水琴抄
深雪 圭
昭和5年の殺人
それはもう二十年も前の話になろうか。
幼い時分の記憶。
それは夢にも似た不思議な陶酔である。水の様に流れ、雲の様に掴み所がない。そうかと思えば、不意に鮮やかな情景として瞼の裏に蘇る。
そのような理由から、この話を
それは昭和五年の
晴天に響き渡る国歌が天皇陛下の
私の家は東京の下町にあって、宿や窯で財を成した商家である。近隣では
兄弟は上に三人あったが、大正中期に猛威を振るった相撲風邪(夏場所の力士が感染・死亡したことから、当時はスペイン風邪のことをそう呼んでいた)や天然痘で皆、
そのような理由から、家にいる子供は私と妹の
私たちは商売に精を出す両親よりも祖父母の
周囲は私の
だから私は笑顔や
日を増すごとに増長して、この小さな暴君の我儘には歯止めが利かなかったのである。
その春、私の関心事は
生家の屋敷とはいえ、年端のゆかぬ少年にとっては未知の散在する異国の世界と言える。
目に付くもの・耳に入るものは全てが新鮮で、鋭敏な五感を頼りに、探偵の如く執拗な観察を繰り返しては、認知の深度と範囲を増した。
錦鯉の泳ぐ池を
本来ならば水のない庭園における代替がそれに当たるが、先述の通り池があるため、先祖は無知か高慢か。
庭の色は季節を
辺りには三尊仏を模倣した三尊石が点在し、竿に聖母マリアの彫り込まれた
それらの隅々まで玩具とした私だけれど、なおも未踏の地があって、そこは親身で穏やかな祖父母から唯一立ち入りを厳命されていた
一段と背の高い立派な五葉松が目印で、「それ以上、先へ進んではならない」と折に触れては私たち兄妹に言い付ける禁令が、むしろ好奇心を煽る結果となったのは言うまでもない。
ついに辛抱が堪らなくなった私は、長雨の止んだ昼下がり、大人の目をかい潜ってそこへ踏み入ったのである。
何も塀の向こうだとか、柵に封じられた特別な場所ではない。散々に遊び回った庭園と地続きの空間である。
子供の足で五分ほど歩いた頃、開けた場所に出た。胸を高鳴らせる私の前に現れたのは、見慣れない
私に
中には昨晩の雨水が溜まっているが、そこへ水を流すための竹製の筒(正式には
自然に貯水されることはあっても、人為的に行ってはいないということだ。
祖父母はつまり、神仏の
秘匿されていたものが呆気なく暴かれ、その上に正体が
私は
一滴残らず水をかき出して、最後には柄杓を叩き折ってやろうと息巻いていたところで、私は宇宙に光が落ちるかのような
手を止めて何事かと耳を澄ませていると、もう一度響き渡る。
微かな音も聞き逃すまいと辺りを注意深く探っているうちに、その
私は地面に
後年になって知ったことだが、それは
庭園における音響装置で、その構造は至って単純である。
地面に僅かばかりの穴(
そこへ雨が降るなり水を撒くなりすれば、地中の甕の中へ水が滴り落ちるというわけだ。
水琴窟の本質は、その際に生ずる風雅な音色にある。落水の音が甕の中で反響して、琴の音色にも似た奥深い色を奏でるのだ。
甕の大きさや、中に入っている水の量、季節によっても音は変わるらしい。中には甕の底面に排水管が差し込まれており、一定の
起源は安土桃山時代にまで遡ると言うが詳細は不明で、江戸時代には茶室や坪庭に設置されることが多かった。しかし大政奉還後の明治には既に過去の遺物で、そう注目されたものではなかったという。
私にはその音色が途方もない星々の産声にも思われて、祖父母はどうして水琴窟を隠していたのかと不満が募ったものだ。同時に不思議にも思い、しかし大人達に訊くわけにもいかない。
それ以降、私は雨の降る度に浮き足立って水琴窟を訪れるようになった。言い付けを破る秘密の興奮と、雨の琴の音が混じり合い、一つの
