脱学校的人間(新編集版)〈32〉
いわゆる「近代まで」として区切った場合の、子どもの労働のその「働き方」というものとは、端的に言えば「家の仕事をする」という意味合いに集約されるのだと見てよい。そしてその「家」というものは、すなわち「親自体」のことを同義的に指しているのでもある。仮にもしそれが「親のいない子ども」であったとしても、あるいは自分の生家から「よその家」に奉公や修業に出されたのだとしても、その「親の代わり」というのは、たとえば「親方・ご主人・旦那さん」といった者らが、それに相当する立場に立つということになるわけである。
いずれにしてもその「親と子の間の関係性」は、どの場合であっても本質的には何も変わらない。子どもは「その家の子ども」であり、かつ「その親の子ども」として、その家あるいはその親の仕事を親と同様にする、ということになる。子どもはそこでまさしく、「親の手足」として働く。その親あるいはその家の仕事を、子どもが実際にその手足となって働くわけである。ここで子どもはまさしく「親あるいは家という身体の手足」となる。そしてそのように、親あるいは家の身体である限り、子どもは「親あるいは家のもの」ということではなく、むしろ「親あるいは家そのもの」なのである。「親」と「子」というように、それらを分割して別々に見出すことはできない。身体というものは、けっして分割することなどできないのだ。
だからたとえば現代で考えられているような、「子どもは、それ自身として個々の個人である」というような認識はここには全くないのであり、またそのように意識する視点自体が、ここではそもそも全く成り立たないのだ。ここにおいて「子ども」は、親にとってあくまでも「自分自身」なのである。だから「親が子どもから収奪する」などということは、この段階において実は全く「できないこと」なのだ。もしそれができるというのならば、親は「自分自身を収奪する」ことになる。つまり自分で自分自身を食いつぶすというだけの話になってしまう。これは全く不条理な話だ。
「子どもは親あるいは家そのもの」であるような関係性の段階においては、親は「子どもから収奪すること」ばかりでなく、「子どもを支配すること」も、あるいは「子どもを所有すること」もまたけっしてできない。そもそも支配や所有とは「その人から分割しうるもの」しか、「その人のもの」として支配し所有することができないような関係様式なのである。「その人そのもの」は、その人自身にはけっして所有することも支配することもできない。もしそれができるとすれば、「その人そのものが、その人から分割されていることになる」のだから。
支配や所有は、その「もの」が「その人から分割されること」によってはじめて可能になる。「その人そのもの」から分割されてはじめて、その人はその「もの」を見出し、それを「その人のもの」として所有し支配することができる。言い換えると、その「もの」は「その人から分割されること」によってはじめて「その人から自立」して、その「もの」として存在しはじめるのだ。
このように、その「もの」が「その人自身から分割されること」で、ようやくそこではじめて「その人が所有し支配することができるもの」となるわけだが、それと同時にその「もの」は、「その人が手放しうるもの」として、ゆえに「その人から収奪しうるもの」としても、「その人自身から分割されている」ことになるのである。「収奪」とはこのように「そのもの」から、その「もの」を分割することによってはじめて可能となるのだ。
〈つづく〉
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