不能魔女
ゆーく
第1話
「あまり誤解されるような行動は控えたほうが賢明ですよ」
重々しい重低音を響かせた声で告げた男は眉間に影ができるほど皺を寄せ目の前の女を見下ろした。
「誤解ではないのでそのままの意味で受け取ってくださいませんか」
蜜を含んだような甘さを匂わせる声に乗せられた言葉に男は言葉を詰まらせる。
ジワジワと目元が染まっていく男の姿に女は思わず熱を帯びた吐息を溢し、その女の姿に男は更に動揺した。
「っ、失礼します」
硬い声音で一言告げると男は女を振り切るように踵を返し早足でその場を去る。
しかし、短く刈られた髪から覗く耳は遠目にわかるほど色帯びていた。
そんな男の後ろ姿に女は不満を覚えるでもなく只々見惚れていた。
屈強な身体
短く刈られた髪
堂々とした立ち姿
けれど簡単に肌を染める純情さ
(あぁ、ほんとに……)
「なんて素敵なのかしら…」
熟れた果実のような唇から微かな吐息と共に、アユールは恍惚な表情で呟いた。
❋❋❋
アユールが最初に違和感を持ったのは3歳の頃だった。
昼寝から起きた後、愛する母親に遊んでもらおうと会いに行った時に自慢の庭園で母が貴婦人たちと茶会を開いているのを見かけた時だった。
綺麗なドレスを身に纏い優雅に微笑みながら、見た目も可愛い茶菓子と共にお茶を楽しむ様を見て、まるで映画のワンシーンのようだと思ったのだ。
そこで、はて映画とはなんだろうと疑問が浮かんだのが最初だった。
それからというもの当たり前だと思っていた周りの何気ないことが、どこか現実離れしたもののように
加えてその頃から、ある夢を見るようになった。
その夢ではアユールは
自分と同じ年の頃から徐々に成長していく様子をまるで駆け足のように流れていく夢を毎夜毎夜見た。
そしてアユールが6歳になった頃、夢の中で柑那が読んでいた物語の中に【転生】というものを題材にしたお話があることを知った。
柑那はその題材が好きだったようでその夜の夢は多種多様な【転生】を題材にしたお話を読む夢だった。
その夢を見終わり、目が覚めた時のアユールの初めの一言は「これが転生か…」だった。
どうやら自分は柑那の転生かもしれないと知ったアユールはその日から柑那と自分の環境の違いを楽しむようになった。
夢の中での柑那の成長過程は早く、柑那は6歳のアユールよりもずっと年上になっていた。
そのためか、その過程をまるで経験したかのように夢に見続けたアユールの価値観や考え方も徐々に年齢に伴わない大人びたものへと変わっていった。
夢の中の柑那はすっかり働く女性となり酸いも甘いもある程度経験し始めていた。
まるで自分の事のように追体験していたアユールも今では酸いも甘いも経験したかのような少女となった。
するとその頃には自分が周りからどのように見られているか、アユールにも分かるようになってきた。
愛する家族が向けてくれる無償の愛情がどれだけ尊いものなのかも、身近にいる使用人たちが向けてくれる親愛の情がどれほど得難いものなのかも。
そして、異性がアユールへと向ける視線の中には劣情のようなものが含まれていることが多いことも。
アユールの両親はとても美しかった。
その両親の美しさを引き継ぐように産まれ、周囲からの愛情をたっぷり与えられて育ったアユールは少女ながらとても美しかった。
加えて毎夜毎夜見ていた夢が更にアユールの魅力に拍車をかけていた。
夢の中の柑那の経験を追体験のようになぞり酸いも甘いも身に付けたアユールの雰囲気は少女らしからぬ憂いさまでも含まれるようになったのだ。
湖面に煌めく光りのように艶を帯びた銀の髪
ビスクドールのような白い肌
水を弾く花弁のような唇に
大きな薄紅色の瞳
その瞳が常に涙を含んでいるかのような潤いで揺れているものだから、その瞳で低身長故の上目遣いをされたものは尽く撃沈していった。
撃沈するだけならまだ良いだろう。
美しく育った少女を甘やかしてしまうのは仕方ないことだ。
しかし、酸いも甘いも経験したかのような憂いさはアユールの姿を一気に扇情的なものへと変えてしまった。