さながら、それはマグラダのマリアのようだ。
彼女のアトリビュート(西洋芸術において、神や特定の人物を象徴するシンボルのことを言う。聖母マリアのそれは紺碧の
彼女はイエスの
つまりイエスの足に塗り込んだ香油は、水琴窟の中にある水である。
甕と壺の中には、罪が隠されていたのだ。
私たち兄妹は仲睦まじい間柄だったけれど、時に
水琴窟を発見してから数日の経った頃、また雨が降った。
その翌日、大人に用事があって、家には数人の使用人と兄妹が残された。
五歳になる妹の子守を任せられた一人の女中は、私の記憶が正しければまだ十代半ばの娘だったはずだ。彼女は普段から、私の我儘に
私はそんな彼女に向って、「妹の世話は自分がやる」と切り出した。珍しい申し出に娘は大層驚いたが、私に逆らえるはずもない。
こうして妹の世話役を奪い取った私は、文子を禁断の庭へ連れ出した。
先日の喧嘩が尾を引いていた私は、使用人の目を盗んで妹に
文子は私に劣らず勝ち気な性格だったが、大人への態度は
つまり私が水琴窟へ誘ったのは仲直りの殊勝な心持でもなければ、魂に染み入る美しい音色を聴かせてあげようという親切心でもない。
恐れ知らずの文子だけれど、雷や雨音には敏感で震えを上げる弱点を利用して、彼女に水琴の音を聴かせて脅かそうと考えたのだ。
幼い彼女の中では、私との喧嘩はとうに解決しているらしい。
手水鉢に辿り着いた私は笑みを堪えながら、文子の前で柄杓を振った。春の雨水は玉砂利を黒く染め上げて、ゆっくりと下へ沁みてゆく。
そうして、あの音色が私たちの産毛の生えた耳に流れてきた。
文子はびくりと肩を上げて「怖い怖い」と動揺する。
すっかり気分をよくした私は更に水を撒いて、音を鳴らし続けた。遂には
底意地の悪い私は彼女の温かい両腕を引き剥がし、突き出すように体を押しやった。
水琴窟の仕組みを理解していない文子にとって、その場から離れるという対処法は知る由もない。
混乱と恐怖に妹は地面を踏み続け、さながら気違いのように「怖い怖い」と黒髪を乱した。頬は涙で濡れ、いやいやをするように頭を振り回す。
私は満足したように腹の底から笑いを上げた。
まだ精通も迎えていない膀胱の奥では、確かにサディスティックな興奮が燃えていた。私の歓喜と、文子の恐怖の声に混じって、
文子の足元が突然崩れたのは、まさにその時だ。
首を絞められたかのような声が彼女の唇からこぼれ、なすすべもなく地中に埋まる甕へ落ちてしまったのである。
流石の私も
しかし落下の衝撃か土砂による窒息か、文子はその日のうちに死んでしまったのだ。成程、子供に水琴窟を隠していたのはその脆弱性にあったのである。
財産があるなら修理をすればいいものの、先に記したように私の尊属は池と枯山水の両方を求めるような大雑把で見栄っ張りな悪癖を持っている。外面を取り繕うことさえ出来れば、地盤や地中の甕など関係ないのだろう。
責任の所在は怠惰な使用人にあるとして、例の娘は家を追われた。
あの女は私の悪行を知っているはずだが、そのことには一切言及しなかった。
その代わり、荷物を持って門を
私は身体の芯から震え上がり、女に復讐をされまいかと、数年は毎晩のように泣きべそをかいたものだ。
手水鉢と水琴窟はすぐに取り壊されて、文子は骨になった。
私を信じて手を差し出した妹の純粋、やわらかくて温かい掌、桃色の唇に、産毛が金色に輝く珠のような肌……。
私はあの子の純真を踏み
今でも雨が降ると、文子の泣き声が私の耳元を離れない。
水琴抄 深雪 圭 @keiichi0509
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