もう夕方だったが、神社とアパートが近いからすぐに神社についた。
『どうした?じきに日が暮れるぞ?』
鳥居をくぐった俺に静華さまが声をかける。俺は静華さまを見上げると困ったように笑った。
「なんか落ち着かなくて。家にひとりなんて子どもの頃から慣れてるはずなのに」
『あぁ、今日が引っ越しだったか。母と離れるのは寂しいものなのだろう。人の子は十月十日母の腹で過ごす。母と血肉を分けあうのだから、人の子にとって母とはやはり特別なのだろうな』
静華さまの言葉に俺は寂しかったのかと妙に納得した。子どもの頃からひとりが当たり前で寂しいと感じたことは少なかったが、それでもどこかで母親を独占していると思っていたようだ。それが、再婚相手に取られたような気がして寂しかった。自分の気持ちを理解するとずっとモヤモヤしていたものがすっとなくなった。
「静華さま、ありがとうございます」
『何も礼を言われるようなことはしていない。だが、すっきりしたのなら今日はもう帰るといい。夜はあまり出歩かないほうがいいからな』
静華さまの言葉にうなずいて俺はこれからひとりで暮らすアパートに帰った。
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