毒膳

「今からのこのこ出て行ってどうすると言うのだ!こうなったら戦うしかない!」

「勝てる見込みがあると?」

「なければこんな事を言うか!」

「残念だが兵力が違い過ぎる。そして我らの継戦能力はたかが知れている」

「ぐっ……だから一戦だけでよい!一戦して勝利を得て、その勝利を楯に話を有利な方向に持って行くのだ!」




 己が期待に反し、龍が必死に熊と思い込ませていた兎を楽に喰らってしまってから一年余り、いよいよ虎の親玉がその牙を龍に向けて来た。


 すぐさま我が足元にひれ伏し、未だ自らに歯向かう獅子を共に喰らうべし。さもなくば、獅子を喰らいし後に龍を喰らう。


 猿と呼ばれる事の多い虎の親玉は、まさに最後通牒と言うべき書状を投げ付けて来た。

 そして今、伊達の御家は虎の親玉の放ったその一枚の書状により大騒ぎになっていた。


「北条家はそう簡単に屈するほど柔な家ではない!」

「佐竹家も既に豊臣になびいている!今や豊臣の敵は我々を除けば北条のみだ!そして、我々だけなら佐竹に加え上杉や前田と言った北陸の連中を使えば十分凌げてしまう。その間に東海道からやって来た雲霞の如き軍勢が小田原を飲み込むぞ!そうなったら我々は文字通りの孤立無援だ!」

「小田原を飲み込む!?小田原を囲むのに何万人要ると思っているのか?その何万人の食糧をどうやって供給する?」


 武闘派の伊達成実が必死に主戦論を唱える中、知略派の片倉小十郎は必死に降伏論を唱えていた。

 成実・小十郎それぞれに同調する者もいれば口を開かず考え込んでいる者もいる。一方で上座の政宗は何も言わない。戸惑っているのか、それはありえまい。

「ご決断を!」

 必死な顔で決断を迫る成実を見てなお、政宗は何も言わない。

「何を迷っておいでなのですか!和戦いずれの決断を下すにせよ、早く決断を下さねば手遅れになる危険性がございますぞ!」


 そしてそれに続く小十郎の言葉に、ようやく政宗は口を開いた。


「わかったわかった、関東に放った間者が情報を持ってくるはずだ。あと三日待て」


 政宗の結論は、案の定先送りだった。迷っているのではなく、相手の状況が分からないのでは何もできないと言う事なのだろう。

 そして実際それが最善手だっただろう。




 それでその二日後、間者が政宗にもたらした情報は最悪のそれだった。


「秀吉は小田原城の包囲を既に開始、兵の数は十万は下りませぬ。秀吉の軍の補給は完璧であり、水軍まで使って兵糧を運搬させております。城内の兵糧を全て食べ尽くさせて落城に追い込む作戦を得意としていただけに、その辺りは見事な物です」


 成実の言う兵糧の問題は、秀吉にとって全くの杞憂であった。兵糧が関係ないとなれば、どう考えても兵数が多い方が有利である。いくら小田原城と言う無双の要害があるとは言え、豊臣軍はこれまで小田原城を攻めて落とせなかった上杉謙信軍・武田信玄軍のどちらよりも数が多く、将の質も全国から選りすぐられているだけに高いだろう。

 一方で北条の兵士は大戦から離れているだけに中央で戦場を駆けずり回っていた兵と比べると質的に見劣りしてしまい、また大将たちにも同様の事が言えるだろう。

 よほどの事が起きない限り、北条が豊臣に飲み込まれる事は避けられまい。そうなればその次に豊臣に飲み込まれるが伊達である事は、火を見るより明らかだった。



「ええい、あと十年早く生まれておれば!」



 政宗はこう無念の叫び声を上げたそうだ。確かに十年前は織田の全盛期だったが、それでも織田信長の勢力圏は家康の領国を含めても西は備前から東は遠江までしかなく、いくら織田が巨大でも伊達との間にはまだ武田と上杉と北条がいたし、西には毛利と長宗我部と島津がいた。

 だが今や武田は滅び、上杉・毛利・長宗我部・島津は豊臣に服している。今の豊臣の力は織田の全盛期を軽く上回っているのだ。叫びたい気持ちはわからない訳ではないが、叫んだ所でどうにもならない。