甘いものが食べたいと切なげに溜息を吐けば周囲のものは頬を染めて胸を押さえる。
外に遊びに行きたいと窓辺に寄り添い眼差しを伏せれば周囲のものは悩ましげに頭を降り己の職務を思い出そうと必死になる。
まだ起きたくないとベッドの中でむずがれば周囲のものは真っ赤になりながら自分の頬に気合いのビンタをくらわし邪念を払う。
そうした理性が働く者は何も問題なかった。
周囲からしたら大問題なのだがアユールからしたら害はないので全く問題ない、今後も理性の働きに期待している。
問題なのはその理性が働かない者たちだった。
アユールが8歳になった頃、父が来客と話しているところに遭遇したアユールは父に言われてその来客に挨拶をした。
夢の中の柑那の経験もふまえ、アユールとして学んだ礼儀をしっかりとったその姿は小さな淑女そのもので、アユールもコレはよく出来たのではと内心自画自賛していた。
しかし、満足気に頭をあげて得意気に来客へと目線を向けたとき、客人からの視線を受けたアユールはそんな自画自賛が吹き飛んだ。
あ、コレはまずい。と
その客人は父よりも年配の初老の紳士だった。見た目だけは。
柔和な顔を浮かべ「なんて可愛らしい娘さんだ」と微笑む姿はまさしく紳士その者なのに瞳に浮かぶ熱はギラギラと光っていた。
いくら見目が良かろうとアユールは8歳の幼女である。
そんな幼い子供に初老にもなる年齢の男が欲を含んだ瞳を向けてくるなんてある種ホラーだった。
幸いにして父も何かを感じ取ったらしく早めにその場を離されたが離れる間際まで感じたねっとりとした視線と「娘さんのお噂はかねがね」と聞こえてきた客人の言葉に、どうやら執着され始めたのは今日からではないらしいぞとあたりをつけた。
その後、その客人は父との関係を切られたらしくアユールと接触することはなかったがその初老の客人以外にも似たようなことは何度かあった。
このままではマズイのでは、と焦り始めたアユール。
父は似たようなことがある度にアユールからその者たちを離していたが父は大商会の商会長である。
今のところは反感を抱かれないよう距離をとってくれているようだが、こんなことを続けていては顧客が少なくなってしまう。
美麗な父は母も含めて美しさが齎す弊害を身に染みて知っているのだろう。
だからこそ、アユールを守る構えは鉄壁な防御を見せていたが、残念ながら客商売である。
あまり反感を買ってしまうのも良くない。
己の身を守るためにはどうすれば良いのかアユールは考えた。
まず始めに思いついたのは護身術だったが、それはすぐに却下した。
武闘を極めるのもいいがせっかく華奢なこの身体に闘うための筋肉をつけるのも勿体ない。
どうしても女性の腕力は男性よりも劣ってしまうため、それに勝るともなれば相応の筋力と立ち振る舞いが必須となる。
せっかく映画でみたような淑女になれそうなのにそれは勿体ないのではと悩んだアユール。
アユールが目指すのはティーカップよりも重いものを持てない可憐な淑女である。
爆弾蔓延るアクション女性も憧れるがそちらを目指すには少しハードルが高すぎる。
まずは銃火器から開発しなければいけない。
そんな知識は夢の中でも見ていないし見ていたとしても危険すぎるので即時却下だった。
こういう時、柑那が好んで読んでいた物語の中の少女たちはどうしていたか。
夢の中で読んだ様々なお話を思い出していたアユールはふと気がついた。
そうだ、魔女に頼もう。
❋❋❋
魔女とはアユールの住む場所から歩いて行ける距離に住む綺麗な女性のことだった。
この時代に【魔女】といわれる者はいないが、彼女の見た目と特技が、柑那が見ていた映画に出演していた【魔女】にあまりにも似ていたので、アユールは親しみと尊敬を込めて魔女と呼んでいた。
この世界に魔法はあるが扱えるものは少ない。
歴史の中では誰もが使用できる時代もあり、その時代には【魔女】も【魔法使い】もいたようだが、それが戦争に使われたことで世界は終焉に向かっているのでないかというほど疲弊したことがあるらしい。
その際に魔法を使えるものの多くが死に絶え使える者の数が減ったとか。
