脱学校的人間(新編集版)〈33〉
親による子どもに対する収奪は、子どもが「親そのもの」である限りにおいては可能ではないし、成立もしない。少なくとも、その「もの」の自立性に親自身が気がつかない限りは、それはけっしてできないことなのである。
では、親は一体どのようにして「そのこと」に気がつくことになるのだろうか?
イリッチは、自身の体験として次のような印象的な話をしている。
「…私は雇い夜警人であるマルコスと、理髪店で働いている彼の十一歳になる息子のことについて話をしていた。私は、スペイン語で、彼の息子はまだ『子供』だといった。マルコスは驚いて、『イヴァン旦那、たぶんあなたのおっしゃるとおりでしょう』と、正直そうなほほえみをうかべながら答えた。私がそんなことを言うまでは、その父親は息子マルコスを、第一に彼の『息子』だと考えていたのだということを知り、私は二人のちゃんとした判断力をもった人間の間に、子供時代というカーテンをひいたことに罪を感じたのである。…」(※1)
そのときイリッチはマルコスに、彼が「息子を働かせていること」について、あるいは何か咎めるように言ったのだったかもしれない。たとえば、「君の息子はまだ子どもではないか、そのような子どもを生活のために働かせるというのは、けっしてよいことではない」とでもいうようにして。
使用人のマルコスから、理髪店へ働きに出ている彼の息子の話を聞かされたイリッチには、「親とは別個の存在」としてその息子のことが見えていた。それはたしかに「近代人」として当たり前の判断であった。しかしマルコスにとって彼の息子が働きに出るということは、「彼自身が働くことと同様の意味を持つこと」でしかなかった。彼自身が旦那=イリッチの下で雇われて働いているのと同様に、彼の息子は「床屋の旦那」に雇われて働いているのにすぎないのだと、マルコスは何ら疑いもなく、ただ純朴にそう考えていた。自分がしているようなことを自分の息子もまた同じようにしている、彼にとってそれはただそれだけのことだった。それがマルコスにとっては「当然の判断」でもあったわけである。
そこでもしイリッチが、たとえばマルコスの息子が働く理髪店に飛んでいって、「君は親から無理やりに、しかも不当に働かされているのだ」などと肩でも揺すらんばかりに説得を試みたとしても、マルコスの息子はその父親と同様、イリッチの言葉にただただ困惑するばかりだっただろう。彼の親が働いているのであれば彼自身もまた同様に働くということが、なぜそのように「不当なこと」になるのだろう?彼にはそのことの意味を、どのようにも理解することができなかったに違いない。
ところでこのように、親と子が同じように働くということが当然の判断であるような現実の生活を暮らしている人たちの間に、「別々の現実を生きさせるようなカーテンを引く」のは、一体「誰」なのだろうか?
それはまさしく、「他人」なのである。
たとえばこの場合ではイリッチのような、マルコスたちにとって「親でも子でもない他人」が、彼らの間に入ってきて躊躇なくそのカーテンを引くのだ。それによって、彼ら親子の「一つの身体から、その手足を別々なものとして分割する」のである。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 イリッチ「脱学校の社会」東・小澤訳
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