新たなる時代の鬼

 小田原から十年、秀吉が亡くなってから二年の時が流れ、世は再び乱れていた。


 秀吉の後継者である秀頼は八歳と幼く、世を安定させる力はなかった。この状況に際し、秀吉の最大の同盟者であり五大老の筆頭であった徳川家康と、秀吉の忠臣石田三成はお互いの理想に向けて衝突しようとしていた。


 この時、義姫は最上家に戻っていた。

 石田三成が頼りにしていた会津の大名・上杉景勝は最上家とは犬猿の仲であり、最上家が徳川方に付くのは既に確定事項であった。

 しかし、政宗はこの状況に際しどういう感情を抱いているかわからない。

 おそらく、上杉に対し好き嫌いの感情はないだろう。一方で最上家に対しての感情は好悪入り混じり、複雑に縺れ合っている。

 要するに、どう転ぶかよく分からないのだ。


「伊達を何としても徳川方に引き込まねば……」


 義姫は未亡人になって十五年が経ち、五十二になっていたにも関わらずまだ髪を下ろしていなかった。

 出家するにはまだ早い、そんな思いが彼女に剃髪を思い留まらせていた。


 伊達家がもし上杉に付けば、伊達家の半分以下、上杉家のおよそ五分の一の領国しかない最上家は風前の灯である。

 だが伊達が味方に付けば、最上と伊達で上杉を抑え込む事ができる。


「於義、政宗から返答はないのか?まあさほど心配はしていないが」


 声だけ焦った風を装いながら楽観的な事を言う兄義光を見て、安堵と不安を同時に覚えた。

 自分が見た所、石田三成が相手では徳川が勝つだろうと思う。そして、政宗がそれに気が付かないほど愚かだとは思えない。しかし、この戻ってきた戦乱を目の当たりにした政宗の頭にまた野心がよみがえらないか、それが不安でならなかった。

 五十四歳の義光に対し、政宗は三十三歳。歴戦の謀将と言えど流石に衰えが隠せなくなってくる年頃の義光と、まさに今が脂の乗り切った時期である政宗では訳が違うのだ。もし三成が勝てば、豊臣の天下は揺るがなくなるだろう。

 しかし所詮豊臣家の君主は幼い秀頼であり、そのまますんなりと天下が安定するとは思えない。もう一波乱、いや一波乱以上起きる事は必至だろう。要するに、政宗が天下を取ろうと思うならば、上杉に味方した方が可能性が高いのだ。


「何、内府殿とて政宗の重要性はよくわかっている。何らかの保証はしてあるはずだ。落ち着け、狐には狸の事がよくわかる、ははははは」


 兄は自分で言った冗談に笑っていた。妹は鬼で、甥は竜。そんな中を器用に駆けずり回っていれば、羽州の狐と呼ばれもするだろう。自分はその百戦錬磨の狐なのだから、同じ百戦錬磨の狸がどうしてくるかなど大体わかると言うのである。


 確かに、この場合それで問題はないと思う。しかし、この先がどうなるのか、それもまた不安だった。この戦で家康が勝てば、さしたる波乱が起きることなく自然と権力は徳川に移行していくだろう。

 小さいとは言え大名の子であった家康は、秀吉と違い戦乱を望む者を徹底的に排除しようとするだろう。応仁の乱以来延々続いていた乱世にいい加減止めを刺したいのだ。

 乱世が終わり泰平の世になれば、狼や竜、狐は要らなくなり、犬や猫がもてはやされる時代になるのだ。その時、狐は犬や猫になれるのだろうか。竜についても同じ危惧はあったが、竜は狐より若く、その分だけ柔軟であると言えよう。ただし竜の中にあふれる野心が、竜の中の柔軟さを奪っていなければの話だが。



 幸い、我が子に関してはその心配が杞憂であった事がすぐ判明した。

 それが、母や伯父に対する敬意ではなく、自らの立場のみをわきまえた行為である事はほんのわずかではあったが悔しかったが、これで伊達も最上も生き残れるのではないかと言う事がそれ以上に嬉しかった。


「何でも百万石の墨付きを与えたそうだ。考えてみれば政宗も豊臣家に所領を半分まで削られた身、その豊臣を必死になって守ろうとする上杉と同じ道を歩く事などあり得なかったな。いやわしとした事が要らん危惧をしてしまったわ、はははは」