戦争が終わった今の世でも魔法を使える者が産まれることもあるが昔に比べて圧倒的に数が少ない。
今の世でその少ない魔法が使われるとしても各国連盟の定めで武力に使われないように決められているため、医療目的でしか認可されていない。
アユールが魔女と呼ぶ女性もそんな医療を職とする女性の一人だった。
加えて、彼女は子供好きだったため医療魔法を応用した些細な娯楽的魔法でアユールを楽しませ可愛がってくれる。
そして、彼女は春を売る女性のための医療にも携わっていた。
詳しく説明されたことはないアユールだったが魔女の家に遊びに行った際にそういった話を立ち聞きしてしまったことがあった。
だからアユールは、魔女なら男性の興味や興奮を、無くすか抑える方法を知っているのではないのかと思ったのだ。
そして、有り難くもその魔法は存在した。
彼女曰くその魔法は春を求めに来た客人が決められた時間が過ぎても欲を抑えきれない場合に使用できるよう開発されたらしいのだが、何せ魔法を使える者が少ないため実用化されていないのだという。
だから、その魔法を知っているのは開発に携わった数人だけなのだと。
それを聞いてアユールは思わず全力で飛び跳ねた。
もし、その魔法をアユールが会得できれば貞操の危機を回避できるだけではなく、かけられた当人たちにはそれがそもそも魔法だとは思わないのだからアユールが魔法をかけた犯人だとバレず、せいぜい自分の不調に首を傾げるだけではないのかと気付いたからだ。
気付いてしまったからにはもう、柑那の経験を含んでいても抑えようのないアユール全力の喜びを表現した全身大ジャンプを繰り返した。
そもそも魔法というのは理解から始まる。
魔力と呼ばれる文字を読み解き理解しその力を身に移せる者が魔法を使えるようになるのだが、先の大戦後、その文字を読むための視力を持つものが少なくなった。
そして、例え読めたとしてもその文字を理解するには膨大で細やかな知識が必要となった。
更に身に移すとなれば文字から得た知識を体感させるための感受性が必要だった。
要するに、魔法は使うにあたって資質も踏まえて、手順がとても面倒くさいのだ。
その面倒くささを乗り越えて医療魔法を身に付けた者はとても貴重で、総じて国に管理され各地へと派遣されている。
魔女もその中の1人だった。
アユールは幸運にも魔力を読む視力は持ち合わせていた。
だが、医療魔法に関する知識はさっぱりだった。
簡単な血止めの魔法ですらさっぱりだったので、夢の中の映画で見た布を巻き付けるやり方の方が早いと思って早々に諦めた経緯がある。
しかし、今回の魔法は己の身の安全がかかっている。
興味本位で試してみようとした血止めとは重要性が違う。
万が一、血が流れたらその専門の知識をもった者に治療を頼めば良いのだ。
誰かに頼れるものに自分の時間を割く気にはなれない。
アユールは、責任感をもって働く柑那の夢を見て影響も受けている少女だったが、根は多くの使用人にお世話されるお嬢様だった。
けれどそんな根っからのお嬢様気質だとしても貞操の危機のためならと、アユールは必死にその男性の性的興奮を抑える魔法を読み解いた。
夢の中での経験や知識もふまえ必死に必死に、たまに魔女と遊んでもらい、たまに甘いお菓子をつまみ、たまに美味しいお茶を楽しみながら、それはもう必死に理解し、そして身に付けることができるようになった。
魔女も初めこそアユールの貞操の危機のためという言葉に驚いていたが、アユールの見目の良さと危うさを常日頃から心配していたからこそ積極的に協力してくれたのだった。
アユールがその魔法を完璧に会得し、簡単な応用まで身に付ける頃にはアユールは10歳になっていた。
初めてその魔法を試しに使った時、人目のあるところだったためか流石にかけられた相手は興奮を表に出していなかったためアユールの魔法が効いているのかどうかはわからなかった。
わからなかったが魔法をかけた相手に襲われることもなかったため、自衛のためだとアユールは気にせず接してくる相手に不安を覚えるたびに魔法をかけまくった。