 再び招集された会議で、政宗の口から小田原の現実を知らされた伊達首脳陣の顔色はとてつもなく暗かった。


「もはやこれまでだと言うのか……」

「今さら降伏などできるか!」

「しかし降伏しないとなると」

「だからかねがね述べているように一戦だけでよい!一戦だけでもせねば気が済まん!」

「勝ったならばともかく、負けたらどうなる?」


 それでも、成実だけは必死に抗戦論を唱えていた。

 そして、それに反論する声は小十郎のそれしかなかった。だが小十郎の声に頷く者はいても、成実の声に頷く者はいない。


「……いくら竜でも時節には勝てぬ、やむを得まい」


 会議の流れを読んだのであろうか、政宗はついに苦渋の決断を下した。


「それでは……!」

「小田原に参陣する」


 この政宗の決断に必死に抗戦論を唱えていた成実がわずかに困惑の表情を見せただけで、後の者たちは一人残らず満面に苦渋の表情を浮かべながら政宗の言葉に頷いた。


 だが、自分にはもう遅いと言う言葉しか出て来なかった。


「その時は小次郎をお立てになり、豊臣と戦うなり和するなり好きにしてください」


 政宗は爽やかな表情で宴席を囲もうとしていた。同席者は母と小次郎の二人だけである。その割に、妙に酒が多い。


「北条は持つと信じています。忠義の証に最前線に立てと秀吉は命じて来るはず。その時は伊達の力を天下に見せ付けてやりますよ」


 そんな機会が巡って来るのだろうか。

 いくら秀吉が寛容でも、二年以上も「関白」の出した命令を反故にし続けたような相手をほおっておけば、威厳などなくなる。伊達家はともかく、政宗はもう助かる気が全くしなかった。


 出羽の鬼姫、そう人は自分の事を言う。無論、本意ではない。


 だが、言わせたい奴には勝手に言わせておけとも思う。自ら戦場に乗り込み嫁ぎ先と実家の戦争を止めたのは、一昨年が初ではない。

 その十年前にも、夫と兄の戦を止めるべく夫の陣に乗り込んだ。一度ならばともかく、二度もそんな事をやる女がいると言うのだろうか。


 そんな女が、鬼と呼ばれるのも無理はなかった。


 だが、自分は守りたいのだ。最上も、伊達も。一人で二つの家を守るなど無茶なのはわかりきっている。

 それでも、実家も嫁ぎ先も等しく大事だ、守りたい。ただそれだけだ。我が子政宗が愛しくない訳ではない。


 しかし、伊達の御家よりは愛しくなかった事、それだけは揺るぎようがない本音だった。



「小次郎、これがお前と食べる最後の膳になるかもしれぬ。よく味わえよ」



 今度の事で、出羽の鬼姫から日の本の鬼姫になるだろう。それでもよいのだ、伊達の御家さえ守る事ができれば。


「どうした小次郎?」

「いえ……考えてみれば兄上と食事を共にするのが久しぶりだったので……それに……」

「案ずるな。わしは必ず帰ってくる」


 政宗はそう軽口を叩きながら漬物を箸でつまみ、口に運んだ。




「うっ……」




 その途端、政宗は苦しみ出した。




「小次郎、まさか……」

「兄上、そ、それがしは……」


 小次郎の言う通り、毒を入れたのは小次郎ではなく自分だ。


「母上と二人してわしを殺すか、理由は斟酌してやらんでもないが……!!」




 小次郎は関係ない、そう叫ぶ暇もなく政宗は近くにあった刀を抜いて小次郎に斬りかかった。




「うわああああっ!!」

「あああああっ!!」


 毒にやられながら必死に力を奮い起こして斬りかかった政宗の叫び声と、政宗の刀によって袈裟懸けに斬られた小次郎の悲鳴が鳴り響いた。







「殿、いかがなさいましたっ!!」







 当然の如く、二つの悲鳴に呼応して重臣たちがやって来た。自分はそのどさくさに紛れるかのように、脱兎のごとく部屋から逃げ出していた。




「毒膳じゃ……」

「毒膳だと!いかん、早く解毒薬を持って来い!」



 重臣たちが駆けつけたのが早かったうえに少量だったから、政宗は助かるだろう。小次郎も、毒で力を奪われた人間の太刀だったから助かるかもしれない。

 しかしおそらくは政宗だけ助かると言う事になるだろう。産みの母に殺されそうになった政宗は何とも哀れな男だ。

 秀吉とてその哀れなる男の事情を斟酌しないほど狭量ではあるまい。万が一両方とも助からなかったら、政宗の叔父である成実を立ててしまえばいい、と、足を必死に動かしながら伊達家の行く末を異様なほど冷静に考えていた。


