ひとりぼっち×ストックホルム症候群

 親父は俺に会わなかった。


 そのことに全く何も思わないかと言えば、そんなことはない。不貞をした母や、不貞の子供である俺と会いたくないというのは理解出来るが……初の言う通り、それは理屈であって俺の気持ちではないのだ。


 ……本当は、いつか父が助けに来てくれるんだと思っていた。


 自分で洗濯が出来るようになるまで洗濯もされていない服を何週間も着ていた、そんな臭くて汚い奴が小学校に行けば当然嫌われる。


 仲間はずれにされるし、遠巻きにされるし、気持ち悪がられ、敵として接される。


 今思うと仕方のないことだ。明らかな異物であったのは理解出来るし、教師だって嫌悪感を隠せていなかったのに子供がその不快感に攻撃しないはずはない。

 けれども俺は飯を食べるためには学校には欠かさず行く必要があった。


 絵本で、子供のピンチに親が助けてくれるというものを見たことがあった。それが当然のように描かれていたものだから、助けてくれない母は偽物で助けにきてくれる本当の父母がいるのだと信じていた。


 研究室の中の空気を噛み、近くの棚にもたれかかる。


 覚えていたなら……パスワードを打ち込むたびに俺のことを思い出しても不快にならないのなら……助けてくれればよかっただろ。


 母親が突然いなくなって施設に行って父方の親戚が来たとき……親父に会えるんだと、本気で喜んだことを思い出した。

 人生で一番喜んだ瞬間だった。会うことは一度としてなかった。


 多分、今の俺の感情はちゃんと隠せている。

「ふざけるな」と叫びたい気持ちや、覚えていてくれたことに大喜びをしたい気持ち、あるいは大量に浮かんできた疑問。

 それをちゃんと隠して、困惑の表情に収められているはずだ。


 なのに……初は俺の隣にいた。


「……初、さっきパソコンの画面を見たとき「初へ」って名前のフォルダがあった。多分、手がかりだ」

「はい。確認しました」

「……見た方がいいんじゃないか」

「ちゃんと後で見ますよ」


 大切なことなんだからすぐに見た方がいいだろう。そう思っていると、初は心配そうに俺の顔を覗き込む。


「……大丈夫、ですか?」

「……いや、それは俺の言葉だろ。初は今から十日ほど前に死んだ父の遺言を見るんだぞ? ……客観的に見て、心配されるのは初の方だろ」

「そうかもしれません」

「……あー、まぁ俺がいると安心して読めないだろうし、休憩室の方に行ってくるな」


 そう言って俺がその場から離れようとすると、初は俺の裾を摘んで後ろを着いてくる。

 少し怪訝に思っていると、初は俺の方を見て小さく口を開く。


「私は……今、あなたの隣にいたいのです」


 困ったような、けれど優しそうな表情。

 幼さの残った顔がより一層に幼く見えるような、純粋に心配をしている表情。パソコンの画面は付きっぱなしのまま俺と初は休憩室に入った。


 初は俺の隣に座ったまま何かを言うこともせずにいる。

 何かを聞くこともなく、励ます言葉をかけることもなく隣にいてくれている。


「……初、見てきた方がいいんじゃないか」

「はい。私もそう思います」

「……じゃあなんで俺の隣にいるんだ」

「分からないです。……ただ、なんとなく……隣にいたいって」


 初はそう言ってから口を閉じる。

 なんだそれ、と、からかうような口にしようとして自分の唇が微かに震えていることに気がつく。


 ああ、自分はとても辛くなっているんだと理解する。


 それからゆっくりと口を開く。


「……初、ありがとう」

「何もしていません。何も出来てません」


 初の手を握る。彼女はそれを振り払ったりせずに、握り返してくれる。


「……初のこと、好きでいていいか? このままだと……多分、理性では離れられなくなる。俺は、初が思っているより弱い人間だから……初めて出来た大切な人を、離すことは出来ない」


 初は少し戸惑った様子を見せてから、俺の方をしっかりと見つめる。


「はい。好きでいていいです。私はこの言葉に責任を持ちます。兄さんが私を好きでいることを嫌がることは決してありません」


 その言葉にどうしようもなく安堵してしまう。失うのが怖くて仕方なかったのが、だいぶマシになって薄れていく。


「……ああよかった。……初、見に行こうかパソコン」

「はい。あ、飴をあげます」

「……はは、ありがとう」


 子供っぽく見られているのかな。俺の方が歳上なのに。

 口の中に飴玉を放り込んでから初と一緒に向かい、初がパソコンの前の椅子に座ってフォルダを開いたのを見届けて画面から目を逸らす。

 中身が気にならないわけではないが、俺は見ない方がいいだろう。


 背を向けた初のいる方向から、触れてもいないのに初の暖かさを感じる。


 ……ストックホルム症候群というものがある。立て篭もり犯や誘拐犯に被害者が好意を抱き、同時に犯人も被害者に好意を抱くことがあるそうだ。


 他に寄る辺がない状況下での犯人との他愛もない話や小さな親切は、本来なら絶対に信用出来ないはずの立て篭もり犯をその被害者に信じさせて愛させるだけの力があるのだろう。


 それはきっと、赤子が親を信頼して愛するのと良く似ているのだ。

 被害者も赤子も、目の前の人物を信頼しなければ生き残れない。愛さなければ心が壊れていく。


 目の前の人物が信頼に値するかとか、愛するに足りるかではなく……生存のためのものだ。


 極めて短い間に形成された俺の初への好意は、あるいは初の俺への好意は……単純に「他に何も持っていない」から芽生えたのかもしれない。


 子が親を愛するような純真さと、人質が立て篭もり犯を愛するような理性。その狭間に、俺の初恋があるのだろう。


 口の中にある甘味がやけに粘っこくて、嫌な後味を残しているように感じる。

 カチカチと、初がマウスを動かして口を開く。


「ありました。信頼出来る協力者がいるそうで、その人に頼ったらだいたい大丈夫だそうです。電話番号が載っていたので、一度外に出てかけましょう」

「よかったな。これで一安心か。……一応俺から掛けようか?」

「……じゃあ、お願いします。電話が苦手なので、ちょっと甘えてみます」


 しっかり者なのに電話は苦手なのか……というか、電話番号交換したけどいいのか?

 そう思っていると、初は恥ずかしそうにはにかむ。


「えっと、兄さんとは大丈夫ですよ。子供の頃、家の電話に出たら変な女の人にすごく怒鳴られて……」

「ああ、なるほどそういうことが……。ん……?」

「えっ……あっ……」


 初と俺は目を合わせて頷く。この話題はやめよう。


 ……もしこの電話がダメそうなら一度東京を離れて人の多い都会に移動した方がいいかもしれない。迷宮は遠くなるが、まず勉強からするべきだと言えば説得出来るかもしれないし、説得出来なくとも俺の立場なら無理矢理連れ出すことは出来るしな。


 そう考えていると、初は不思議そうに俺を見る。


「どうかしましたか? あっ、なんとかなったあとのことを考えてましたか?」

「……ああ、まぁ……そうだな」

「ん、ゆっくりでいいですよ。別に、何もしなくてもいいと思います。遊びに行ったりしなくても」

「……ああ、そうだ。この家のことをもっと教えてほしい。初がどうやって過ごしてきたのか知りたい」


 初は少し驚いた表情をしてからこくんと頷く。それから二人で家に戻り、俺のスマホから親父の協力者に電話をかける。


 数度のコール音のあと「もしもし、西郷くん?」という、予想よりも遥かに若い女性の声……むしろ幼さすら感じる高い声が、スマホから聞こえた。

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