そして初めて魔法の効き目を目の当たりにしたのがアユール13歳の頃、父が営む商会に顔を出していた時だった。
とある顧客名簿の中に覚えのある名前を見つけたのだ。
その名前の持ち主はつい半年前にアユールが魔法をかけた相手だったのだが、気にすべきところはそこではなかった。
まだ歳若く浮名を流すことでも有名なその人物が定期的に尋常じゃない量を購入している商品名が記載されていたのだ。
《ハーム果酒》
いわゆる強精剤だった。
まだ歳若く浮名を流すことでも有名だった人物が強精剤。
しかも定期的に尋常じゃない量。
それを見つけた時、アユールは思わず己の両手を見つめて「おぉおおう…」と熟女らしからぬ声で感動に震えた後、天高く拳を突き上げ己の勝利に更に打ち震えた。
魔法をかけた相手に魔法が効いているかわからなかったため、応用で身につけた期限の設定は無期限としてかけっぱなしだったが、これからはもうアユールの匙加減一つで調整して反省を促すことができる。
そう、アユールのその雑な判断で既に3年魔法をかけられ続け消し炭のように消沈している者もいたのだが、欲をぶつけられそうになったアユールには関係ない。
幼い少女を不安にさせるほうが悪いのだとアユールは鼻息荒く3年前から最近までかけっぱなしだった人物たちの魔法を淑女の情けで解除した。
そして、アユールは明るい未来が開かれたと上機嫌に鼻唄を口ずさみながら「やっぱり魔女なら黒猫かしら」と己のパートナーの必要性を考え始めたのだった。
アユールがその魔法を会得したことに感謝する日々は続き、そんな中それに比例するかのように年々アユールのとある噂が囁かれるようになった。
なんでも、『アユール・マーフィに不埒な想いを抱いた者はどんな男であっても必ず不能になる』らしい。
そして、そんな噂が流れ続くといつしかアユールには陰で囁かれる名がつけられるようになった。
曰く、『男に不埒な思いを抱かせないアユール・マーフィは【不能魔女】だ』と。
その噂と渾名を知ったアユールはあまりの捻りのなさと直接的な言葉に恩師である魔女とお腹を抱えて笑い合った。
❋❋❋
クレイグ・キャンベルは王立騎士団に所属する一騎士である。
しがない下級貴族の三男坊であり、爵位を継げないながらも一騎士として誇り高く謹直に職務をこなす日々に何の不満もなかった。
なかったはずだった。数日前までは。
不満というほどではないが、ここ最近クレイグは、とあることに酷く頭を悩ませていた。
それは、男にとって不名誉極まりない文言を付けた渾名を冠する令嬢と数日前からなぜか関わることが増えたことだ。
令嬢の名は、アユール・マーフィ。
マーフィ商会の一人娘である彼女は百人に聞けば百人全員が、いやもしかすると国民全員が美しいと言うかもしれないほど、他者を魅了する女性だった。
水の煌めきを反射したかのような美しい銀髪を惜しげもなく垂らし、透き通るような肌の白さはまるで陶器のような滑らかさ。
滴を弾きそうな唇に通った鼻筋、常に潤んで見える薄紅色の瞳は思わず息を呑むほど色香に溢れ、スラリと伸びた手足に華やかなドレスに包まれた女性らしい曲線を目の当たりにすれば思わず視線が彼女の姿を追ってしまう。
そう、追ってしまうのだ。
国民全員が認めるような色香溢れる美女だ、視線が追ってしまうのは男なら仕方ないことだろう。
仕方ない、仕方ないが、しかし、アユール・マーフィだけはその無意識な反応が男としての命取りになりかねないのが問題だった。
誰もが振り向かざるを得ない美女ならば、早々に権力者に目を付けられてもおかしくないというのに、アユール・マーフィは16歳という女性が華やぐ年代の今でさえ、誰に捕われることもなく伸びやかに過ごしている。
権力者に囲われることがないとしても、アユールほどの見目麗しさと家柄であれば、彼女に見合う婚約者や恋人が居てもおかしくないのだが、その影がまるでない。
アユールの家に問題がある訳でも、アユール自身に問題がある訳でも無いにもかかわらずだ。
なぜ彼女が今も自由に日々を過ごしているのか。
