脱学校的人間(新編集版)〈30〉

 一定の年齢に限定された、しかも年若い「子どもと呼ばれる期間」に限定されて教育が施されることに異議を唱えるフロムの主張は、むしろ少し前に日本の某自称社会学者氏が提唱していた「保育園義務教育化」なるものに、逆説的にだが一脈通じるところがあるだろう。そこで言われるのは要するに、人が「子どもたち化された状態」を「上」に拡大・延長するのか、それとも「下」に拡大・延長するかという違いだけである。

 しかしもちろん、たとえそれを下に向けて拡大・延長した場合にでも、そこで「そもそもの教育の意図」はきっと果たされえないだろう。


 今一度言っておくと子どもというものは、そもそも「子どもたちとして」生まれてくるのではない。つまり「一定の年齢にならないと子どもは、子どもたちと呼ばれるようなものにはならない」のである。

 ではどうして、そのときになってはじめて子どもは「子どもたちになったと呼びうるような存在」として見出されることになるのか?

 単純な言い方をするならば要するにそれは、彼らが「扱いやすい年齢になったから」ということになるのだろう。そして人を「子ども扱いすること」の効果は、「子ども扱いされる側の意識」も同時に必要になるのだ。つまり教育というものが成立するためには、「自分は教育されているのだ」という意識が「教育される側」においてもまた同時に必要となってくるのである。

 子どもが生徒として学校に回収される時期が「ちょうど物心がつく年頃」に当たると考えれば、その「一定の年齢」という設定についても、それなりに合点がいくところとなる。教育とは一体、そもそも「子どもたち」に何をしようと意図しているのか。その「意図」というものをあらためて考えてみれば、そこには最低限でも「物心という程度の自意識」が必要になってくることが理解できる。けっしてわかり過ぎず、しかしわからな過ぎず。その程良い「塩梅」の時期というのが、まさにこの「学齢期」となるわけだ。

 要するに「教えられている意識」を判然と持たない者に対して、「教育」はそもそもの意図として成立しえないということなのである。


 むしろ子どもが学齢に達するまで、教育上の「公的な責任」が及ぶことなく、家庭という「私的な領域」に放置しておくことは、「教育の意図」としては必要なプロセスなのだと言えよう。なぜなら社会的な意味合いにおいての「価値」とは、まさにそのような領域において作り出されるものだからである。「だいたい同じ」という一定の基準にもとづいた「ちょっとの違い」が、この社会においては価値となる。ゆえに「だいたい同じである」状態 を作り出すことをそもそもの意図とする教育において、「ちょっとの違いを含んで回収すること」というのは、「価値」として子どもたちを社会に送り出すためには欠かせない要素なのである。

 とはいえ、フロムや某自称社会学者氏のような発想が出てくることについては、教育に意図を含ませる側としてはむしろ思うツボであろう。彼らのような「高い学識を持つ者」においてさえこういう発想しか出てこないような「一定の環境」を作り出すのも、まさしく教育の意図としての主眼でもあるのだ。このような環境がますます拡大・延長されることによって、「子どもたち化された人間」の社会的な欲求も、ますます「教育」に向けて一元的に還元されていくことになるのである。


〈つづく〉


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