すれ違う想い

あいえる

すれ違う想い

 

 

 我は猫という生物らしい。どこで生まれたのか、どこで生きてきたのかなんて覚えてないし思い出したくもない。


 何故なら今しがた我を夢中にさせているものが目の前にあるのだから。過去なんて気にしたってしょうがないじゃないか。


 我の何倍もの身体を持っている、どうやら人間という生き物らしい。それが我が夢中になっているものである。


 いつだったか、我よりも背の高い植物が生い茂った庭に迷い込んだのがきっかけだった。


 ふわり、不思議と身体が浮かぶ。同時に視界が開けて、初めての視界の広さに心が躍ったものだ。だが、それもすぐに終わった。


 どうしてかって? 理由なんて簡単さ。


 その時は初めての体験に夢中だったからすぐには分からなかったが、次に視界に入ってきたものが原因であった。


「あれ、君どうしたの……?」


 そう、人間とやらに掴まれてしまっていたのだ。


 何を話しているのかなんて分かるわけもなく。ただニャーと答えるだけに終わってしまったが。


 それが我が初めて人間とお喋りをした瞬間だった。


 そんな不格好な我を見たからなのか、この人間の癖であるのか。その恐ろしい程に大きな口を横に伸ばすのだ。小さな息を何度も吐いていた気もする。


 後々、猫仲間からの情報で知ったことなのだが彼女は笑っていたらしい。


 人間は嬉しいとき楽しいときに笑うものらしい。果たして彼女はあの状況の何が楽しかったのか、それとも嬉しかったのか我にはちっとも分からない。


「な~に~? 迷っちゃったの~?」


 やめてくれ。


 確か、我はその時そんな風に思った気がする。昔のこと過ぎて忘れてしまった。


 ムニムニと我の身体を揉みしだくのだ。脚を動かしても地面には程遠いし、手を動かしても人間への抵抗にはならないらしく。我は暫くされるがままになっていた。


 勿論、意志疎通を試みてみた。勘弁してくれって鳴いてみたよ。


「ん~? ここがいいの~?」


 いや違うが。


 いや確かに心なしか心地の良いものであったような気もしなくもなかったが、うん。それもあって人間の好きにさせてみたのだ。あえて、というやつだよ。


 どうやら意思疎通はとても難しいのだと、その時に悟ったのだ。


 悟ったといえば、もう一つ。


 我が生けるうおを逃がさんと掴むかの如く。我がいくら暴れようとも逃がしてはくれないのが人間であるのだと、そう学んだ。


 人間の全てがそうであるとは限らないが、少なくとも目の前の彼女はそうであるのだと学んだのだ。


 我を弄りまわして満足したのか、彼女は我を地面へと降ろしたのだがまぁ扱いが雑であった。


 人間も我らのように赤子を持つものだと記憶していたが、どうやら違ったらしい。我の記憶が正しければ、決して小さきものをぞんざいに扱うはずがないのだから。


 ちなみにだが、その時に遭遇した人間がメスであることは後に知ったことである。その時は全くもってメスなどと考えもしなかったな。同じオスであろうと決めつけていた。


 物知りの知り合いが多いと自身の誤った認識を正すことができるのは良いことだな。今度何か持っていってやろう。


「あ、今日はどうしたの? 日向ぼっこ?」


 うむ、取り合えず鳴いておくか。


「私もご一緒していいかな?」


 うむ、何を言っているのかさっぱりだが取り合えず鳴いておこう。


 コミュニケーションが大事であると認識しているのは猫も人間も同じであるらしい。


 ここ、つまりは彼女の住処に通うようになってからというもの、必ずこうして話しかけてくるのだ。人間は縄張りというものが無いのかその辺り緩いのか、一度も我は怒られたことがない。


