脱学校的人間(新編集版)〈34〉

 子どもは大人から、なかんずく親から強制的に働かされ収奪されている、それにより彼らは教育を受ける機会さえも同時に奪われているのだ。

 そのように判断し「親から子どもたちを守ろうとする」のは、一体「誰」か?

 言うまでもなくそれは「大人たち」である。

 ではその「大人たち」とは、一体「誰」なのか?

 まさしくそれは、「誰の親であるのかということが、その条件として一切問われない、他人の大人たち」に他ならないのである。

 「誰の親でもない他人の大人たち」は、彼らが守ろうとしている「その子ども」の親では当然ない。だから彼らにとって「その子ども」は、「そもそも最初から彼らから分割されて存在するもの」として、彼らの前に立ち現われるものなのだ。

 そんな彼ら「他人の大人たち」には、「働く子どもたちはみな一様に過酷な生活を送っている」かのように見える。しかし、もしそのように「子どもの生活」が過酷であるというならば、「その親の生活」もまた同様に過酷であるはずだろう。そしてその過酷さとはけっして、「親と子で別々にあるもの」ではないのだ。一つの同じ過酷な生活の中を、「彼らは共に同じように生きている」のである。

 しかし「彼らとは無関係な他人の大人たち」には、全くそのようには見えていない。子どもは親から一方的に強いられて、あたかも「親とは別に」過酷な生活をさせられているのだと彼らは見なすわけである。

 彼らの立ち位置である「過酷な生活を送っている親子の外側」から見れば、たしかに「親と子は別々なもの」であるかのように見えるのかもしれない。だからこそ「そういった過酷な生活を強いられた子どもを、それを強いている親から引き離して、それらを分割することが自分たちにはできる」と、その親子の外側にいる他人の大人たちは考えることができるわけなのであろう。そしてそのように「生活の過酷さを分割する」ことで、子どもは「それ自体としてある、彼自身の過酷な生活」から、彼=子ども自身を分割し、そこから引き離すことができるのだとも考えられるようになるわけである。


 内田樹は、ヨーロッパでは長い間キリスト教会(イエズス会)が教育の担い手となっており、多くの大学と初等教育機関を運営し、当地における学校教育を十九世紀まで支えてきた、そのようなキリスト教会が教育において追求したのは、何よりもまず「親の懲罰権」の制約であった、これは中世から続く教会の、親権介入の流れを汲んだものであると、以下の引用を論拠に主張している(※1)。

「…子どもは神が創ったものであるから、どんなことがあっても、よきキリスト教徒にしなければならない。両親は子どもを、自分たちの好きなように扱ってはならないし、殺してもいけない。神の贈り物にせよ、背負うべき十字架にせよ、両親は子どもを、自分の所有物のように酷使することはできない。…」(※2)

 つまり、子どもは「神が創ったもの」であるとして、その両親からは「そもそも分割されている、自立的な存在」であるように見出す見方は、「誰の親でもない、教会の大人たち」の判断として古くから共有されていたのだ、というわけである。

 しかしあらためて言うと、親は子どもを自分の所有物のように「酷使する」ことは、そもそもできない話なのだ。もちろん「殺してしまう」などといったこともできるものではない。それは「自分自身を酷使し、殺してしまうことになる」からである。

 もし親が自分の子どもを「自分のもの」であるかのように酷使し、あげく殺してしまうことができるとしたら、そのときにはもう「その子ども」は、すでにその親自身にとって「自分自身ではないもの」になっているはずなのである。すでに「それ」は、もはや自分の手足ではない「もの」として、すなわち自分の「外側にあるもの」として、彼自身からは分離分割されているものなのだ。そしてそのときにもし「それ」が、自分自身にはもはや不必要と判断されたならば、それはたしかに「かつて親だった者」によって廃棄され殺されることにもなりうるのだろう。そしてそのときはもちろん、それが「かつては自分の子どもだった」という判断すら、その「親だった者」においてはすでになくなっているはずなのであろう。

 このような、いわば「記憶喪失」が生じることによってはじめて、親は子どもを収奪し、これを酷使したあげく殺してしまうことも「できるようになる」のである。そしてこの記憶喪失をもたらすのは他の誰でもない、「誰の親でもない他人の大人たち」による判断と振る舞いであり、彼らに「自分の子どもを奪われること」によって、親たちは「我が子がそれまで自分自身そのものであった記憶」を喪失すると共に、自分自身がこれまで微塵も疑わず心底信じきっていた「親と子」にまつわる因習的観念をも喪失するのだ。

 しかし、災い転じて何とやら。この記憶喪失が実は、親において「あることを気づかせる契機」になっていくことになるのである。


〈つづく〉


◎引用・参照

※1 内田樹「街場の教育論」

※2 バダンテール「母性という神話」鈴木晶訳


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