 長男に毒を盛って殺害を謀るなどという、とんでもないなどという次元では済まされない事をやりながらこうも頭を冷たく回している自分は、やはり鬼なのだろう。

 鬼によって地に引き摺り下ろされた竜を喰らおうとするほど、虎は残忍ではあるまい。ここまで残酷な事をした鬼に対し虎とて怯まない訳には、そして竜に対して同情を抱かない訳には行くまい。


 自分にとって大事なのは伊達の御家だけだ。伊達の御家を守るためなら、政宗も小次郎も、そして自分を犠牲にしても全く惜しくなかった。








「よかったな、もう少し遅かったらその首を刀で叩いておったぞ。それにしても、難儀な母を持った物じゃな。わしのおふくろの様な優しい母がおればおぬしも苦労はしなかっただろうな」


 秀吉はそう言いながら政宗の首に杖を当てたそうだ。


 小次郎は政宗の振るった刀により泉下の住人になってしまったが、伊達家を守る事には成功した。

 その点では、悪くはない結末であった。だが、確かに難儀極まりない母だが、そうでなければ苦労しなかっただろうと言う言葉は否定したかった。

 もし自分が秀吉の母の様な優しい人間だったら、政宗は天然痘により失明した右目を気に病み自暴自棄になって暴君化して追放されるか、同じ理由で小さくなって生きているかのどちらかで、とても竜などと呼ばれる男にはならなかったろう。

 別に死んだわけではないのだ、古来より隻眼の武将など山といる。別に夫を非難するわけではないのだが、そう尻を叩くような母でなければ政宗のような猛将は育たなかった、それだけは曲げたくなかった。


「まあ予想の範囲内の処分だ、さすがに関白殿下も伊達の力を無視できなかったと言う事であろう」


 帰ってきた政宗はそう居丈高に言い触らしていた。


 惣無事令に違反した事によりその後の戦いで獲得した領国を全て没収され、伊達家の領国は三春城の戦い以前の状態に戻った。

 それ以外に何もやましい所などないのだから、それ以上の処分を受ける必要などないのだと言わんばかりである。


 そんな我が子を見ていて、自分は鬼姫をやめる事はできないだろうなという予感がひしひしと湧き上がっていた。

 母が見た所、政宗は野心をまるで捨てていない。そして秀吉は、その野心を取り除く気が全くなかった。あれほどまでに自分の命令を踏み躙り続けた政宗に対し、惣無事令発布後に獲得した領国を全部召し上げると言う甘い処分を下した。

 あと一歩で天下統一と言う所まで来ていた秀吉にしてみれば、一刻も早く戦乱を終わらせたかったのだろう。ここで政宗をむやみに処罰すれば、残された家臣団が徹底抗戦して面倒なことになると違いないと踏み、こんな寛容な処分を下したのだ。

 また秀吉自身が出世街道と下剋上の象徴のような人物であり、自らの禄と地位を高める行為に対しどれだけ貪欲であったかは想像に難くない所である。世の大名たちのほとんどは自らと同じ穴の貉だと思っている節があるし、実際そうであった。

 他の大名は秀吉にしてみれば主従関係と言うより、同盟相手の様な存在に過ぎないのだろう。それはそれで立派なやり方だと思う。


 だが、我が子を見ている限りそのやり方はうまく行きそうになかった。秀吉は自身が出世欲の塊であっただけに他者の野心にも寛容である、と言うより寛容にならざるを得なかった。

 八年前の秀吉はただの織田配下の一武将に過ぎない。いくら実質的に信長の後継者になった所で、たかが八年で権威が付く訳ではない。

 豊臣と言う新たなる姓を作ろうが、関白になろうが、それは秀吉の権威であって豊臣家の権威ではない。

 秀吉は既に五十五歳、政宗は二三歳である。秀吉がいなくなったら政宗の様な野心の持ち主をどう抑えると言うのだろうか。


 その時、また鬼が必要になる。義姫はそんな予感を覚えていた。

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