 怒られないのだから、いてもいいだろうと思い通わせてもらっているのだ。


 ふむ、思い出を掘り起こしている間に時間が経ってしまったのか。日が昇り始めて暫く経つが、彼女はどうやら寝坊助らしくいつも起きてくるのが遅いのだ。


 一度、彼女の寝床に忍び込んだことがあるのだが時もそうだった。日が昇っているのにもかかわらず寝ていたのだ。


 初めて人間の寝床に侵入した緊張もあって、その時は何もしないで寝床を後にしたのだが。今度、気が向けば起こしに行ってやろう。


「にゃんちゃん、私死にたいんだよねぇ~」


 いつも同じような鳴き声を聞いている気がするが、何も返事をしないのも悪い気がするのだ。だから我はいつものように鳴いて返す。


 流石に我の知り合いも人間の言葉なるものを理解することはできないらしく、完全な意思疎通は未だにできていない。


 呼ばれた気がする、喜んでいる気がする、怒っている気がする。それくらいは理解しているつもりだが、正解が分からない以上真実はドブの中である。


「にゃんちゃんが来なくなったら、自殺しようかなって」


 なにやら楽しいのだろう。笑っているから間違いない。


 彼女が笑うと不思議と我も嬉しくなる。だから、そういう時は決まって彼女に寄り添いに行くのだ。


 我が身体を寄せると、彼女も嬉しそうに笑ってくれている気がするから。


 この時間が途轍もなく好きなのだ。


 きっと、彼女もそう思ってくれていることだろう。


「ん~、優しいねぇ~」


 ただ、一つ気になる事がある。彼女の前足にはいつだって傷があるのだ。


 怪我すれば痛い。それくらい我にだって分かる。猫だろうと人間だろうとそれは変わらないはずだ。だから、痛みを消すために怪我というものは治るものなのだ。


 なのに、いつまで経っても彼女の傷は治らない。それが不思議で仕方ないのだ。


 撫でてくれたお礼に彼女を舐めてやるのだが、どこか嫌な感じがする。相当に重い怪我であるのだろうと予想できる。もしくは何かの病気を患っているのか。


 だとしても、我にはどうすることもできんのだ。それが唯一の悔しい点だな。


「……行っちゃうの?」


 散歩をしてくるだけだと、そう伝えようと鳴いてみるが伝わっているだろうか。伝わっているといいな。


 昔は壁のように生えていた雑草も、既に我専用の道ができている。


 そこを通って彼女の元を離れていくのは、いつものことだった。


 気ままに歩き、気ままに寝転び、気ままに身体を転がして。何をするにも我の気分次第。


 気分など関係無しに行動することなんて、彼女の元へ足を運ぶことぐらいである。


 特別というやつであろうか。いや、最早日常に近いものとなっているから、なんら特別でも何でもないことか。


 我もあそこが心地良いのだ。場所が気に入っているのか、彼女を気に入っているのかは分からない。


 どちらであるのかなんて考えても意味はないとは思いつつも、毎度のように考えてしまう。


 我はあの場所が好きなのか。我は彼女が好きであるのか。


 うむ、気分が乗った。確かめてみよう。


 暫く彼女の元を離れ、確かめるのだ。


 恋しく思うのは果たしてどちらなのかと。いい機会だ。古い友人にも顔を出してみよう。


 少し遠出になるが、まぁ問題あるまい。


 我の足なら日が二度ほど昇る頃には戻ってこれるだろう。あまりにも遅くなると彼女も心配するだろうしな。


 我が大丈夫でも彼女が大丈夫ではないかもしれない。うむ、その可能性も考慮せねばならんな。


 素早く移動するには暑さが敵だ。日が出ている内は暑いから日が落ちてから移動するとしよう。


 では我は寝るとする。


 起きたぞ。起きた。


 日は既に落ち、随分と快適な道となった。これならば日が昇るまでには友の元へ辿り着けることだろう。


 人間どもの住処の隙間を抜け。細い足場を通り。時には頑丈なその上を通っていく。


 我にはなんてことはない道だ。


 知らぬ顔の同族など今は無視だ。厄介なもので、下手に近づくと喧嘩になってしまうことも多くあり大変なのだ。迂闊に近づかないのもコミュニケーションの一つだと言えるだろう。