それは、家や性格以上に男としては看過できない問題が発生するという噂があるからだった。
つい先日もクレイグの同僚の一人が餌食になったばかりである。
幸い3日と経たず事なきを得たらしいが、無事生還できるかは人それぞれだという。
例え数日で生還できたとしても、一度でもそんな事態に陥ってしまえば男としては恐怖以外の何物でもない。
クレイグは、例え美女であっても会ったばかりの令嬢に対して不埒な思いを抱くなど言語道断と吐き捨てることができるほどの自信がある。
自信はあるが、だがしかし、クレイグも男なのだ。
絶世の美女に憂いを帯びたような潤んだ瞳で見上げられ、白磁のような肌を淡く染めながら蜜を含んだような声で名前を呼ばれてしまえば、思わず顔面から熱を出して「そんな目で俺を見るな!!」と口中で叫びたくなってしまうのも致し方ないというものである。
そう、何故か国民全員が認めるような絶世の美女が、ここ数日クレイグに接触してくることが増え、あまつさえ秋波を送ってきているとしか思えないような態度ばかりしてくるのだ。
質実剛健と評されるクレイグであっても、歴とした男なのだ。
麗しい令嬢に好意を寄せられているかもしれないと思えば、思わず財布の紐を緩め彼女が喜ぶことなら何でもしてあげたいと思うほど浮かれてしまうのも仕方がない。
仕方がないが、だがしかし、そう簡単に心を浮き立たせてしまったら最後、男としての誇りが損なわれるかもしれないことこそが問題だった。
アユールは魔女だと言われているが、実際男の沽券に関わる事態が彼女によるものかは実は明らかにされていない。
明らかにされていないからこそ、原因が分からず不用意にアユールに近付くのは得策ではない。
そうわかっていながらも、大商会の一人娘として家の商会の手伝いに励んだり街中に繰り出して買い物を楽しむアユールを目撃してしまえば、つい蜜を求める虫の如く近寄りたくなってしまうのが哀しい男の性というものである。
犠牲になった男たちの身分が平民から貴族まで身分問わずだったというのも男たちの中で戦慄が走った。
貴族も顧客に抱える大商会の娘ながら街中にも護衛を付けて平然と繰り出すアユールはとにかく顔が広かったのだ。
そしてその分、犠牲者も多かった。
だからこそ、クレイグは安易にアユールの好意を真に受けることができない。
受けてしまったら、ましてや彼女と接する時間が増えてしまったら、クレイグがアユールに心を寄せてしまう可能性がとてつもなく大きかったからだ。
相手は絶世の美女なのだ。しかも性格も悪くなく、礼儀やマナーも備えた立派な淑女なのだ。
そんなのもう、無理だろうとクレイグは頭を抱えた。
好きにならないほうがおかしい。いや、好きとまではいかなかったとしても、思わず生唾を飲み込んでしまうのは男として仕方ないではないか。
アユール・マーフィを前にして何も感じないなんて、そんなのもう男ではない。
だが、好きになったら最後、それこそ男ではなくなってしまうかもしれない。
大問題である。
けれどアユール・マーフィは今日も輝かんばかりの麗しさでクレイグを訪ねてくるのだ。
クレイグ・キャンベルは、好意を向けられているかもしれない嬉しさと男の沽券に関わる大問題に、今日も内心で頭を酷く抱え込んだのだった。
❋❋❋
「ごきげんよう、クレイグ様」
「…、マーフィ嬢。本日はどうされたのですか」
婉然と微笑むアユールにクレイグは黙礼だけして早々と用件を聞き出した。
騎士団による一般公開演習でクレイグの勇姿を目の当たりにしたアユールはそれからというものクレイグに積極的に話しかけ、彼の予定を聞き明かし、街中を警邏しているクレイグの姿を見れば必ず声をかけるようになった。
そうやってアプローチをしているのに、クレイグは中々アユールに心を許してくれない。
数多の不埒な男を撃退しながらも、柑那が見ていた映画の俳優のような素敵な男性を夢見て探し求めていたアユールにとってクレイグはやっと見つけた理想の男性だった。
しかし、理想を具現化したような彼は一向にアユールとの距離を縮めさせてはくれなかった。
