家族×火事

 自然光の入らない部屋の中、真っ暗だと初が怖がるから微かに点けていた灯りを頼りに初の目元の雫を指先で掬う。

 すーすーと可愛らしい寝息を立てるが、ほんの少し喉を枯らした音が混じり、目元に腫れが見える。


 ……初にとって、もう何日も経って涙も枯れた時期なのかもしれないけれど、それでも俺が人生で流した涙よりも多いだろうほど泣いていた。


 ベタベタに涙の付着したシャツの胸元を軽く手で触りながらソファから身体を起こす。流石に女の子とふたりで引っ付いて寝れるほど図太くはなく、毛布をしっかりと初にかけてから部屋の隅に移動する。


 部屋の隅に置いてあった幼児用の動物の家族とその家のオモチャを見る。可愛らしい色に着色された天井に指を這わせ、指先に埃のひとつもつかないことを確認して息を吐く。


 ……初が大切にしていたのだろうか。それとも親父か

 どちらか分からないけれど、いい家族だったのだろうということはよく分かった。


 代わりにはなれないな。と、理解して深くため息を吐き出した。


「……兄さん?」


 不意に不安そうな初の声が響き、いつのまにか起き上がっていた彼女を見てすぐさま返事をする。


「ああ、悪い。……寒かったか?」

「いえ……その、知らないうちに出かけてしまったかと思って……」


 甘えん坊だな。と軽く笑ったあとにソファの方に戻ると、初は充血した目を俺に向けて不安そうに毛布を引き寄せる。


「……目、少し腫れてるから目薬とか差すか。確か保存室に薬とかも置いてたしな」


 取ってくるから待っていてくれ、と、目で伝えたけれど初は一緒に立ち上がって着いてくる。あえて何かを言うようなことをせずに薬箱から目薬を取り出して部屋に戻り、照明を点けてから初に手渡すと初は俺の方に押し返した後、ソファにもたれかかる。