 その甲斐あって、喧嘩を売られることもなく無事に友の住処へとたどり着くことができた。


 どうやら奴はまだ眠っているらしく、起こすのも悪いので勝手ではあるが邪魔になろう。


『む、もう少しそっちに行けぬか』


『みゃ……? んー……』


 我の場所を空けてもらい、というか無理やりに入り込んで日が昇るのを待つことにする。まぁ、待つと言っても共に寝ることになるのだが。


 何を話そうかと考えている内に我、就寝。


『んにゃぁああーー!?』


『むっ、なんだ敵かっ』


『この変態っ!』


『ふぎゃっ!?』


 我、顔を引っかかれた。


 日が昇り始めた頃、空が徐々に明るさを主張し始めた頃であった。


『一体どうしたというのだ』


 しかし我、大人なので怒りはしない。きっとなにか事情があったのだろうからな。


『どうしたもなにも、勝手に隣で寝てる変態がいたからに決まってるでしょ!』


『む、我の他にも誰が来ておったのか』


『あんたのことに決まってるでしょー!』


『ふぎゃぁっ!?』


 我、決して変態ではないことを主張したい。


 しかしながらどうやら非は我の方にあることを悟る。頭を引き、身体を伏せ、尾をしまい込む。


『すまぬ』


『……次はないんだから』


『うむ、気をつけよう』


 そっぽを向いているようで、実のところ我から目を離さない。これは完全に警戒されてしまっているな。


 何やら余所行きの声色からしても、どこか心の距離が開いてしまったのではないかと心配になってしまうのだが。


 いや余所行きの声色は前からそうだったか。久しく会っていなかったせいだろうか。


 奴の名はない。我もない。人間の住処に棲みつく猫とはちがい、我らには名はないのだ。


『で、何しに来たのよ』


『うむ、少し話をしたいと思ってな』


『え、ホント? 嬉しいっ』


 ご機嫌な姿を見ると、やはりこちらも嬉しくなる。わざわざ会いに来た甲斐があったというものだな。


 まぁ、こうなってしまうと基本的に我は聞き手に回らざるを得ないのだが、それはそれで面白いから問題は無い。こ奴の話は何かとタメになるからな。


 人間についてのことも、色々と教えてくれたのもこ奴だからな。


 こ奴は我には無い力を持っておる。観察眼というか洞察力というか、そういった部分に長けておるのだ。


 人間どもの住処に入り込んでも怒鳴られないのは、そういった優しい人間であることを見抜いているからだろうし。愛嬌の良さといえばいいのか、話を聞く限りでは良く可愛がられているらしいし。


 頭が人間に近いのかもしれないな。


 それは偏にこ奴の努力の成果とも言えるが。少しづつ人間のことを分かろうとするその姿勢は見習うべきところである。


『それでね、沢山のオスが来たんだけど私全部断っちゃった』


『良いオスに巡り合えんのは昔からだな』


『あんたがそれを言っちゃう?』


 む、何やら呆れられた目で見られるのは何故か。


 決して話半分に考え事をしていてそれっぽく返事をしていたからではないとは思いたい。


『またあの人間のことでも考えてたの?』


『いや、今はうぬのことを考えておった』


『え……、ちょと。やだ……もう……!』


 恥ずかしがっているのだろうか。尾をピンと立てている時は……喜んでいるのか?