自分はクレイグの好みではないのかもしれないと悩んだアユールは、それならばクレイグの好みの女性に少しでも近付けるようにと自分磨きに精を出した。
持ち前のポテンシャルに甘えて、女としての自覚が足りなかったかもしれない。
クレイグの好みは未だ聞き出せていないが、それならばどんな男性でも振り向いてしまうような淑女を目指せば良いのだと、それはもう努力し、気をつけているアユール。
そんな努力をされてしまえばクレイグとしてはたまったものではない。
今でさえ、心臓が早く動かないよう自分を律しているというのに日に日に美しさに磨きがかかるアユールを前にして、もう逃げ出したい気分で一杯だった。
けれどクレイグも誇りある一騎士である。
敵前逃亡など以ての外。例え敵が麗しい女神に色香を併せ持つ天女のようであって反撃の術がないとわかっていてもだ。
逃げたくなる脚を地面に留め腹に力を入れ自分を律するように眉間に力を入れる。
そんなクレイグの姿に彼の内心の嘆きなど気付くはずもないアユールは胸を高鳴らせ恋する相手に素直に恋情を向けた。
「先日は贈り物をあまり気に入っていただけなかったようなので、本日は差し入れをさせていただきたく参りましたの。クレイグ様はこれから休憩に入られるのですよね?宜しければご一緒させていただけませんでしょうか」
「それが急な任務が入りまして、これからそちらに向かうところなのです。なので、申し訳ないが本日はこれで」
敵前逃亡である。
恋情を募らせたかのような潤んだ薄紅色の瞳の前では、一騎士であっても敵前逃亡してしまうのはもう致し方ないことだった。
そんな必死の防御に出るクレイグの姿にアユールは分かりやすく落ち込んだ。
輝いていた笑顔が途端に悲しみの表情になり、眉を下げながらも淡く笑みを浮かべながら「そうですか…」と微笑む姿は、胸を裂くような痛みを与えるほどの庇護欲を刺激される。
あまつさえそこに甘さを含んだ吐息を漏らされれば、クレイグは思わず『そんな顔をしないでくれ!!!』と吠え叫びたくなってしまう。
グッと言葉を詰まらせたクレイグは脳内を落ち着かせるように深く呼吸を繰り返、そうとしてアユールからとても良い香りがしたので慌てて息を止め捲し立てるように口を開いた。
「先日の贈り物も含め、本日も私のような者を気にかけていただきありがとうございます。すぐに次の任務に就かなければならないので本日はこれで失礼させていただきますが、恥ずかしながら昼飯を摂っている暇がないのです。なので、もしマーフィ嬢がよろしければそちらの差し入れをこのまま頂いて行ってもよろしいでしょうか」
クレイグの言葉に差し入れそのものも拒否されるかと思っていたアユールは瞳を瞬かせた。
そして、クレイグの誠実な優しさを理解すると花が綻ぶような笑みを浮かべ「勿論です」と嬉しそうに声を弾ませた。
普段妖艶という名が似合うアユールのそんな年相応の姿にクレイグの胸はもう剣でも刺されたのではないかというほど衝撃を受け『やめてくれ!!!』と内心泣き叫びたくなった。
内心嘆き葛藤しているクレイグに気付かず嬉しそうに差し入れを渡そうとしたアユールはふと動きを止め、少し恥ずかしそうに瞳を伏せてからクレイグをチラッと見上げた。
そして、白く細長い傷一つない指をアユール自身の口元に添えると秘密を伝えるかのようにソッとクレイグに囁いた。
「実は、初めて作ってみたのです。味見は勿論しましたので大丈夫だとは思うのですが…。クレイグ様のお口に合えば良いのだけど」
「…マーフィ嬢自らお作りになられたのですか?商会に勤める者ではなく?」
「普段は料理人に任せているのですが、クレイグ様に食べていただけるのなら…。私が、作りたかったのです」
白磁の肌を真っ赤にさせ、所在なさげに指を動かし、視線を伏せながらもクレイグの反応を伺う薄紅色の瞳に、クレイグは地面に膝をつけて嘆き叫びたいのを懸命に堪えたのだった。
❋❋❋
不能魔女 ゆーく @Yu_uK
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