 ……俺にやれということか。

 隣に座ったあとトントンと自分の膝を叩くと、初は照れ臭そうに表情を崩しながら俺の膝に頭を乗せる。


「目薬差すから、目を閉じるなよ」

「はい。えへへ」

「ったく……」


 わざと呆れた風に振る舞いながら、甘えられていることに、俺を必要としてくれていることに安堵を覚える。


 初は俺の膝の上に頭を乗せる。

 俺は昼間よりも幼なげな表情の初の頬に手を触れさせて、トクンと鳴った自分の心臓の音を聞く。


「……怖くないか?」

「目薬を怖がるほど子供じゃないです」


 初は少しふて腐れたように唇を尖らせる。目薬ではなく、俺のことを尋ねたつもりだったが……目薬のことを聞いていると思うぐらいだったら、きっと俺は怖くないのだろう。


 数日前までは、こんな一人の感情に心を振り回されることはなかったのに、今ではそれが普通のことのように感じている。

 それは、これが恋というものだからか、それとも家族というものだからか……どちらかも分からない、俺はそのどちらもを知らないのだから、判断がつくはずもない。


「……兄さん?」

「いや、人に目薬を差すのは初めてだから慎重にしている」


 ぽたり、と目薬を垂らすと初の瞳に入り、涙と混じって目尻から垂れていく。指先で拭うと、先程の涙とは違う薬の匂いがした。


「……明日、やりたいこととかあるか?」

「ん……スポーツは苦手なので、ゆっくり過ごしたいです」

「ああ。まぁ、そうだな。日向ぼっこでもするか」


 もう片方の目にも目薬を差そうとすると、初はくすりと笑って目薬が別の場所に落ちる。


「おい、動くなよ」

「すみません。でも、日向ぼっこって……えへへ、いいですね、しましょうか、日向ぼっこ」

「……そんな変なこと言ってないだろ」

「んー、えへへ」

「ほら、動くなよ」


 もう一度目薬を差したあと、近くにあったティッシュで目元を拭う。


「……やりたいこととかないか? これから、ずっと研究詰めってわけにもいかないだろ」

「ん……兄さんはないんですか? その……あまりお出かけとかしたことないんですよね?」

「したことがなさすぎて具体案が出ない。この歳になって「遊園地行きたい」とは言いにくいしな」

「行きたいんですか?」

「いや、別に……楽しいかどうかも分からないしな。初は行ったことあるのか?」


 初は俺の膝に頭を乗せたまま「はい」と口にする。どうやら膝から降りるつもりはないようだ。


「小さいとき、お母さんも生きていたときに、行ったことがあります」


 ほんの少し気まずい答えが返っていて、俺は頬を掻きながら頷く。


「そうか、楽しかったか?」

「はい。……夢のような時間でした」

「……あー、わ、悪い」


 思わず気まずさに負けて謝ると、初は少し焦った様子で首を横に振る。


「い、いえ、別に思い出して悲しくなったりはしてないというか……す、すみません、私も気軽に昔の話とかして……兄さんは嫌ですよね?」

「いやいや、別に両親がいないことはそんなに気にしてないぞ。謝らなくていい」


 初と俺のふたりで慌て、それからふたりで顔を見合わせて微妙な表情で苦笑いをし合う。


「……えっと、その……お互い、若くして親を無くしてますね」

「あー、はは、そうだな。血の繋がらない兄妹が揃って両親不在ってのは、珍しい気がする」

「……えっと、お互いに昔の話がNGになってしまうと窮屈だと思うので……気にせずに話しませんか?」

「……辛くないか?」

「……話すことをせずに忘れてしまう方が辛いです。それに私……兄さんの話が聞きたいですから」


 初の言葉を聞いて、強く強く焦がれるような感覚が俺を襲う。

 もっと初に近寄りたいと、体が触れ合っている今でも思う。抱きしめたら満足出来るのだろうか、いや、きっと初を抱きしめてももっと初を触れたいと思うのだろう。


 肌と肌を触れ合わせても、きっとまだ初を想う焦燥感は消えないだろう。


「……どうしましたか?」

「初がかわいいことを言うもんだから……抱きしめるのを我慢してた」

「……いいですよ? 兄妹ですし、好き合っているんですから」

「いや……よくない。その、男としてな、弱っている最中の女の子を抱きしめるなんてのは……」

「膝枕とか一緒に寝るのはいいのに、ですか?」


 それを言われると否定出来ない……。俺が頭を悩ませていると、膝の上にあった初の頭が俺の腹にぽすっと埋められる。


「……たしかに今の私はとても情緒不安定です。すぐに泣いたり、笑ったり、感情の振れ幅が大きいし、激しいです」

「そこまでは言ってないけど」

「でも……お父さんが生きていたときに兄さんがきても、好きになっていたと思います。……その時は、お父さんに交際の許可をもらうのが難しそうですね」

「ああ……まぁ、こんなに可愛い子を俺みたいなのにたぶらかされたらな……。というか、親戚に説明するのも結構気まずいな」

「その時がきたら、私からしましょうか?」

「いや、俺が説明するし、俺が許可をもらうよ。そういうのは男の役目だろ」


 親戚に「兄妹だけど愛し合っているので交際します」と説明しないとダメだと考えると、それだけで胃がキリキリする。


 はあー、とため息を吐いていると、ハッと思い出す。


「あ、そういや、色々あったせいで定期連絡入れるの忘れてたな。あー、今のうちにメールしとくか、本当のことは何も書けないけど」

「まぁ、妹に手を出そうとしてますとは書けないですよね」

「いや、探索者の強盗の話な?」


 初はいたずらにクスクスと笑い、俺はスマホにメールの文章を書いてから「あー、メールを送るのに一瞬だけ外に出るな」と立ち上がると初も俺に続いて立ち上がる。


 まぁ数秒で済むから平気かと思って、初を連れて外に出る。

 少し寒さのある夜の街に出て、初と手を繋ぎながらメールを送信しようとして違和感に気がつく。


 風が吹いて頰を通り抜けていく。その風の匂いが、アスファルトの匂いでも植物の青臭さでもなかった。

 微かに……ほんの少し、焦げ臭い。


 街灯の灯りに夜の空が照らされている。その暗雲が地面へと手を伸ばすように落ちている姿を見て、俺と初は動きが止まった。


「……へ?」


 初の高い声が、あまりに静かな廃墟の街に響く。


 暗雲が地面へと手を伸ばしている……否、それは違った。

 雲の元が空へと伸びていた。黙々と、俺たちの家がある方向の地面から煙が立ち上っていて、その光景が信じられずに二人して立ち尽くす。

 数秒か、数分か、どれだけの時間が経ったのか分からないが初がポツリと溢す。


「……行かないと」

「っ……お、おい、初!」


 まだ俺たちの家が燃えているとは限らない。別の家かもしれないし……ただのボヤかもしれない。けれども初が冷静になれるはずもなく、彼女は真っ暗な夜道をもがくように前へと進んでいった。

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