 理由は分からぬが怒られるよりは万倍も良いか。


『…………』


『…………むぅ』


 それにしても、こ奴は白い毛であるのだろうが少し埃かぶってしまって少々くすんでしまっているな。


 野良として生きていく以上仕方がないのかもしれないが、残念に思う。人間の手にかかればきっと美しい色を取り戻すだろうにと思うのだ。


 我は彼女のおかげで多少なりとも汚れが落とせているのだが、そうか。こ奴も彼女の元に連れていけばいいのか。


『ぬ、そうか』


『ん、どうしたの?』


『うぬも一緒に来ないか』


『え、やだ……! 今日のあんたってば積極的過ぎない?』


『いやな、今日はそういう気分なのだ。出発は明日にしよう』


『ん~、お引越しは久しぶりだけど、あんたと一緒ならいっかな』


『引っ越し……? うぬは住処を変えるのか?』


『え、いやだって今一緒に来いって』


『あぁ、すまぬ。それはあの人間のメスに会いに行こうって話で』


『うにゃぁああ!!!』


『ふぎゃぁっ!?』


 何やら擦り寄ってきたかと思えばまさか攻撃のためだったとは。


 油断ならぬ奴よ。


 なんとか説得はできたから、こ奴を彼女の元に連れていくことができそうで良かった。


 今日は一日ここらでゆっくりして、出発は夜だ。明日の朝に着くであろう予定である。


 あぁ早く彼女に会いたい。


『……そうか、我は彼女を好いているのか』


『はぁ、何よ急に』


 我が好いていたのは場所なのか、彼女であるのか。その疑問について考えていたことを伝えたのだが、何故かその考えを理解してもらえない。


 人間よりも猫を見て、だそうだ。


 いや全くその通りではあるのだろう。しかし、もう気が付いてしまったのだ。時すでに遅しであるのだ。


 この気持ちの高まりは何だ。


 彼女のことを考えるだけで尾が落ち着かなくなる。彼女のことを考えるだけで尾が立ってしまう。彼女のことを考えるだけで、苦しくなってしまう。反対にどこか幸福を感じる自分がいる。