 兄は政宗東軍に参陣の報に呆れるほど素直に笑っていた。五十年以上この兄と付き合ってきた身ながら、こんなに無邪気に笑う兄を見たのはいつ以来になるかわからなかった。





「石田三成が処刑されたの事です」




 兄と息子の判断は正しかった。


 天下分け目と言われた関ヶ原の戦いはたったの一日で東軍が勝利、東北でも東軍に属する最上と伊達が上杉の厳しい攻撃を凌ぎ切った。


「まあな、最上は東北で真っ先に東軍方の旗を上げた身。それを加増せねば他の大名に申し訳が立つまい」


 さぞ大幅な加増が待っているのでしょうねと言う妹の言葉に、兄はまたまた柄にもなく嬉しそうな顔をした。

 確かに、最上家は大幅な加増がされるだろう。だが兄は生まれてから五十年以上、弱ではないにせよ小大名として苦労を重ねてきた人間である。それがたまらなく不安だった。

 果たして、大大名としてふさわしい振る舞いを取る事ができるのか、狐である事をやめる事ができるのか、なんとも不安になって来た。一方で政宗の百万石の墨付きは反故にされるだろうなと言う気がしていた。あの慎重な家康が、自分の本拠地である関東の近くに百万石もの大大名を置いておくはずがない。

 会津に入ってくるのは、おそらく上杉が入る以前に会津に入っていた下野の蒲生定行だ。家康の次男と共に上杉から関東を守っていた蒲生は当然徳川になついているはずであり、譜代と言うに近い。

 だがそれでいいと思う。他の大名を同盟者扱いしていた秀吉ならばともかく、家康はそんなに甘くない。内心では今の領国ですらうっとおしいと思っているかもしれない。政宗に対する好き嫌いと言うより、家康は戦乱を起こす要素を嫌っている。

 天にも昇る力を持った竜や荒れ野を駆け人を惑わす事を生業とする狐に、いや例え自分に従順な犬であったとしても、一人に大きな力を与える事を厭うだろう。大きな力の持ち主は、即天下を戦乱に燃やす火種に化けかねないのだから。




 果たしてと言うべきか案の定と言うべきか、政宗に与えられたのはわずか三万石だった。しかし、それでいいと母は思った。それ以上大きくなれば、竜が天に登る権利を得てしまう所だったから。そうなれば、竜に連なる者全てが叩き落されかねない。母はそれが恐かった。勇ましく、しかしそれでいて危険な竜の名は、死ぬまで、いや死んでも消えないのだ。狐の名も、鬼の名もまたしかりである。




 そして、その事を思い知らされるのにさほど時間はいらなかった。







「おのれ…な、何たる事だ…」




 関ヶ原から三年後、最上の後継として期待をかけていた兄の長男・義康が自刃した。

 まもなく重臣の里見民部が兄と甥の仲を讒言で裂いた事が判明したが、世間からの兄に対する評価は随分な物だった。

「確かに、太閤が死んでからずっとわしは徳川家の方角を向いていた。だが、それでもこんな結末を望んだわけではない!」

 兄の次男・家親は徳川家康に近習として仕えていた。

 家康にしてみれば自分の側にいて自分に懐いている家親に当主になってもらいたいのは当然だろう。兄が、家親が次の最上家の当主になる事を望んでいなかったかと言えば大嘘だろう。

 だが、こんな形で家親を後継者にするなど考えてもいなかった。


 それどころか、義康が自分自身以上に父の事を慮っていた事を知っていれば、あえて家康の期待に反して義康を後継者にしたかも知れなかったのに。




 しかし、世間の人間は兄に冷たかった。


 徳川家に尾を振るため、狐は邪魔な長男を死に追い込んだのだろう、そんな無責任な噂を聞かされたのは一度や二度ではない。

 狐は死ぬまで狐なのだ、そんな当たり前の事に兄は耐えられなくなっているように思えた。鬼である妹から見れば、狐が犬になろうとしてもがいたが、結局は狐らしいやり方しかとれなかったと言う風に見えてくる。