『これはなんだ』


『……恋、かしら』


『馬鹿な。我は猫で彼女は人間だぞ』


『じゃあ他になんだっていうのよ』


 これが噂に聞く恋というやつなのか。物知りなこ奴が言うのだから可能性としてはかなり高いのかもしれないが、納得しきれない。

『うぬは恋をしたことがあるのか』


『現在進行形で』


『それは初耳だな』


『だって今まで言わなかったもの』


 語った。


 それからはお互いに語った。


 陽は動き続け、そして落ちていく。今夜は月明かりが良い日であった。動きやすく、猫二匹を追うかのように雲に隠れることなく月も見守ってくれていた。


 どこだったか。少し休憩と立ち寄った人間の住処の屋根の上。


 日中に睡眠が取れなかったせいで、少し眠気に襲われてしまったのは致し方のないことであった。


 風通しの良い屋根の上では少し身体が冷えるだろうと、我はいつも以上に身体を寄り添うようにと思ったのだが。どうやらそれは隣を歩いていたこ奴も同じであったらしい。


 どこぞの画家なる人間の種族からすれば絶好の一枚になることだろうと、我ながらに思う。


 どれくらいの時間そうしていたことだろう。


 気付けば陽は昇り始め、既に空は明るくなっていた。


 早起きの人間は道を歩いている。黒い人間や、小さな人間。多くの人間がいるのだと、改めて思うこととなる。


 あぁ。今頃、彼女はどうしているだろうか。まだ寝ている時間であろうが、気になってしまうのは恋だからだろうか。


『……なにかあったのかな』


『確かに、起きかけにしては少々騒がしい』


 そこらの人間よりも大きくおかしな形をしている生き物。人間を中に入れ動き回る、少し変わった生き物だ。


 こ奴が言うには車だというものなんだとか。実は生き物じゃないかもしれないって言われても、イマイチぴんとこない。


『お巡りさんってやつかもね』


『それはどういったものなのだ』


『縄張りを見回るボスじゃないかな、多分』


 そのお巡りとやらは何やら焦っているような。


「この辺りでこの娘を見かけませんでしたか?」


「いえ、見てませんが。何かあったんですか?」


「詳しくはお話できません。もし見かけましたら110にお電話を」


「はぁ、分かりました」


「ご協力ありがとうございました」


 近づいて様子を確認するものの、詳しい事情などは分かるわけもなかった。


 まぁ恐らく治安維持というやつだろう。縄張りに良からぬ者がいないかの確認とかだな。


 もしかしたら悪い人間が入り込んでしまっているのかもしれない。であれば、我らも急ぎたいものだな。


 たった一日会えなかっただけだが、心配になってしまう。


 彼女は確か一人で暮らしていたはずであるし、悪い人間に襲われないとも限らない。時折誰かが訪れていた様子であったが今日にその人間らが訪れるかは分からない。


 もしも悪い人間に見つかってしまえば彼女ではどうすることもできないのだ。怪我もあるし、何より彼女はメスなのだ。


 我を軽々と持ち上げるとはいえ、人間の中では非力な存在に分類されていることだろう。


「やだ、聞きました?」


「あぁ、自殺の子がどうたらって話でしょ?」


「そうそう、怖い話よねぇ」


 通りすがる人間たちの言葉が理解できれば。


「あのちょっと暗い子でしょ?」


「何度か自殺未遂してたらしいじゃない」


「辛く生きるより、死んで楽にって考えだったのかしらね」


 なにを話しているのか、我が理解できれば。


 どこかおかしい、いつもの道を通る。いつもの道を一匹ではなく今日は二匹で歩く。


 彼女はどんな顔をして迎えてくるのか。そんな話を、こ奴は呆れながらもちゃんと聞いてくれる。


 彼女に身体を洗ってもらったらどうだと。そんな話を、会話として成立させてくれるのはこ奴だけ。


 そんな我の友を紹介できるのはとても嬉しい。楽しみなのだ。


『む……?』


『どうかした?』


『彼女の匂いがする』


『まぁ、人間なら住処の外も自由に出歩くのは当たり前でしょ。そんなに驚かなくてもいいんじゃない?』


『陽が昇り始めた頃に出歩いていたことなど、我が通い始めてからは一度もなかった』


『……辿っていく?』


『うむ』


 探す。


 我はその匂いを頼りに、探す。


 より強くなっている場所を辿って、彼女を追いかける。


 そんなに我の嗅覚は強かったか。それだけが疑問であるが、我の感覚に頼る他ないのだから結果など考える前に行動しなければ。


『これが恋の力か……!』


『馬鹿言ってないで死ぬ気で探しなさいよ』


『う、うむ』


 次第に人間の数も増えていく。それが意味することなど、我には分からない。


 分かるのは、確実に匂いが強くなっているということだけ。


 水の音も近づいてくる。確かこっちには川があったはずだな。大きな橋もあったはずだ。


 そこに何か用事でもあったのか。人間と会う約束でもしていたのか。我には人間のすることなど見当もつかない。


「見た?」


「見た見た。警察が橋んところに集まってたよな」


「なんかあったんかな」


「さぁ? 自殺とかでもあったんじゃないか? 前にもあっただろ」


「あぁ、なるほどな。探偵じゃん」


「だとしたら日本中探偵で溢れかえってるな」


「確かに……やっぱ探偵じゃん」


 橋の寸前まで来たところで。


 匂いがぐちゃぐちゃになってしまったために彼女を辿れなくなってしまった。


 あっちからこっちから人間が来て行って、匂いがかき回されてしまったのかもしれない。


 地に近づけていた鼻を上げれば、自然と視界が広くなる。彼女に抱きかかえられた時に比べれば随分と低い位置ではあるが、匂いを頼りにするよりもマシに思う。


 人間のせわしない足に蹴り飛ばされないように気をつけながら、進む。


 橋を渡った先に彼女がいるのか橋を渡っている最中なのかは分からないが、この橋を通ったことは確実に思える。


 少し、心配だ。


 彼女はどこか頼りないところがあったから。それに怪我もしていたし、身体が弱いのだろうに。


 川にでも落ちていないかと心配になる。


『川に落ちたから騒ぎになってるのか?』


『……どういうこと?』


『彼女は多分身体が弱いんだ。腕とか傷だらけだったし、全然治らなかったし。病気だったのかもしれない』


『……まさか……?』


『早く行ってみよう』


『ちょっと待って』


『む?』


 焦る我を何故止めるのか。川に落ちているにしろ落ちていないにしろ急いだ方が良いだろうに。


 なんだ、その顔は。


『……あのね』


『なんだ』


『人間って、不思議な生き物でね』


『それは前から知っているぞ』


『だから、その……』


 言いたい事があるのなら早くして欲しい。どうしてそんなにも申し訳なさそうな顔をするんだ。どうしてそんなにも悲しそうな顔をするんだ。どうしてそんなにも、何を怖がっているのだ。