「お前は鬼である事をやめられるか?いや、その気があるか?わしは別に狐をやめようとは考えていない。ただ、やめられる自信がまるでないのだがな」



 狐だから、鬼だからこんな事をしない保証はない。そう言われてもおかしくない事は兄自身よくわかっている。

 だが、狐は年を取って怪しさを増さずに、疲れ果ててしまったように思えてくる。


「もはや済んだことです、嘆いて義康が帰ってくるのならばともかく、こうなった以上家親を後継者として育てる他道はありません」



 そして、自分もまた鬼である事に疲れていた事を感じずにいられなかった。

 もし自分が鬼であるなら、これぐらいの事を言って悩める兄を焚きつけただろう。だが、頭に浮かびこそすれどそれを叫ぶ気が起きなかった。


 あれほどまでに鬼な自分だったのに。


 実家と嫁ぎ先の二兎を追うために、息子まで手にかけようとした鬼だったのに。








 義康の死から十一年後、兄は波乱の生涯に幕を下ろした。享年六十九歳。


 そしてその翌年、豊臣家は大坂城と共にこの世から消え、この国は完全に徳川家の物になった。


 もはや、竜にも狐にも、そして鬼にも居場所はなくなったのである。




 だがそれでも、鬼は鬼らしく吠え続けるべきだったのだろう。


 夫に死なれてから三十年弱が経ち、兄まで亡くなり、曾孫まで生まれた六十七の女が未だに髪を下ろしていないのは何の為だろうか。



 世の人間は出家などと言う柄でもあるまいと抜かしているし自分でもそう思おうとしているが、どうにも納得ができなかった。今から思えば、鬼らしく吠えて最上家を何とかしろと言う兄からの託宣だったのだと言う気がする。




 しかし、兄がいなくなった最上家に、自分の居場所はないように思えてならなかった。乱世にどっぷり浸かって来た鬼姫の意見など、平和な時代に浸からんとしている人間にとっては邪魔なだけだろう、そういう思いを抱かずにいられなかった。


 自然口数は少なくなり、だんだん鬼の影は薄くなって行った。本来ならそれでいいはずなのに、なぜか不安ばかりが蓄積して行った。





 そして、その不安は的中した。兄の死からわずか八年後、最上家は御家騒動を咎められて五十七万石の領国を召し上げられた。


 あの時鬼が吠えていればこんな事にはならなかったかもしれぬ、そんな後悔がないわけではない。


 しかし、あれほどまでに二兎を追い続け、そして曲がりなりにも二兎を捕まえていた自分が、目の前の一兎に対しこれほどまでに淡白になれていたのに、正直呆れもした。


「出羽の鬼姫も、ずいぶん大人しくなったものですな」


 そしてあれから三十年余り、居場所を失った自分がようやく戻った息子の城で、城主の母を遠慮のない口で出迎えたのは、自分と一つしか違わない茂庭綱元だった。


 簡単な事だ。鬼である必要がなくなったから、鬼でなくなったのだ。いや、自ら鬼である事をやめてしまったからだ。鬼であったならば、わざわざ手にかけようとした息子を頼るような真似をする必要はなかっただろう。


「そうかもしれませんね、まもなく三代目の将軍様が誕生するとの事でございます。もはや、徳川の天下は完全に安泰となるでしょう。そんな時、鬼が必要でしょうか」


 綱元の言葉を半分否定し、半分肯定したくなった。鬼は必要だとは思っている。


 己が身を顧みず、時として非情の処置をためらいなく取る事の出来る鬼は、乱世でなくても必要ではないかと思っている。だが、それは自分のような鬼なのか、その問いには首を横に振らざるを得なかった。


 人と同じように、鬼もまた古き時代の鬼は、いずれ新しき時代の鬼に道を譲らねばならない。そんな余りにも当たり前にして今更めいた事を、こんな年になって思い知らされた気がした。


 そして息子の城に戻ってまもなく、出羽の鬼姫は鬼である事に別れを告げるかのように、七十年以上伸ばし続けて来た髪を切り落とす事にした。


 いや鬼であることに別れを告げようとしているのではなく、この世に別れを告げようとしている、髪を切り落としている自分自身がそう思えてならなかった。




 果たして。髪を下ろして一年もしない内にこの世を離れる事となった。狐がどうあがいても狐であったように、鬼もどうあがいても鬼だったのだ。

 皆は鬼である必要がなくなったので鬼をやめたのだろうと言っているが、結局そんな事など不可能であり、鬼である事をやめようとした時点で、鬼は生きる資格を失ったのだろう。

 そう考えると、目の前に迫る死と言う現実を呆れるほど素直に受け止める事ができた。自分はおそらく、安らかな顔で死んで行く事になるだろう。


 その結果、ようやく鬼の呪縛から解放されたのだろうと人は言うだろう。それならそれでいい。




 人間が何と言おうが、鬼は結局鬼でしかない。それに気が付けた事が、何より嬉しかったのである。

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義姫 @wizard-T

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