『……物知りなうぬは何か知っているのだな』


『絶対そうだとは言えないけど』


『うぬの言葉を聞く方が、彼女を探すよりも大事なことなのか』


『あのね。人間って、自分で死にたくなることがあるんだって』


『何を言ってるんだ?』


『そういう人は腕に傷を自分でつけたり高いところから落ちたくなるんだって』


『……彼女が、彼女がそうだって?』


『…………分からない。でも、覚悟した方がいいかもって思って』


『分からないのなら、確かめるだけだ』


『そう、だね』


 人間の塊を馬鹿正直に抜けはしない。


 人間の通らない橋の端にある細っこい場所を通って、近づいていく。


 橋の下にも人間がいて、橋の上にも人間がいて。


 近づくほどに、何やら叫び声が大きくなっていく。


 誰が叫んでいるのだろう。お巡りさんとやらの声だろうか。


 エサに群がる我らのように、人間は騒ぎに群がる生き物らしい。それを悪いとは思わないが、今だけは鬱陶しいと思ってしまう。


 誰だ。騒ぎの中心にいるのは誰なんだ。


 彼女なのか。彼女とは別の人間であるのか。


 探していた彼女なのか。


「っ! こらっ、待ちなさい!!」


 誰かがこちらに近づいてくる。


 まだ遠くて誰なのか分からない。匂いも、頼りにならない。


「にゃんちゃんっ!!」


 その声に、我は思わず叫ぶように鳴いて返す。


 彼女が我を呼ぶときの言葉だ。それだけはハッキリと分かった。


「にゃんちゃんだっ、にゃんちゃん!!」


 これほどまでに熱烈な抱擁は初めてかもしれない。少し苦しいが、どうやらここは大人しくしていた方が良いのかもしれない。


 我は意外に空気の読める猫なのだよ。


『どうやら、早とちりだったみたいね』


『うむ、そのようだな』


「あら、そっちの猫ちゃんは……? もしかしなくても奥さんかな?」


 何を言っているか分からんが、取り合えず鳴いておく。


 いつも通りと言えばいつも通りのやり取りだ。


 何ら変わらない、我と彼女のやり取り。


「ほ、ホントに猫を探してただけかぁ!」


「最初から、私、言ってましたっ……!」


 何やら怒っているのか? あいつが悪い人間なのか?


 であれば我も威嚇をするべきなのだろうか。


「私ね、にゃんちゃんが来なくなって心配だったの。心配で、会いたくって、いっぱい探し回ったんだよ?」


 うむうむ。ここは話を合わせないとな。


 どうすれば話を合わせられるのか分からぬが、きっと擦り寄っていれば間違いないだろう。


 彼女と同じようにするのが正解なのだろうと、そう判断する他ない。


『なんか分かんないけど、彼女が無事で良かったね』


『うむ、一日会えなかっただけで普通じゃないことが起こってしまうのだと学ぶことができた。今後は気をつけよう』


『……それって、わたしも一緒だと困る?』


『む? いや、問題ないが』


『じゃあ、あんたと一緒に彼女を見ててあげる』


『うぬがそれで良いのならばな』




 なんて、そんなことがあってからどれくらいの月日が経ったことだろう。


 我は子供もできて、彼女にも子供ができて。


 お互いに子育てに苦戦しているところだ。


 誰との子供かだって? そんなことは聞くまでもないだろうに。


 彼女も、我らが棲みついてから随分と変わったようにも変わらないようにも思える。


 痕はあるもののあの腕にあった傷自体は無くなり、以前よりも多く笑うようになった気がするのだ。


 中の部分は変わっていないのは間違いないのだが、外の皮が変わってしまった感じがする。


 だからこそ我と同じように番いとなる人間を見つけ、子を成すことができたのだろうと思う。


 ……我は、まだ彼女に恋をしているのだろうか。


 彼女は我に恋をしてくれていたのだろうか。


 あの時の気持ちは、今も変わらない。あの時以上に強くなっている気もする。


 彼女は、同じ気持ちでいてくれているのだろうか。


 こんな考えは、我の妄想に過ぎないのだろうか。


「にゃんちゃん~? どこ~?」


 我の名前はにゃんちゃん。


 彼女がそう呼ぶのだから、我はにゃんちゃんなのだ。


「にゃ・ん・ちゃ~~んっ!!」


 少しでも彼女の問いに遅れれば彼女はすぐにでも泣き出してしまうのだから、おちおち昼寝もできない。


 鳴く。


 我は鳴く。


 我はここにいるぞと、彼女に伝えなければならないからだ。


 あぁ、この気持ちは。


 まさしく恋というやつなのだろう。

 

 

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すれ違う想い あいえる @ild_aiel

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